8話 終わって始まる



 終わったと思った。鋭い視線がこちらに矢を向ける能面たちから突き刺さる。どうすればいい、どうすれば……どうすれば?なんでなぜ?おかしい――。

 心の中に不安と恐怖がじわじわと確実に奥まで染み込んでいく。もうだめだ……もう……死ぬ。矢が体中に刺さって死ぬ……。

――その時だった。

「半径15m以内の能面をつけた人間の記憶を改変する。今日の記憶を全て忘れろ!」

「……」

父さんは記憶の現実を改変したらしい。

 迫真の表情で叫ぶ。

「逃げろ。ソル、ファルサァ!」

 今のうちに逃げれる!ここからはるか遠くの場所まで行けば……。でも、父さんはどうする?見捨てるのか?いや、もう父さんを信じるしかない!!

「早く、早く逃げないと」

 そう思っても足がすくんで上手く走れない。まるで泥沼の中を歩いているように、恐怖と不安が足に纏わりつく。情けない自分の姿に怒りと焦燥が心の底から湧いてくる。

「くそ、くそ!!」

「急いで!ソル。ほら!」

母さんが転んだ俺に手を差し伸べる。

「ごめん、焦りすぎた」

「謝るのは後!今すぐ逃げるんあ!」

 走る走る走る走って走って走り続けた。雑草が至る所にある凸凹した土道を、横に田んぼが広がる畦道を、木々に囲まれた石道を。石道の先には随分と前に廃墟になった、教会がある。ひとまず、そこまで逃げれれば奴らは追ってこないだろう。

 教会の前に着くと俺はその場に倒れ込んだ。次第に目眩がしてきて気持ちが悪くなってくる。

「はあはあはあはあ、ここまで来れば……。父さん……くそっ!」

「きっと生きて帰ってくるはずなんあ。そうに決まってるんあ」

母さんの目には透明な涙が溜まって溢れ出していた。

 人生は残酷だ。時に希望を見せ、時に絶望を見せる。その繰り返し。同じ事を繰り返すだけの単純作業。俺が生まれた時からすでに人生の脚本に、こんな……こんな腐りきったバッドエンドは書かれていたのだろう。……最悪の気分だった。

 呆然とした様子で教会の前に立ち尽くす。……なんだろう、何かが聞こえてくる。不愉快な音が少しずつ少しずつ俺たちに迫ってくる。

「すごいですねー。あなた方の人を想う涙と絶望の涙に拍手喝采です!ぱちぱちぱち」

 目の前、道の奥、暗闇の奥から笑った顔の翁の能面。腰には白銀の柄と漆黒の鞘の刀、純白の斎服には血飛沫がところどころについている。憎き男の姿がそこにはあった。

「いやー、不潔なものは嫌いな潔癖症なんですけどね。血飛沫なんかがかかると物凄く嫌な気分になるんですよね。ですが、何故か今は高揚した気分ですね。皆々様に感謝と敬愛を」

翁は深く最敬礼をする。

「翁!!」

「はは!そんな、興奮せずに。折角の可愛らしいお顔が台無しですよ。……ところで、話は変わるんですが、貴方の父親の能力には感服せざるを得ませんでした。まあ、今日の記憶を消されてもどうやら無駄だったみたいです」

 翁は深呼吸をして真剣な面持ちでこちらを見つめる。

「私の自分語りはこれまでで。さ!貴方たちは私が断罪してあげましょう。さん、にー、いちー?はい!」

――目の前から翁が消えた。いや違う、翁の視界から俺たちが消えたんだ。一瞬の隙に俺と母さんは翁に蹴り技をくらい横たわって動けなくなっていた。全身が痛みに支配される。おかしい……いくらなんでも強さが桁違いだこんなの。

「まずは、母親の方からですね。さあ、歯を食いしばって下さい。そーれ!」

 

だめだそれは。


「やめろろろろろろおぉぉお!」


母さんは苦痛に表情を歪めた表情をする。心臓に刀で一発。血がゴボゴボと胸の辺りから吹き出していた。

「偉いですね。大好きですよ、痛みに耐えることができる人は。死んでくれてありがとうございます。じゃ、息子さんも痛みに耐えましょうか!」

「やめ……」

その時、何かが迫ってくるような気配を感じた。

「――うらあぁああ!」

刺されると思った瞬間、父さん、カルロ・コルウスが体当たりをして翁を突き飛ばした。

「父さん……」

父さんにはいくつもの矢が刺さり、血が流れていた。

「お前の記憶を改変する。お前の全ての記憶を……」

「醜悪の化身が!死ね!」

 いくつものナイフを服の中から取り出し、カルロに投げる。空気を切り裂き、カルロの頬を少し切り裂いたが、どれもあられもない方向に飛んでいった。

「削除する」

 カルロは矢が刺さったままの足を引き摺りながら冷静に廃人となった翁に近寄る。一つ呼吸をし、白銀の刀を奪い翁の胸を突き刺した。

「疲れた……」

虚ろな目をしていた。体中傷だらけ、よっぽどここに来るまでの道中の戦いで堪えたのだろう。

「父さん……母さんが」

「知ってるよ、ファルサは死んだ。ははは、まったく人生ってのは退屈しないなぁーはは……ソル、一つ、一つだけある。ファルサを生き返らせる方法が。俺に着いてこい。もうこれしか希望はないんだからな」

