第2話
「あまちゃーん、英語の予習みーせて」
そう言って背中に絡みついてくる友人、藤ちゃんをひっぺがして、あたしはイタズラっぽくニヤリと笑う。
「逆に問おう……何故あたしが予習を終えてると思った?」
少しふざけて、厳しい口調で言うと、藤ちゃんは大袈裟に飛びずさった。相変わらずオーバーリアクションなやつだと、あたしは思う。
「まさか……やってない、と言うのか……⁉︎」
「無論」
「そんなぁ、いつもはやってきてんじゃん」
藤ちゃんはそう言ってまたあたしに抱きつき、肩に顎をのせた。生憎、今日は寝落ちちゃったからね、と諌めると、彼女は頬をふくらます。
「あまちゃんに見せてもらえないなら、わたしは一体全体どうしたらいいのさー」
「他の子に見せてもらうか、大人しく先生に怒られれば?」
「人でなしー! お前の血は何色だぁーっ」
ふざけて笑い合いながら、あたしはこっそりと藤ちゃんの頭上を盗み見る。そこには何もない。それに安堵して、ほっとため息をついた。
そうこうしているうちに予鈴が鳴り渡り、間もなく担任の教師が「ほら席座ってねー」と声を張り上げた。
藤ちゃんはあたしの隣の席だから、先生が提出物の確認などをしている間もこそこそとおしゃべりをする。
友達との会話は先生の一方的な言葉よりもずっと面白いし、楽しい。だから昨日の授業で提出するはずだった授業のプリントを出していないことを忘れていたのだ。
「えー、あおさん。プリント、今日中に提出してくださいね」
急に名前を呼ばれて、あたしは反射的に「あっ、はい」と返す。それから藤ちゃんに「どんなプリントだったっけ……?」とこっそり訊いた。
全く手のつけていない、ファイルの中で折れ曲がったプリントを引き延ばしながら、あたしは自分の名前を殴り書く。
天瀬逢凰。逢うに鳳凰と書いてあおと読む珍しい名前は、あたしの恥だ。
画数が多い上に、初めて読まれる時は大抵「あう……おう? こう?」と言われる。稀に「あうおおとり」と呼ばれる事もあるが、ほんの誤差だ。初見ではほとんど正しく読まれない。
そんな訳だから大抵の人には苗字の天瀬からとって「あまちゃん」と呼んでもらっている。
あまちゃん。下の名前の「あお」も響きだけなら好きなのだが、漢字のせいでどうにも苦手意識がある。だから、あまちゃんという呼び方を気に入っていた。可愛い名前だと思う。
藤ちゃんのプリントの名前を眺めながら、そんなことを考えた。高藤音萌。ねも、という名前は花を思わせる、可愛い名前だと思う。
さて、提出するぺきプリントは、先日授業中に観た映画の感想文だった。もうすぐ夏休みでやるべき授業もなかったので、映画をクラスで観たのだ。確か、他人の寿命が見える人が主人公だっただろうか。
共感する、と途中まで書いてシャーペンを止め、すぐに消しゴムでそれを消した。こんなこと、誰かに話したい話でもない。
あたしには、とある特殊能力がある。
それは中学一年生の頃、自殺志願者の命を救った一ヶ月後に突如発露した力。
『一ヶ月後に自殺する人間の本当の願いがわかる』。
それはつまり、自殺しそうな人間と、その理由がわかる、という事だ。
この能力に気がついたのは、ニュースであたしが助けた人間の自殺が報道された時。
あたしが助けた自殺志願者は、その一月後に再度自殺を試みた。それは無事、と言っていいかわからないが、とにかく滞りなく完遂された。死んだ。自殺した。
あたしは、その人の命を真の意味で救えなかったのだ。
それから、どこか追い詰められた表情をしたサラリーマンの頭上に「両親に恩返ししたい」という文字が浮かんでいるところを見て、当時は首を傾げた。
その一月後に見たことのある幸薄そうな顔、そのサラリーマンの顔を写した自殺事件の報道がなされた時に、ようやくこの能力を自覚し、概要を理解したのだ。
