第三話

 ドガに訪れる五年前、シャルロットはグルース村で平穏に暮らしていた。

 シャルロットには前世の記憶があった。前世と感じられるような精巧な妄想の産物の可能性もあったが、ひとまずは前世と捉えていた。だがその特異な生まれには固執せず、周りの人間にも明かすことはなく隠して生きていた。


(記憶が間違っていなければ、この世界は乙女ゲームの世界)


 うららかな昼下がり、シャルロットはかつて下した結論を改めて己に言い聞かせた。元より身近な人間以外に対する興味が薄く、世界そのものに対する情動など持ち続けることは難しい性分の少女だった。


(意識的に振り返らなければ今にも忘れてしまいそう)


 本来であれば直ちにその情報を消去し今生を謳歌したいシャルロットではあったが、それを許さぬ事情があった。


「シャーリー、聞いてる?」


 前世の記憶は友達のサラにだって打ち明けたことは無い。六つの頃シャルロットは都からグルース村に移り住み、その時からサラとはずっと親しくしている。


「ああ、ごめんなさい。それで、ロブからもらった花をどうしたら……だったかしら」


「こ、声が大きい! 内緒の話なんだから!」


 慌ててシャルロットの口を塞ごうとするサラをひらりと躱し、笑みを一つ落とした。


「だから私の部屋に招いたんじゃない。窓に張り付いているならともかく、めったなことじゃ部屋の外には聞こえないわ」


 用意した茶菓子を口にしながらシャルロットは微笑む。左右非対称の子供らしさのない大人びた表情だ。


「あなたってば意外と意地が悪いんだから」


 シャルロットと仲良くしているせいで村娘にしては丁寧な口調のサラは頬を膨らませた。


「私、優しくなんてないもの。年の割に静かだからそう見えるだけ。ほんとに優しいのはゼストの方」


 今世とは異なる人生でシャルロットは働きに出ている歳だった。クローゼットのような小さな部屋に便利な機械を詰め込んで、クッキー缶のような鉄の箱で運ばれ、吐き気と眠気を飲み下しながら働いていた。断片的にしか思い出せないが、忙しない人生だったのだろう。そこからしてみれば穏やかで先行きの明るい今生である。


「本に挟んで押し花にしてしまう? 日に当てなければ色も残ってくれるわ。絵に描いても良いけど、絵筆を持ったことはある?」


 逸れてしまった話を戻すべく二、三の提案をすればサラは眉尻を下げた。


「小屋の壁を塗ったことしかないわ……」


「じゃあ決まりね。挟むための紙と本を用意してくるから待っていて」


 サラの返事を待たず、シャルロットは父の書斎の本を取りに行くべく部屋を出た。

 村で一番大きなシャルロットの家は使用人こそいなかったが生半可な貴族の屋敷よりは立派で、貴重な紙の本もたっぷりあった。

 書斎の扉を開けば明かりが灯る。科学技術に乏しい世界にも関わらず、代替となる魔石による技術が栄えていたことはシャルロットにとって有り難いことだった。異国では魔法を扱う人間もいるらしいが、ドガの国ではそんな人間は少ない。


(本が読めるし、村に学校はないけど家庭教師が来てくれる。衛生観念もそう悪くない)


 牧歌的な景色を保ちながら暮らす人々の意識は近代に近い。申し分のない環境だった。

 整然と並べられた本の背表紙を確認しながら目当ての一冊に辿り着く。


(……この小説は私しか読んでいないし、これにしましょう)


 父親の書斎ではあったが、シャルロットに甘い父は彼女のための小説を数多く買い揃えていた。

 書き置きだけ机の上に残し、書斎を出る。部屋に戻るべく歩いていれば仕事場を兼ねた離れに繋がる廊下の方から、一人の少年が近付いてきた。


「シャーリー、今一人?」


 声変わりを目前としているために少し掠れた声。この響きが失われた後に生まれる響きをシャルロットは既に知っていた。


「見たままだけど、部屋にサラを待たせているの。用があるなら手短にお願いしたいわ」


 少年の鴬色の髪がそよぐ。丘の上にあるシャルロットの家はいつだって風が吹いている。

 この少年こそ、シャルロットが前世の物語を頭の片隅に残し続ける理由だった。


「勿論。……ロブがサラを気にしていてね、けしかけたこちらとしては責任も感じる」


 片目を閉じていたずらめいた表情を作るゼストに彼女は一つ溜め息を落とした。


「あなたってほんと、責任感のある人」


 口調で精一杯悪ぶってはいるが、シャルロットならそもそもけしかけることもなくあるがままを眺めていたことだろう。

 両親たちに適当な結婚相手を見つけられる前に好き合った相手と交際ができるよう段取りを整えてやる面倒見の良さをゼストは持っていた。


「悪くないんじゃない? 幻滅されるようなことさえしなければまとまるわよ」


 肩を撫でる長さの白茶の髪を耳にかけ、シャルロットは笑った。サラのことは大切な友人と思っているが、ロブには正直興味がなかったのだ。村に越してきたとき意地悪をしてきた集団の中にいなかったことは評価しているが、それだけだ。


「調子に乗りやすいところがあるからなあ……そこだけ気をつけさせるよ」


 翡翠の瞳が細められ、光が散る。人の目玉にすぎない筈なのにゼストの目は常に輝きを湛えていた。その色をいつだってシャルロットは見つめている。


「そうなさいな。女の子は一瞬で見切りをつけるんだから」


「肝に銘じるよ」


 それだけ言葉を交わし、二人は別れた。ゼストの父がシャルロットの屋敷に勤めていることもあってゼストとはよく顔を合わせる。その度にとりとめもないことを喋り合うので、態々話題を捻出しなければならない理由が二人にはなかった。

