ワールブルクの忘れられた遺産(癌は怖くない)

三分堂 旅人(さんぶんどう たびと)

第1章 遺されたアルゴリズム

スマートウォッチが午前2時17分を指す。神谷涼は、母の遺した研究ノートを、もう何度目かの深夜に見つめていた。


京大医学部の准教授として、最先端の癌治療研究に情熱を注いでいた母・神谷美咲は、わずか2週間前に他界した。突然の急性疾患。それは、最後の研究プロジェクト「Phoenix Protocol」が突如として中止された直後のことだった。


「癌細胞は、39.5度で代謝が低下し始める」


研究室の無機質な青白い光の中で、母が残した実験ノートの紙面だけが黄色く浮かび上がっていた。2030年の最先端医療研究施設で、紙のノートを広げているのは、明らかに場違いな光景だった。ここではすべてがデジタル化され、研究データは巨大なサーバに格納されている。紙の存在自体が、時代に逆行するような違和感を放っていた。


ノートの端には、美咲特有の几帳面な文字で患者の経過データが記されている。


「臨床試験被験者17番、体温38.9度で腫瘍マーカーの数値に有意な変化」

「被験者23番、糖質制限療法との併用で著しい改善」

「被験者31番、ミトコンドリア活性の顕著な正常化を確認」


その横には、さらに興味深いメモが残されていた。


"現行の抗がん剤治療と比較した場合のQOL(生活の質)の違いは歴然。なぜ誰も気付かないのか。まるで、気付かないように仕組まれているかのように..."


最後のページには、暗号のような数式群の下に、母からのメッセージが記されていた。


「涼へ。このデータは、私たちが100年も前から持っていた真実。あの論文を見つけて」


涼は、研究室のAI分析システム「HELIOS-7」に母のデータを入力し始めた。スクリーンには複雑なグラフが次々と描かれていく。データベースを検索すると、1924年にドイツの生化学者オットー・ワールブルクが発表した「The Origin of Cancer Cells」が浮かび上がった。


癌細胞の代謝に関する革新的な理論。それは、現代の標準治療とは全く異なるアプローチを示唆していた。癌細胞が持つ特異な代謝経路—ワールブルク効果。通常の細胞と異なり、癌細胞は酸素が十分にある状態でも、非効率な解糖系でエネルギーを産生する。この特性を利用すれば、正常細胞にダメージを与えることなく、癌細胞だけを標的にできる可能性があった。


母のデータは、この100年前の理論との明確な相関を示していた。しかも、従来の抗がん剤治療では深刻な副作用に苦しんでいた患者たちが、この方法では驚くべき回復を見せている。


「なぜ、これほど重要な発見が忘れ去られたのか」


涼の背筋に冷たいものが走った。この理論が正しければ、現代の高額な癌治療の多くは、実は不要だったことになる。それは、巨大な医療産業の根幹を揺るがしかねない発見だった。


突然、システムが警告を発した。


「Warning: Unauthorized Access Detected」


画面が真っ赤に染まる中、緊急メッセージが届く。


《神谷先生、母上の研究データにアクセスしているのを確認しました。危険です。至急、第三研究棟B階段へ。—天草》


天草志乃。母の最後の研究パートナーであり、AIシステムの専門家だ。涼は躊躇した。しかし、次の瞬間、研究室の照明が突然消え、非常灯だけが不気味な赤い光を放つ。


暗闇の中、セキュリティシステムの起動音が響き渡る。研究棟の自動ロックが始まろうとしていた。


階段側の扉が静かに開く。


「神谷先生、早く!」


志乃が手を振っていた。涼は即座に走り出した。母のノートを胸に抱きながら、暗い階段を駆け下りる。


「美咲先生から聞いていました」息を切らしながら、志乃が説明を始めた。「『もし私に何かあったら、息子が真実を暴いてくれる』って」


その時、志乃のタブレットが振動した。画面には衝撃的な文字が踊っている。


"Phoenix Protocolデータ復号化:開始"

"Warburg Effect Analysis:Correlation Rate 99.7%"


真夜中の研究所で、100年前に封印された真実が、静かに目覚めようとしていた。



▢▢▢ 次回予告 ▢▢▢


カタカムナの知恵と現代医学の融合。

天草志乃の手に託された、母からの暗号化されたメッセージ。

見えない世界と見える世界の境界で、新たな真実が明かされる。

次章「遺されたアルゴリズム」。古代の叡智が導く、命の神秘への扉が今、開かれる。

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