そのサラリーマンは、どうやらブラック企業に勤めていたらしい。他県に住んでいる両親に恩返しがしたかったが十分な給料も払われない今の会社では自分の事で手一杯で、かといって転職するには長い時間その会社で働きすぎた。だから、自分の遺産を全て譲渡する事で両親への恩返しとしたらしい。
そんな内容の遺書と、人一人分の命と引き換えにするには安すぎる財産を遺されて泣く老夫婦のインタビュー映像は、労働環境についての問題提起となったようで、それから一、二日はブラック企業の実態だとかの特番がよく流れていた。
人の死によって、ようやく問題に気がつく。それでは遅いのに。そんな考えもきっと、あたしの不思議な能力として表れているのだろう。
ぐるりと教室に視線を巡らす。誰の頭上にも、文字は浮かび上がらない。誰も自殺志願者ではない。ほっと息をつく。
この能力の厄介なところは、「自殺をする人」しかわからない事だ。死ぬ人がわかるわけではない。
例えばだが、一月後に不慮の事故に遭って亡くなってしまう人がいたとしても、自殺でなければそれはわからないのだ。他殺や事故死は予測できない。
「なにさあまちゃん、一緒に予習忘れたの怒られろー!」
「もー、藤ちゃんうるさい。今みんなの精神鑑定してんのー」
「まーた変な事言ってるー。プリントやれー?」
今こうしてからころと笑っている藤ちゃんも、一年前、高校一年生の時はその頭上に「友達が欲しい」との文字が浮かんでいた。
その彼女が今生きているのは、他ならないあたしが彼女と友人になり、死にたいと思わなくさせたからだ。
あたしは、藤ちゃんの命を救っている。もちろん、藤ちゃんに命を救われたという自覚は無いだろうけど。
藤ちゃんの例があるように、自殺をしたいという意思はなくす事ができる。
彼らの頭上に浮かぶのは、あくまで「このままだと一ヶ月後に自殺をしてしまう精神状態にある」という事を示すパラメータで、運命や未来を示唆するものではないのだ。
バッドステータスは解消できる。自殺したいという意思は曲げられる。ならばそれをしなければ、あたしの正義感は廃ってしまうのだ。
教室にはおはようの挨拶が飛び交う。今日も、一日の始まりだ。六月の終わりに期末テストが終わったばかりで、クラスメイトたちの顔には開放感が浮かんでいる。コルクボードに貼られたカレンダーには七月と書かれていた。
「……ん?」
あたしは思わず、視界に入ったものに反応する。教室の、窓辺の後ろの隅。その席にいつの間にか、少女が座っていた。まだ垢抜けていないように見える、髪の長い女の子。名前は、確か……。
「フチガミ……」
思わずこぼした呟きに、藤ちゃんが反応した。
「なに、淵神さんがどうしたの?」
「どうしたのっていうか、どうもしてないけどこれからするっていうか……」
「?」
説明とは言えない説明に、藤ちゃんは首を傾げる。あたしは焦ったくて、あー、もー、と叫んだ。一々説明してられない。説明しても信じてもらえない事は確かだろうし。
無言で席をたち、ずんずん後ろに向かう。淵神は、静かに座って文庫本を開いていた。
「淵神さん」
苗字を呼ぶと、彼女は緩く反応し顔を上げる。億劫そうな、緩慢な動きで。そこには嫌悪感などの負の感情はないが、多少の驚きが見えた。それもそうだ。今まで話したこともないクラスメイトが突然話しかけて来れば、当然そんな反応にもなるだろう。
あたしは淵神さん机に手を乗せる。焦りからか少し威圧感が漂う声音になってしまったが、構っていられなかった。
「友達に、なってくれない?」
あたしはそう言って彼女の顔……それより少し上の、彼女の頭上を見る。そこに浮かぶのは、極々簡潔な一文。あまりに重々しい四文字。
『死にたい』
それだけが、ぽつりと彼女の頭上で主張をしていた。
友達になって、なんていう急な頼みに、淵神はきょとんと目を見開き、次に細め、存外はっきりとした発音で言う。
「いやだ」
その言葉に、あたしは思わず面食らった。
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