第2話 少女とは


 

 

 暖かい光。青紫の穏やかな光。

 その光が、横たわる私を照らし続けている。

 動かす事が出来たのは目だけ。顔や体は金属で固定されている。

 辺りには暗闇と静けさがあるだけ。

 透明なカプセルの中に、私は閉じ込められていた。じっと固まったまま、何かが始まるのを待った。

 ただ、私は冷静で、呼吸も穏やかで、頭の中も鮮明だった。

 

 暫くすると、足音が近づいてきた。固いヒールの、よく響く音。

 カプセルの向こうに現れたのは一人の女性。赤い髪をカプセルに垂らして、私を覗き込みながら、笑みで呟く。

あかり

 私も、恐らく笑っていたのだと思う。恐らく、というのは、そこで意識が潰えてしまうから。

 それが、私の幼い頃の記憶の始まり。

 そして、その一連が何度か繰り返される。

 

 女の人はある時、眼から流れる雫によって苦痛の顔となった。

 私は少し驚いた。でもその時もまた、いつもと同じ様にまた眠るだけだった。

 次に目を覚ますと、私はカプセルに入ったまま海に流されていた。体はまだ固定されていて、身動きは取れないままだった。酷く伸びた髪が顔に被さり、視界を遮る。でも、首を振ってそれを振り払う事も出来なかった。

 カプセルに合わせてゆらゆらと揺れ動く空は、初めて見るオレンジの色だった。

 オレンジはどこかへ消えゆくように、ゆっくり遠ざかる。

 空が黒くなる頃、どこかの海岸に流れ着いた。

 

 私の中には、知っている事の中に知らない事が存在したりする。

 それはどういう事かと言えば、見た事がないもの、の言葉を知っている、という事。それは空や海や海岸であったり、女の人という存在であったり、様々な色であったり。

 全く知らない事もある。それはまだ起こっていない事。これから私がどうなるのか、だったり、オレンジ色をまた見る事が出来るのか、だったり。

 

 私は動けないまま一日を過ごした。飢えと寒さで、体の感覚が徐々に失われてゆく。

 空は上品な青を終い、またオレンジを広げた。

 私は綺麗な青の方が好きだった。オレンジが来ると、空は焦げたようにまた黒くなってしまうから。

 黒は途方もなく寂しい気持ちになるから。

 

 そんな事を思っているうち、外から砂を踏む音が聞こえてきた。

 カプセルの外に白髪と白髭の老いた男の人が現れた。その横顔に照りつけるオレンジの陽に目を痛めつけられながら、怪訝そうな顔をして私を覗いてきた。

 そして、途端に目を見開いて言った。

「なんて事だ……」

 老人は、すぐさま私をカプセルから取り出し、救出してくれた。着ていた白い上着を脱ぐと、私をそれに包んで抱き抱え、そのままどこかへと運んでくれた。男の人は急ぎながら、荒く吐く息を私の肌に降らせる。そして腕を震えさせながら力強く、私の体を掴んでいた。

 

「ここが私の家だ」

 少しして辿り着いたのは老人の家だった。檜の香りと暖炉の温もりが優しく迎え入れてくれる家だった。

 老人は、私をゆっくりと下ろし、暖炉の前に用意した椅子に座らせてくれた。

 老人は私の前に恐る恐る跪き、私の長い前髪をたくし上げ、額に手の平を当てがった。そうして私の顔が顕になると、老人は私の顔のあちこちを確かめる様に見ていた。

 その目が驚きで固まると、老人は言った。

「君は一体どこから来たんだ」

 言葉は知っている。

 でも、私の事を知らない私は、ただ首をゆっくりと横に振るしか出来なかった。

 それが最適解だと思ったから。

 老人は、私に答えるようにゆっくりと項垂れ、やがて静かに決意した風に顔を上げた。

「待ってなさい。スープを持ってくるから」

 そう言って、家の奥へと消えていった。

 

 明かりが一つぶら下がっているだけの家の中。その明かりは弱々しくて、家の中は影ばかりだった。

 でも、冷ややかさを感じない影だったから、私はとても落ち着いていた。

 暫くすると、家の奥から美味しそうな匂いが流れてきた。甘さと香ばしさを含んだ、優しい匂い。

 

 老人はぎこちない笑顔を浮かべながら、暖かくて黄色いスープが入った器を私の元に運んできた。そして、私にそれを差し出して言った。

「さあ、温まるから。飲みなさい、急がずにゆっくり」

 受け取ったスープから立ち上る美味しそうな匂いで、涎が口一杯に広がった。器に口をつけて、口の中にスープをごくごくと急いで流し込んだ。体の真ん中に流れる熱いスープが、冷えていた体をまた震えさせた。

