第2話

『——起床時間です。起きてください。起床時間です。起きてください』

 穏やかな、けれど機械的な女性の声。三宅雄一みやけゆういちがゆっくりと目を開くと、色も輪郭もぼやけた世界が広がっていた。

 肩が寒い。寝具を掴んで、顔まで引き上げる。全ての境界が曖昧に混濁しており、一向に定まらない視界と思考に、瞼は再び世界を隠し始める。

『起きなさい、朝よ。このうつけ!』

 頭を揺らす振動とともに、先ほどとは打って変わって可愛らしい声がした。

 三宅の意識がようやく現実に半歩足を踏み入れる。声の主は、リリーナ・レレーナ——魔界大戦ヘルヘイムのヒロイン。もっと聞いていたいが、このまま寝続けると振動も声も徐々に大きくなるため、敬愛するリリーナ様が嫌いにならないうちに、止めるべきだろう。

 寝転んだ姿勢のまま、頭の上のほうをまさぐる。寝具の間から、寒気が入り込んできて思わず寝具を身に寄せた。右手が、馴染みのある固さの物体に触れる。

 ようやく掴んで引き寄せ、長年使い慣れた眼鏡を着けると、カレイドスコープのような世界は一瞬で明瞭さを取り戻した。味気ないのっぺりとしたベージュ色の天井は、何年も見慣れた世界だった。

『もう、起きてったら。じゃないと、私……』

 体を起こし、枕の横に転がる手のひら大のリモコンデバイスを手に取る。リモコンの液晶画面に広がる『アラーム』というボタンをタップすると、リリーナの声も枕の振動もぴたりと止まった。

 朝というのはなぜこうも辛いのか、と三宅はいつも思う。寝起きが良くなる、さらなる科学の発展を願わずにはいられない。この装置に付随しているアラーム機能だけは甚だ前時代的で、目覚まし時計の歴史こそ知らないが、音と振動で強制的に人間を覚醒へと促す手法は、数十年は変わっていないだろう。

 寝ぼけ眼のまま、三宅は手元のリモコンデバイス——FREAM<フリーム>を見つめた。夢から覚めた直後の高揚感の陰に隠れる、得体の知れない感情があったからだ。

 フリームテック社が開発した、自由に夢を見させる装置。

 FREEとDREAMの造語というのが如何にも安直だし、“自由”というと行き過ぎた表現だが、夢をセットすれば音楽を聴くような手軽さで、概ねセットした夢に沿う情景やストーリーを見ることができる。

 こんな機械で人間の夢を操作できるなど最初は疑わしかったが、毎日使っているうちに、そういうモノだと慣れてしまった。科学の進歩とは得てして、気付いたときには人間の生活に馴染んでいる。

 夢を見て起きる。そんな、普段と変わらないはずの忌まわしい目覚め。

 先ほどの得体の知れないものが徐々に輪郭を表し、覚醒しつつある頭の片隅で、小さな違和感へと変わっていった。

 夢の中の少女は、一体誰だったのか。見覚えのあるような、無いような。期待していたものとは随分と変わった趣向の夢を見たことが、疑問でならなかった。


 三宅が階下のリビングに向かうと、すでに家族が朝食を食べ始めていた。

「おはよう」

 三宅が言うと、返すようにして、おはよう、と母、妹が口々につぶやいた。

 定位置である、妹の三宅由貴みやけゆきの隣に座る。すると、待ってましたとばかりに鋭い言葉が飛んできた。

「いい加減あのアラームやめてくんない? キモいんだけど」

 由貴はあからさまに苛立っていた。

「僕だって、由貴の変なアラーム我慢してるんだから、おあいこだろう」

「はぁ? 颯太くんのどこが変だって?」

 日比谷颯太、だったか。若手のイケメンアイドルで最近は俳優業もこなしているらしい。テレビを点ければCMだったり、バラエティー番組、ドラマなどなど、精力的に活動している。由貴が日比谷颯太の出演するドラマを欠かさずリビングで見るせいで、生半可に詳しくなってしまった。

「なんかこう、ぞわぞわするんだよ。耳元で囁かれているようで気色が悪い」

「あのロローナだかの声も大概じゃん!」

「リリーナ様、だ。覚えておくように」

「ほら、朝から喧嘩しないの。はやく食べないと学校遅れるわよ」

「……はーい」

 母の三宅麻美みやけあさみに仲裁されて、由貴はしぶしぶ口をつぐんで膨れっ面をした。

用意された朝食を機械的に口に押し込んでいると、点けっぱなしのテレビからアナウンサーの明瞭な声が聞こえてきた。

「この赤ちゃんパンダは明日から一般公開されるとのことです。次のニュースです。昨夜未明、〇〇市××のアパートに住む細田大志さん三十六歳が意識不明の状態で見つかりました。目立った外傷はなく、警察は事件性はないとしています……」

 三宅は手を止め、そのニュースに聞き耳を立てた。

「最近多いわよねえ。怖いわ、はやりの病気かしら。……ほら、雄一。アンタの同級生のお兄さんも最近同じような病気になったんじゃなかった?」

「あぁ……うん。そんな話も、あったかな」

 口に放り込んだパンを飲み込み、三宅は適当に相槌を打つ。決して記憶が曖昧なわけではない。話題にする気になれなかったのだ。

 鮎川沙百合あゆかわさゆりは三宅雄一の通う学校のクラスメイトである。問題は、その鮎川の大学生の兄のことだ。

 二カ月ほど前になる。鮎川兄はある朝、いつになっても起きて来ないことを不審に思った家族によって、寝室で意識不明の状態にあるところを発見された。以来二カ月経つが、意識は戻っておらず、鮎川も長らく憔悴しきっている。

 鮎川との間には特筆するような関係性はない。とはいえ鮎川は教室で隣席だから、必然と多少の交流はあって、あけすけで誰とでも分け隔てなく接する奴、と三宅の目には映っていた。だからこそ、鮎川の変容した様は、いくら近寄りがたいとはいえ、少なからず気の毒に思えたのは確かだった。

「ヒートショックって言うんだったかしら? 気をつけないとねえ」

 麻美は心配そうに嘆息した。

 警察では、まだ原因が特定できていないという。事件性はないのだろう、そういった話は鮎川の口からも聞いたことは無い。あるいは保健所か厚生労働省の出番なのかとも思うが、そうでもないようで、未知の病原体云々という話も聞かない。最近多い、と麻美は言うものの、身近で印象的な類似例が発生しているためにそう感じるだけだと、三宅は思っていた。

 食卓の話題は、次のニュースへと変わった。

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