 部屋に戻ればサラが落ち着きをなくして辺りを見回していた。シャルロットと目が合った途端に口を開く。


「い、今更だけど花をとっておく女って重くないかしら!?」


「重いって言う男だったら、ふってやりなさい。その時点で合わないんだから」


 可愛いサラを見初め、誑かしたことをシャルロットはまだ腹に据えかねている。


(絶対ゼストの入れ知恵よ)


 村の子供達は畑や家仕事のことなら頼りになるが、こういった機微には疎いはずだった。花を使ったロマンチックなアプローチがロブから出てくるとは到底思えない。


「正直ゼストの助言がなくちゃロブは紳士に振る舞えないけど、サラはそれでいいの?」


 シャルロットの問いにサラはいくつかの躊躇いの後、答えた。


「わたしに好かれるために行動を変えてくれるなら、それだけで嬉しいの」


 恥じらいを見せながら微笑んだサラはこの上ないほどに美しかった。


(私きっと、こうはなれない)


 前世の記憶を知覚する前からシャルロットは冷めた少女だった。村に越してくる前は都に住んでいたが、引っ越しの際も感慨を抱くことは無かった。

 涙を流すことも物思いにふけることも無く状況を受け入れる娘の様子を両親は心配したが、シャルロットからすれば悲しむ理由が無いだけだった。


「……ねえシャーリー。私はロブからの花に一喜一憂してるけど、あなたはこうならなくたっていいの」


 薄紙の上に花同士が重ならないよう一輪一輪乗せられていく。日に焼けたサラの肌の瑞々しさに合う、色の濃い花々だった。


「真っ直ぐにわたしの話を聞いてくれるあなたが大好き。好き勝手振舞ってるつもりだろうけど、他人の目が気になってしまう優しい子」


 重ねられたサラの言葉にシャルロットは思わず目を伏せた。


「何度も言うけど、あなたが言うほど優しい女の子じゃないわ」


「素直に意地っ張りな可愛いあなた。自分の姿なんて鏡を覗かなきゃ見えないもの。そうしたって頭の後ろは見えないまま。いいから、わたしの言葉を受け取ってね」


 年相応の純真も前世を糧にした賢さもシャルロットは持ち合わせていなかった。ただ事実をそのままに受け取めるだけの冷えた心根だけを具えてこれからを生きていく確信だけがあった。






 サラがロブから花を受け取った回数が片手で足りなくなった頃。ある日の昼下がり、屋敷はひどく静かだった。シャルロットの両親が村の大人たちと連れ立って都に商品の搬出に出かけたためである。仕事場でガラス細工のスケッチをするゼストを肘をついた行儀の悪い様子で観察しながらシャルロットは切りだした。


「多分私、あなたと結婚させられるわ」


 村の子供の中で年の近い組み合わせは限られている。両親はシャルロットを嫁がせる気はなく、婿を取ると最初から決めていた。

 誰もいない屋敷で二人で過ごすことを許されているのもゼストが一人娘の将来の伴侶として信頼されているからだった。


「まあそんな気はしてる。俺もこの村を出る気はないし、サラと君以外の女の子は年が離れてる」


 礼拝日に教会で簡単な読み書きを習う程度の教育しか受けていないにも関わらずゼストは優秀だった。計算が速いだけでなく他者の機微を読むことも得手としており、人に合わせた接し方ができる。

 立ち振る舞いによっては腹黒いと言われかねない性質だったが、彼自身が穏やかで赤心から動いているため年代を問わず慕われる子供だった。


(贅沢な話だけれど、ゼストは好みじゃない)


 顔立ちも整っており癇癪持ちでもないゼストはこの上ないほどの結婚相手だったが、だからこそあまりにもそつがなかった。

 家庭を支える共同経営者としては信が置けるが夫として己の隣に据えられるかをシャルロットは不安に思っていた。

 言葉を選ばずに言えば、もっと自分に縋ってくれるような情けない男がシャルロットは好みだった。誤解しないでほしいのは彼女は賭博や薬物に手を出し女遊びの激しい破落戸を好んでいるわけではない。社会的に自立していながらも精神的支柱がひとつに偏っているような男が好きなのだ。

 尤も恋において好みなどただの参考材料でしかないこともシャルロットは実体験として身に染みて知っていたが。


「はあ、恋愛の一つもしないで結婚。なんて不健全な人生なのかしら」


「君、その手のことに興味ないだろ」


 半眼のまま一瞥もせずに切り捨てたゼストをシャルロットの山吹色の目が見つめる。


「丁重に扱いなさいな。未来の花嫁よ」


「君は自分を尊重することが上手だから、俺は客観的立場に終始した方が効率が良いかな、と」


 若葉色の瞳が弓月を描く。左の口許だけを持ち上げた表情は大人たちの前では見せないゼストのもう一つの笑い方だった。


(これだからゼストは……)


 心根をさらけ出しているようで、その実はシャルロットが望んだ振舞いを模写トレースしているにすぎない。翡翠が若葉に変わり、瞬きの間にパッチワークのひと欠片。個としての主張を行わず美しい紋様に紛れてしまう。

 結局のところゼストの中に特別は無く、彼の心が自分によってさざめく未来をシャルロットは想像できなかった。


(いつか見せてほしい。この人が誰かに執着するところを)


 純然たる悪趣味でシャルロットは期待した。望まぬ形でこの願いが叶えられることを知らぬままに。

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