「……わかった。もう、俺は父さんを信じるよ」

 

――父さんはファルサを抱えて俺と一緒に古臭い教会に入っていった。

 つるが絡まり埃と砂を被った扉を開け、前へと進んで行く。カビ臭い床、今にも崩れてきそうな天井、木々や植物が生い茂りハエや蟻が死体に集まる。父さんは何故かここに来たことがある様子だった。どんどんと教会の奥に進んでいく。

「確か……ここら辺で」

「父さん説明してくれよ。こんなところで何をしたら母さんを生き返らせれるって言うんだよ」

「ここなのか?……いや、この先か」

「父さん!!」

俺は父さんの手を取り引っ張る。

カルロ・コルウスは虚無を見る。

「……ここだ!やっと見つけた。ここだったんだ!そうだろ!?不幸鳥!」

カルロは両腕を広げ、高揚とした表情で天に仰ぐ。

「父さん?」

その時、異様な雰囲気が満ちてくるのを感じた。何かが確かに聞こえてくる。感じる。人ならざるものがここに来る。

 上の方から黒と灰色のものがひらひらと落ちてきた。手に取ってみるとそれは大きな鳥の羽根。

 

「久しぶり、カルロ・コルウス!さー、契約でもしようか」

 

 7mぐらいの黒く、灰色の羽毛をした化け物が瓦礫の上に佇んでいた。眼が7個、ギョロギョロとこちらを見ている。わからない。

「なんだよ、この化け物」

わからない、わからない……。今まで見たことがない。鳥なのか?喋っているし、とにかく体が大きい。なんなんだ?こいつが不幸鳥……?

 俺はその場に立ち尽くす。

 黒い7つの眼に見つめられる。

「まあ……初めて僕を見たらそういう反応するよね。まっ!ソル・コルウスはそこで見ててよ。今からお父さんと契約するからさ」

漆黒の眼が今度はカルロに視線を送る。父さんはさっきよりも落ち着いた様子だった。ぼそっと父さんが言う。

「……不幸鳥」

「さあ、言ってごらん」

「不幸鳥……ファルサ・コルウスを生き返らせてくれ。お前ならできるだろ?現実を改変するなんて朝飯前なんだろ!?」

「少なくとも2つ制約があるからね。それでもいいかな?」

「ファルサが生き返えるなら、もうなんでもいい」

「わかったよ。じゃ、最後にお前の血を――」

わからない。わかんないよ。


「……」


「ああ、最後にファルサをこの目で見たかったなぁ。ソル、お前はこの腐りきった世界を照らす太陽になってくれ。俺からの願いだ。こんな不幸がいっぱいな人生は嫌だろ」

カルロ・コルウスは俺を見ながら憎たらしく微笑んだ。

「綺麗事ばっか言うなよ!!さっさと死ねよ!ばか!いくら何でも自分勝手が過ぎるぞ……」

 そして、父さんは長い刀で自分の手首を切り裂き、ひゅっと放り投げた。金属音だけが寂しく響く。

「……」

流れ出る血が不幸鳥の嘴に入っていく。

 

「契約成立だ……!」

 

開いたままの嘴は心なしか笑って見えた。

「さん……とおさん――」

 父さんと不幸鳥は目の前から姿をパッと消した。もとからそこにはいなかったみたいに――そして、代わるように、布に包まれた赤子が1人。

 気づけば俺はぼろぼろと涙を流していた。今までの思い出が涙が流れるたびに蘇ってくる。

 布に包まれた赤子は母さんのような目をしていた。これがファルサ・コルウス。こんな簡単に。安安と死んでは生き返る。

 穴が空いた天井から月の光が差し込み、月の光は母さんを照らしていた。

 布に包まった赤子に虚な目。よく見ると母さんの隣にはちょうど握り拳ぐらいの、羽毛に覆われた玉がある。これが、鳥核――。

「……もう、どうすれば」

幸福も愉悦もない現状に途方に暮れる。

「俺は、身勝手な自己犠牲をした父親が嫌いだ……」

 泣き声をあげる母さんの姿を横目に蹲る。

――月は今日も闇を照らす。





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