眠り姫を起こす方法(二回目)

南村知深

第1話 いつもこんな感じの朝

 ふと鼻をくすぐる美味しそうな匂いに気がついて、魔道士の少女イーリスは机にしていた上体を起こした。そのとき頬に貼り付いた本のページが裂け、その音を耳にした瞬間に意識の大半を満たしていた眠気が一気に吹っ飛んだ。


「あああああああッ! 金貨三十枚もした貴重などうしょがぁぁぁぁぁッ!」


 思わず絶叫しながらイーリスは頬に貼り付いたページ片をはがし、破損した部分に戻した。続いて薄くのりを塗って固定すると、ハラハラしながら本に覆いかぶさるようにして真上から書かれている文章に視線を落とす。


「……読める。読めるぞ……!」


 ページは破れてしまったが致命的な損傷ではないとわかり、闇の深淵しんえんに一筋の光明がしたかのようなあんとともに思わず笑みがこぼれた。

 と、そのとき、部屋のドアをノックする音がイーリスの耳に届く。


「イーリス? さっきの大声はいったい……?」


 ドアを開けて恐る恐る部屋を覗き込んだのは、長いすいしょういろの髪をハーフアップにして背中に流したエプロン姿の少女だった。手にパン切り包丁を持っているので、朝食の準備中に慌ててキッチンから駆け付けたのだろう。

 イーリスは少女を振り向いて、ギクッと顔を強張らせた。


「ゆ、ユーナ。おはよう。別になんでもないよ?」

「おはようございます。なんでもないことはないでしょう。森じゅうに響きそうな大声だったんですから。何があった……ああ、そういうことですか」


 心配そうにしていたユリアーナの表情がしんと冷えた。イーリスは何かを言い返そうとしたが、事態を察してしまったユリアーナのジトっとした視線にさらされて言葉が出せない。


「イーリス」

「はい」

「また遅くまで本を読んでいて、机で寝落ちしちゃったんですね?」

「違うよ? ソンナコトシテナイヨ?」

「では、そのほっぺのインクはなんなのです?」

「え……」


 指摘されたイーリスは慌てて散らかった机からかがみを取り、自身の顔を覗き込むと、破れたページの文章がくっきりはっきりと頬に転写されているのが見えた。ごしごしと手で擦るとインクが伸びて真っ黒になってしまい、もはや言い逃れはできないと空笑いを上げる。


「もう、これで何度目ですか……開いたままの本の上で寝落ちして、ページを破って大騒ぎするのは。いい加減学習してください」

「申し開きのしようもございません」


 呆れて肩を落とすユリアーナに土下座する勢いで頭を下げ、イーリスは全面的に非を認めた。ここでウソを重ねてもユリアーナには通用しないことをよく知っているからだ。

 そんなイーリスに歩み寄り、薄く紫がかった長い銀髪に隠れた頬にそっと触れて、ユリアーナは穏やかに微笑む。


「イーリスのそういう研究熱心なところは尊敬していますけれど、無理をして体調を崩さないか、風邪を引いたりしないかと私が心配していることを覚えておいてくださると嬉しいのですが」

「ごめん。気をつける」

「お願いします。もうすぐ朝食の準備ができますから、先に顔を洗ってきてください」

「うん」


 うなずいてそそくさと部屋を出て、美味しそうな朝食の香りが漂う廊下を抜けて玄関を通り、表の井戸で水をんで頬のインクを落とした。

 家の周囲をぐるりと一周する生垣いけがきの内側にはユリアーナが手入れしているささやかな菜園があり、健康的に伸ばした植物の枝葉に朝露あさつゆが輝いている。垣の向こうは全周が鬱蒼うっそうと樹木の茂る不気味な森になっているが、イーリスの家の敷地だけは切り取られたように整えられて穏やかな陽光が降り注いでいた。


「いい天気……絶好のお出掛け日和びよりだね。ユーナのごはんを食べたらすぐに出よう」


 薄青い空を見上げて眩しそうに目を細め、イーリスは伴侶ユリアーナが待つキッチンに向かった。



 焼きたてのパンとハムエッグ、野菜スープをじっくり味わって満足しながら食後のハーブティーを楽しんでいたイーリスは、向かいに座るユリアーナの話にこくりとうなずいた。


「買い出しね、了解。これから町に行く予定だからついでに買ってくるよ」

「すみません。食材の買い出しなんて雑務は、家に置いてもらっている私がしなければならないのに……」

「できないことをくよくよ考えても仕方ないよ、ユーナ」


 ハーブティーのカップを両手で包むように持ってうなだれるユリアーナの頭に手を伸ばし、そっと撫でる。

 ユリアーナはこの家を構える森を領地に持つヒースウェルはくしゃくの一人娘で、逆恨みから呪いをかけられ眠り姫となってしまったところをイーリスが救ったという経緯いきさつがある。その結果イーリスは伯爵令嬢を救った報酬としてユリアーナ本人を要求し、諸般の事情を考慮した末に伯爵はそれを許可した。

 そうして二人は森の奥深くで暮らすこととなった――のだが、これまた事情があってユリアーナはいまだ伯爵邸で眠ったままであるということになっているため、人前に出ることができないのだ。よって、食材や日用品などの買い出しはイーリスが担当することになっている。

 ユリアーナは日々魔法の研究に没頭している家主イーリスにそんな雑事をさせたくないと思ってはいるものの、こればかりはどうしようもないことであり、イーリスも気にしないでいいと言ってくれているからと無理に自分を納得させていた。


「では、お願いしますね。イーリス」

「ん。任せといて。……それより、わたしはユーナにこの家に居てほしいから居てもらってるの。置いてもらってるとか言わないで」

「……はい。すみません」

「ユーナはわたしの伴侶ヨメなんだし、ここはユーナの家でもあるんだよ。だからそういう気の使い方は無しだよ」

「はい。ありがとうございます」


 撫でられる感触が心地良くて思わず笑顔になったユリアーナを、イーリスは嬉しそうに見つめた。

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