真・美・ラサ

Ramaneyya Asu

カーテンレイザー(Parda Utthapakah. Curtain Raiser)

 Ramaneyya Asu登場。


 感動して泣いたことがないと言う人がいる。昨今では、商売人たちは開き直り、昔から芸術と呼ばれてきたものを、エンターテインメントなる語に置換して、これを消費せしむことに励んでいるし、世俗的な成功への信仰は、伝統的な敬虔性に置換して久しいから、当然の帰結である。

 また、子供に芸術とは、美とは何かと問われれば、今日多くの親や教師は、如何なる回答も持ち合わせない。宗教とは、敬虔とは何かと問われても同様である。

 これらは最新の潮流というわけではまったくない。そのためタゴールはこのように言っていたのである。


 「彼らは、歩く胃か脳の如きものであり、我々は憐れみから、急いで神様に訴え、"お慈悲ですから、彼らを何か、美と生命の布で覆ってやって下さいませ"と叫びたくなる」

Rabindranath Tagore『The poet's religion(1922)』Ⅴ


 超自然への民俗的な信仰は、今だ廃れてはいない。とはいえ社会は自分のその信仰に真剣に向き合う機会を得られないために敬虔性を失った。自然科学的知見の曖昧とした啓蒙と、専制的束縛的教育が、この曖昧とし専制的束縛的事態をこしらえたのである。そのため社会は自分について、超自然主義者とも自然主義者とも主張できないでいる。かくして倫理と生きる意義の論拠は失われた。

 往来で分断なる語が声高に叫ばれ、鸚鵡たちがラッパを吹き鳴らして囃し立てる中、純朴な人は、静かな森へ行き、次のように思索する。


 「我々はこの大きな世界の前に立っている。我々の人生の真実の在り方は、世界に対する我々の心の態度、我々の環境と精神の状況に応じて、我々が世界に対処する習慣によって形成される態度如何にかかっている。それは、我々が宇宙との関係を樹立する企てを、宇宙の征服によって行うか、宇宙との結合によって行うか、また力の滋養を通じて行うか、共感の滋養を通じて行うかを、左右するものである。このようにして、存在の真理を感得することにおいて、我々は二元論の原理に力点を置くか、統一性の原理に力点を置くか、いずれかなのである」

Rabindranath Tagore『The religion of the forest(1922)』Ⅰ


 「美は、幻想などでは全くない。それは、実在としての永続的な意味を持っている。落胆や憂鬱を惹き起こす諸事実は、単なる霧であって、霧を通して美が束の間の閃光を放って現れるとき、我々は、平和が本当であって闘争はそうでなく、愛が本当であって憎悪はそうでなく、真理は一であって分解された多でないことを感得するのである」

Rabindranath Tagore『The poet's religion(1922)』Ⅲ


 「現代の芸術の務めは、人間の幸福は人間同士がひとつに結びつくことだという真理を、理性の領分から感情の領分に移して、今支配している暴力の代りに…愛の王国を打ち立てることである」

Leo Tolstoy『What Is Art?(1898)』XX


 こうして分断とはひとりの人間の心に起こっていることと看破した彼は、共感による社会の団結が必要と悟るし、それには芸術の美的感動を復興し、そこに論拠を求める他ないとも悟る。


 辞書によれば、美学とは哲学の一分野のことだという。ある点から見ればそのように言える。しかしおそらくこのように言う人の多くは、美と呼ばれるものが自分の心に顕現したあのときのことを忘れている。感動して泣く。鳥肌が立ち、しびれに震えるあののっぴきならない事態。あれがいったい何なのかを知りたいと、真面目な人が科学的な知見を探して発見するのは、よくわかっていないということだけである。ならばと哲学者や批評家に教えを乞うと、今度は彼ら同士による喧々囂々たる争論が堪能できるだろう。こうして我々は、このことについては自らに尋ねる他ないと了解する。


 ナーティヤ・シャーストラ(Nāṭyaśāstra)は、インドの演劇に関する全般を論ずる教本である。成立年代に定説はなく、西暦前一世紀とも後四世紀ともいうが、いわんやより古い伝承が含まれている。古代の典籍として、美学のみならず演劇全体の理論という点で、本書に比肩するような書は西洋にも中夏にもない。にも関わらず、この書は広く読まれていないばかりか、知られてもいない。そこで近世西洋の美学論はインド美学を参照しなかったし、今日においてもなお、かろうじて脇に胸像の如く置かれるのみである。


 ヴェーダ時代には演劇がまだなかったなどと言う学者は、伝統的社会で自分が生活する情景を想像したことがないと私は信じる。それは理想郷などではまったくない。不和が起こり、争いが起こる。小さな共同体では、それは簡単に破滅をもたらす。演劇がこの危機を"劇的"な効果――ラサ(感動)――によって解決することを、我々は知っていた。


 感動して泣いたことがないと言う人は、誇張していると私は考える。彼は泣いたはずである。彼の美しい母親から生まれたとき、悲しくてではなく、感動して。


 おや、誰か来た。あれはヴィプラさんの娘にしてコハラさんの従妹、ドリティさんでは?

 ドリティ「あなたがアスさんですね?」

 私「いかにも」

 ドリティ「なんだか冴えない方ですねえ。皆さん、こんな方で大丈夫なんでしょうかねえ」

 私「どういう意味ですかな?」

 ドリティ「だってあなたはこれから私たちの劇の筋をお書きになるんでしょう?」

 私「そうですとも。私の口上をお聞きになられたでしょう? これからあなた方が演じられる劇を、私はそのような反省のもとに書くのです」

 ドリティ「口上、反省。反省のもとに。おめでとうございます。いくらご立派な口上を並べ立てたって、それで善い劇ができるわけではないと思いますけどね。まあ、いいでしょう。その劇はなんていう題なのですか?」

 私「"真・美・ラサ"です」

 ドリティ「意味深長です。でも真とはなんですか?」

 私「真理です。自然の純粋な姿です。その姿を見ると、ふだん理想の価値の現実性をそれほど信じていないにも関わらず、我々はいそいそと、他者への慈しみの心を奮い立たせて、無償の奉仕に自らの生命を捧げるのです」

 ドリティ「ふんふん。では美とはなんですか?」

 私「我々の純粋な姿です。その姿を見ると、どういうわけか我々は、ふだん我々を覆っている諸々の妄想を振り落として、一個の、歓喜に打ち震える光となります。そのため我々は泣き叫び、麻痺するのであります」

 ドリティ「ほうほう。ではラサとはなんですか?」

 私「あなたならご存じでしょうに。Rasaは美を見た者に起こる事象のことです。感動のことです。それは我々に系として真理を感得させ、何やらわけのわからない成り行きで、強引にも非暴力や慈悲を支持させ、清らかな心をもたらします。それは人から人へ、親から子へと伝わり、やがて世界全体へ行き渡るものです」

 ドリティ「そうしますと、この劇はそのようなことを私たちに引き起こしてくれる、ということですね」

 私「その通りですとも」

 ドリティ「素晴らしいことです、有り難いことです。そういうことなら、私たちだって張り切って出演させていただきますよ」

 私「ほっとしました。それではぜひあなたから、劇の始まりを告げていただけますか」

 ドリティ「えっへん、それでは。敬虔で、慎みあり、健全な自己を保つ、紳士淑女の皆さん。劇が始まります。ですから、心のついたてを片付けましょう。そうして劇を鑑賞し、心に映して、ラサに浸りましょう。そのとき、私たちはひとつになって、輪を回すことができるでしょうから」

 Ramaneyya Asuとドリティ退場。幕。


 

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