 今度はゆっくりとスープを啜る。コーンの甘味が口に広がると震えは止まり、温かいスープがお腹に貯まるのを感じた。

 老人の顔はすっかり穏やかな笑顔になっていた。私の前に椅子を持ってきて座ると、私に囁くように告げてきた。

「僕はアルマだ」

 アルマ。どこかで聞いた事のある言葉だったが、それ以上は分からなかった。

「君の名前は?」

 私は名前という意味をそれほど理解していなかったが、それが何であれ、答えられない事に変わりはなかった。潔く、また首を振った。

 老人は私の反応を見終えると、深い悲しみに浸るように暗い顔をする。そして、ゆっくりと椅子の背もたれに背中をあずけた。

 驚きや悲しみの色が老人の顔から失せる頃、ふと立ち上がり、近くの棚から銀色のスプーンを持ってきた。

 彼の手は震え始めていた。

「これを見た事はあるかい?」

 首を横に振る私。

「そうだね、しかしこれがどんな名前で、どのように使われているかは知ってるね?」

「うん」

 私が言うと、アルマという老人はすごく悲しそうな顔をして眼から雫を溢し始めた。手で目を押さえた風にしているけれど、雫が白い髭に垂れ下がり、床に落ちてゆく。

 私は、落ちた雫の変容を見守りながら、名前というものを理解した。

 名前とは、呼ばれる言葉のこと、だと。

 そして、微かに蘇る記憶があった。私が、誰かを呼んでいた記憶。

 何滴かを床に落とした後、鼻をすすりながらアルマは言った。

「じゃあ、手に持って使ってみなさい。手に持つ所は、ルコウソウの絵が書いてある所だ」

 私はスプーンを受け取り、スープを掬った。ルコウソウの絵の部分をしっかり握って。でも妙なことに、ルコウソウの絵がないスプーンを見た光景が一瞬、脳裏に蘇った。ただ、そこまで気に留めることはなかった。

 私は夢中でスープを何度も口に運んだ。スープは甘くて、とても美味しかった。

 アルマが泣き叫んでいる事に気づいたのは、スープを飲み干した時だった。

 アルマは白髪頭をこちらによく見せながら、大きな声で泣き叫んでいた。私は何故だか、泣いている理由が聞きたくなった。

「ねえ、何で泣いてるの」

 アルマは顔を上げ、私の顔を暫く見つめた。そして、雫を垂らしたまま笑顔で言った。

「奇跡というものに、漸く出会えたからだよ」

 言葉の意味は分からないけれど、アルマが喜んでいるという事は理解出来た。

 アルマは続けて、こうも言った。

「奇跡というものの前では、赤子の様に泣いていいんだよ。どんな者でも。私も、君も」

 私は何も返事をせず、スプーンを器にゆっくりと置いた。そしてアルマをただただ見つめていた。

 暖炉の揺めきがアルマを慰めるように、優しい煌めきで横顔を照らしていた。

 アルマは椅子をことっと音を立ててこちらに少し近づけると、眉尻を下げながらゆっくりと言った。

「君の名前は僕がつけていいかな?」

 私は戸惑いなく頷いた。何か、永らく開かなかった扉が開かれる瞬間のような開放感があった。

「君の名はあかりだ」

 アルマはそう言うと、私の頭をゆっくりと撫でた。

 私は、燈になった。

 途端に、頭の中に騒めくものが湧く。

 

「分かった、私は燈。女の人も燈って囁いてた」

 私はそう言って、無くなったスープの器越しから少しだけ注意深く、アルマを覗いていた。

 アルマが激昂する光景、私が追い出される光景、アルマの持つナイフが私を貫く光景、そういったものが頭の中で沢山ちらついた。そして、瞬く間に消えていった。

 頭の中はそれを境に、漸く落ち着いたようだった。

 現実のアルマは、驚いた顔のまま固まっていた。そして顔に皺を沢山作って、顔を手で覆い、大きな声でまた泣き叫び始めた。

 ふと思った。

 もし、奇跡というものの意味を理解したのなら、私もこんなふうに泣くのだろうか。

 暖炉の火が、またアルマを慰めるように揺れる。

 私は静かに指を伸ばした。

 アルマの頬に垂れる雫は、暖炉に照らされているからなのか、とても暖かい。

 指で掬ってきたその雫を、目先で見つめながら指で撫でた。

「懐かしい」

 私は不意に呟いた。でも、何が懐かしいのかは分からなかった。

 指先で冷たくなる雫も、何も教えてくれなかった。

 

 ただ一つだけ分かった事があった。

 それは、ここが安心出来る場所だという事。

 私は糸が切れた操り人形のように、床へ倒れ込んだ。

 

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