青い鯨の幕を引く

凪野 織永

第1話

 人の命を、救った事がある。

 自殺しようとした人を、助けようとした事がある。


 大きな川にかかる橋の上でぼーっと水面を見つめていて、何だろうあの人、って一緒に歩いていた友達と言い合っていた。まさに心あらず、といった様子で、本当に何をするでもなく。

 名前も知らないし、顔も遠すぎて見えないような赤の他人の事だからすぐに話題から消えたけど、あたしはなぜかその人から目が離せなかった。

 友人の話は耳に入らなかった。片耳からすり抜けていって、あたしは友達に頬を抓られながらもその人を眺めていた。

 その時、橋の上の人が柵に足をかけたのを見て、気がつけば体が勝手に動いていた。

 ぐらり、と落ちていこうとする体。真下には川。落ちたら、確実に死ぬ。理屈ではなく、直感でわかったのだ。

 頭から落ちていくその人の脚を掴んで、呆然と突っ立っていた友人に怒鳴った。警察を呼べ、早く、と。

 運よく巡回中だったパトカーがすぐに停まって、自殺をしようとした人を引き上げてくれた。一人だけじゃ絶対に引き上げられなかったから、助かった。彼は真っ青な顔をして、ボロボロと泣いていた。

 怖かったんだろうと思った。自殺したいほど辛くても、いざ眼前に迫った死は、恐ろしくて、自殺しようとした事を後悔するほどだったのだろう、と。

 だから偉そうに、死んじゃだめだよ、人生楽しい事がいっぱいあるんだよ、と言った。

 学校で表彰された。

 先生も親もすごい、えらいと言ってくれて、生徒が全員集まる集会では拍手喝采が浴びせられた。

 まるで、ヒーローになったかのような気分だった。

 自分はこの地球を救った英雄。そうとすら錯誤する全能感が、脳を支配していた。

 そこで思った。自分は正しいんだって。褒められる事をしたんだって。警察に渡された表彰状が、それを証明してくれるようだった。

 それから、警察官を志し始めた。もっと、多くの人の命を救いたいと思ったから。

 人を救った事がある。


 正確には、ほんの一時、人を救ったんだと思ってしまった事がある。

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