恋と雑踏

落水 彩

クリスマス

 頬を突き刺すような風が吹く中、私は煌びやかな街の通りを歩く。ショーウィンドウにはコートを纏ったマネキンや色とりどりのオーナメントで飾られたツリーが一層浮ついた空気を作り上げる。

 右も左も手を繋ぐカップルだらけで、マフラーで口元を隠した私は誰にも聞こえないため息を吐く。クリスマスは嫌いだ。雑踏をかき分けて駅に向かう。

 駅構内は暖かく、マフラー越しでも地下鉄の匂いが混ざり淀んでいる。すれ違う人はスーツを着た退勤後のサラリーマンや、ギターを背負った若い女性など様々だ。特に一際目を引いたのは、冬だというのにくるぶしまでの靴下を履いている女子高生だった。見てるこっちが寒くなりそうな格好の少女は右手に大きな紙袋を提げている。誰かに渡すプレゼントか、自分へのご褒美か、正直私にとって関係ない。

 はぁ、羨ましいな。

 ため息と共に吐き出された感情は正直で、自分がいかに捻くれているかを決定づけるようにちくりと胸を刺した。


「——ごめん、別れよう。」


 いつか言われた言葉が頭の中で反響した。うるさいな、もう出てくるなよ。心の中で舌打ちをすると記憶を掻き消すように頭を振った。

 消しゴムを貸してくれたとか、早退するときに見送ってくれたとか、チョコレートをくれたとか、そんなくだらない理由で好きになったあいつは、自分のことしか考えてなくて、彼女をステータスにしか思ってなくて、告白したくせに振るようなクズなのに、なのに、どうして忘れられないんだろう。

 恋は盲目。それは私が一番わかっている。後輩が彼氏のために友達の連絡を全部消したり、関わりを一切絶ってクラスから孤立している話を聞いて、ああはなりたくないと思った。はずなのにな。

 

 去年の十二月、女子に囲まれて手袋を取られて遊ばれているのを見た。本人は満更でもない様子で「返してよ〜。」なんて言って浮かれている。今思えばどこが好きなのか微塵もわからないがこうやって思い返している以上、未練があることには変わりないんだろうな。

 ふと、あいつと目があって手を合わせて「お願い。」と、訴えてきた。柴犬みたいなくりくりした目は水分を含みうるうるしている。八の字に下がった眉も母性本能をくすぐる。私は取られた手袋を後ろから取り返すと、女子でできた塀を越すように投げた。両手で包むようにキャッチすると「サンキュー。」と笑顔が返ってきた。


「つまんな。」


「ノリ悪。」


 なんとでも言えばいいと思った。だってみんなは遊ばれているだけで、彼は私のことを一番に思ってくれているから。クラスメイトの罵倒を背中で受けながら、誰にも言わないマウントでほくそ笑んだ。そんな頃もあった。


 ホームで電車を待つ間、手に持つスマートフォンで過去の写真を見返した。去年の十二月まで遡ると、当然彼とのツーショットが出てきた。右下にあるゴミ箱のマークを押すと写真を消去するかキャンセルするかの二択が出てきた。迷わず消去のボタンを押すも、画面から指が離せなくてそのままボタンの外に指をスライドさせると、親指でキャンセルをタップして画面をオフにした。カチャっと鍵のかかる電子音は私の中にある依存という名の鎖をより一層強く縛るような音に聞こえて憂鬱な気分になった。


「おつかれ!」


 急に後ろで声がしたのに驚いて反射的に振り返ると、同じクラスメイトの山田が満面の笑みで手を振っていた。いいな、お前は何も悩みがなさそうで。


「あれ、どうした、元気ない?」


 あからさまに機嫌の悪い顔をしていたのか、心配そうに声をかけられた。冬だと言うのに山田の肌は小麦色に日焼けしている。両頬にあるニキビ跡が黒ずんでできたそばかすは不規則に並んでいるが、近くで見ないとわからないくらい薄い。そして額にはジワリと汗をかいていた。


「別に。」


 そっけない態度でまた前を向く。なんとなく山田のテンションがしんどくてもう何も話したくない。学校で会う分にはいいが、それ以外だと顔を合わせたくない。ポケットからワイヤレスのイヤホンを取り出した。


「もうクリスマスだってよ。チョコもらえた?」


 独り言にしては大きすぎる声がする。ざわざわと響く雑音で満ちている空間なのに、よく通る声は一帯に聞こえるのではないかと不安になる。それに何か別のイベントと勘違いしてそうで、恥ずかしいからやめてほしいが指摘するより関わりたくない気持ちが勝ってイヤホンを右耳に突っ込んだ。あいにく、左耳のイヤホンは充電ができていなかったようで朝から使えなかった。


「やっぱ滝川は波島と過ごすの?」


「は?」


 オーディオ機器をつけていない左耳から声を拾うように振り返った。


「付き合ってんだろ、お前ら。」


「いつの話してんの。」


 一年も前に別れているのにまだ知らない同級生がいたのかと驚くより呆れた。クラス内では女子が嬉々として語っていた気がするが。


「え、まじ⁉︎ 別れたの⁉︎」


「声が大きい。」


 あぁごめんと申し訳なさそうに眉をひそめる様子から、私たちのことを本当に知らなかったみたいでそれ以上責める言葉は出なかった。


「あの、よかったらこれ。」


 先に沈黙を破ったのは山田だった。ジャラジャラとサッカーボールやだるまのついた通学カバンから取り出したのは小さなチョコレート。お前が渡すんかい。

 いつかの帰り道で波島がくれたものとは違うが、そのときのことを思い出してチョコレートを睨みつけた。


「あれ、嫌いだった?」


「別に。気分じゃない。」


 どこにでも転がっている地雷に辟易する。いや、きっと私が何かにつけて彼との思い出を結んでしまうのがいけないんだろう。頭ではわかっているはずなのに、どうしようもなく、波島の笑顔が、あの優しくて物憂げな顔がこびりついて離れない。頭の中のコテ(起こし金というらしい)でガシガシ削っても、その最中にだんだん楽しかった記憶が蘇ってきて手が止まってしまう。

 ……やさしかったんだよね?

 去年同じクラスだった七海に何度か相談した際、さとみんがいいならいいんじゃない、と困ったような笑顔を向けられたのを思い出す。


「波島にクリスマス予定あるか聞いたら『二人で映画見に行く』って言うから、てっきり相手は滝川かと。」


「予定断るための口実なんじゃない?」


「まじかー。俺波島と仲良いと思ってたのにな。」


 仲良いなら予定が本当だったとして、別れ話だって知っているはずだった。ほんの少し山田が哀れになった。

 そうこうしているうちに電車がやってきた。窓にこびりついた水垢が反射して模様を描く古い普通電車。

 本当は準急ないし急行で帰りたかったが、確実に座れる場所に並んでいる今、わざわざ山田を避けてでも別の乗り口に並び直すという選択肢はなかった。

 無機質な灰色の扉が開くと同時に、六名掛けの席の端っこを陣取った。ふぅ、と息を吐くとカバンに入れてあったお茶を飲んだ。冬は寒いからと言って、お母さんが水筒に入れてくれるほうじ茶は人肌に温かかった。


「じゃあ俺らクリぼっち同士?」


 声のした方を一瞥すると、何が楽しいのか隣に座った山田が満面の笑みでこちらを向いていた。


「一緒にしないで。」


 帰ったら家族が待っている。それに、本来クリスマスなんていうのは恋人ではなく、家族と過ごすイベントだ。日本でいうお正月のようなものなのだろう。だから私はぼっちではないし、正しいクリスマスを過ごすだけだった。

 山田と特に言葉を交わす気にもなれず、それ以降は手に持っているスマートフォンに目を落とした。

 写真投稿に特化したSNSを開けば、イルミネーションやツリーばかりが流れてきた。写っているの友達の顔はみんな笑顔だった。顔の映っていない動画でも、楽しそうにはしゃぐ女子の声がイヤホンから再生された。

 心に粉雪が降ったように切なくなった。じわりと染み込む冷たさが、画面をスクロールする指の動きを鈍くさせた。


「いいよな、クリスマスマルシェ。」


 咄嗟にスマホの液晶画面を相手にも自分にも見えないように胸に押しつけた。覗きなんて悪趣味だ、と軽蔑しようと思って、山田も同じSNSを開いているのが目に入った。覗きなんて悪趣味だ、が自分に返ってきてなんとも言えない気持ちになった。


「別に羨ましくない。」


 「そう?」と、首を傾げる山田はそれ以上は踏み込んでこなかった。

 しばらく友達の投稿を更新された順に追っていると、一枚の写真に目を留めた。


「これっ……て。」


 そこから先は言葉にできなかった。スクリーンショットで写真を保存すると画面を拡大して男女の顔を見比べた。画面の明るさを上げても、その写真は何一つ変わることなく、残酷な事実を突きつけた。


「なんで。」


 溢れた言葉は自分でもびっくりするくらいに震えていた。髪を一つに括った目鼻立ちが整った少女——七海の隣には、よく見慣れたどこか儚さを含んだ優しい笑顔の波島が写っていた。

 怒り、呆れ、恨み、訝り、全て通り越して鼻の奥がつんと痛んだ。気がつくと目の前はぼやけ、目の端から温かい雫が零れていた。


「え、滝川大丈夫?」


 こんな顔、誰にもみられたくないのに隣で「騒がしい」の代名詞である山田が、珍しくオロオロしながら私の顔を覗き込んだ。

 ——そっか、そういうことだったんだ。

 別れて一年もの間、自分を縛り続けた執着という呪いも涙と共にボロボロと崩れ去っていくような感覚がした。

 ありがとう、さようなら。おおよそ、周りに応援された恋じゃなかったかもしれないけど、私は楽しかったよ。

 今、やっとちゃんと失恋できた。

 未だ緊張で高鳴る胸を抑えることはできなかったが、画面いっぱいに映る過去の人と、その隣に映る今の人とのツーショットをなんの躊躇いもなく削除した。


「スッキリした。」


 そう呟いて深呼吸を繰り返した。

 山田はどう接したらいいのかわからないらしく、手の先がずっと空を掴むように動いていた。

 その様子もなんだかおかしくて、いつも鬱陶しく感じる山田にほんの少し救われた気がした。


「もう平気。」


 涙を飲み込んで、手を前に伸ばして体をほぐした。吸い込んだ空気は車内の暖房のせいで淀んでいたが、そんなことどうでもいいくらいに、晴れやかな気持ちだった。

 ふと顔を上げると、次の停車駅を知らせるモニターには「青谷口」と表記されていた。

 次で降りなきゃ。涙の後を服の裾で拭き取ると、スマートフォンをカバンに放り込んだ。

 すると、山田の下車駅でもあったらしく、私と同じように降りる準備をした。山田が同じ地域に住んでいる、という情報は聞いたことがなかった。


「山田も青谷口?」


「いや、俺は赤坂口。一つ前のとこ。」


「前? なんで降りなかったの?」


「え、だって、泣いてる滝川一人にできないなって、思って。」


 山田の語尾は尻すぼみに小さくなっていった。照れくさそうに頬をかいたかと思えば、それから目が合わなくなった。


「いいやつだね。」


 もっと他に表現があったのだろうが、山田は褒めると調子になりそうで、あえて「いいやつ」なんて言葉を選んだ。

 それなのに本人的には嬉しかったようで、「そんなことは。」なんてまんざらでもない様子で謙遜している。付き合わせてしまったお詫びも兼ねて、駅前のコンビニでホットスナックのフライドチキンを奢った。

 何か言いたそうにしてた山田だったが、「ありがとう、メリークリスマス。」とだけ残して、駅の改札をくぐっていった。

 見かけによらず遠慮がちな性格だから、人の色恋に深く踏み込めないのだろう。それは彼の長所とさえ思った。

 駅に背を向け、街灯の照らす歩道を行く。電車に乗る前とは違い、夜風が紅潮した頬を撫でて心地よかった。

 やがてタイミングを狙うようにちらちらと静かに雪が舞うと、なんだかテンションも上がってきた。

 大きく息を吸い込むと、真っ赤に染まっているであろう鼻で、クリスマスソングを歌いながら帰路についた。

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恋と雑踏 落水 彩 @matsuyoi14

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