この人生に彩を

水底から斯く語りき

第1話 一日の終わり

 日中は暴力的な夏の陽射しを浴びて汗をかき、太陽がその身を隠せば先程までの威勢はどこへやら。墨を零した夜空に煌々と輝く星々は、優しい影を道路に落としてくれる。

 急激に肌寒くなった風を身体に受けて、家路に着く。日中の気温に合わせて選んだ服装は夜風から身体を守るには些か頼りなく、外を歩く足取りは夏に比べて忙しなく動く事に人々はまだ気付いていない。

 澄んだ空気が鼻先を掠めて、秋の訪れを感じさせた。

 黒とオレンジと紫を基調とした街中のネオンサインや看板は、外国由来のお祭りを楽しんでいるのか、馬鹿騒ぎしたい口実を探しているのか見当もつかない。それらを一瞥した後、視線を前へと正して歩みを進める。

 いつからだろう?帰宅しても返事がない自宅に向けて「ただいま」と声掛けする事を止めてしまったのは。一人で暮らすには十分な間取りは、帰宅したばかりの部屋では外気と変わらない程に肌寒さと心細さを感じさせるのだった。

 持っていた鞄とポケットに入っていた物を机の上に置き、上着を脱いでシャツのボタンを緩めていく。一つ一つ社会と戦う武装を解除して、ようやく小さな安堵の溜息が漏れた。より大きな安堵の溜息が漏れるのは、全て脱ぎ捨てて浴槽に身を投じる時だろう。その瞬間を迎える為に、帰宅しても休む事はまだ出来ない。

 新たな下着と部屋着、そして脱いだ作業服を混ぜ合わせない様に小脇に抱えて脱衣場へと向かう。作業服は洗濯機へ投じ、風呂上りに着る服はバスタオルと共に浴室入り口近くに置いた籠の中へ置いた。

 給湯器のスイッチを入れれば小気味良い音と、湯張りを開始する音声が鳴り響く。そして一連の動作はようやく小休止を迎えた。

 湯張りの間、テレビの電源を付けて自身の興味が湧く番組を探すがそんな事は大してない。それならば、とサブスプリクションサービスの番組から見始めたドラマを探して再生すると、静寂した部屋に自分以外の声と音楽が、湯張りを終える給湯器の音をかき消して鳴り響いた。

 結局、ダラダラと再生したドラマを眺めながら酒と簡単な食事を終えた頃には水温は幾らか下がっており、再度水温を温め直してから風呂に入る。張りつめていた緊張の糸が切れた事で深い溜息を漏らしながら、ふと考えた事が頭を過ぎる。

「…楽しい事、ないかなぁ…」

 学生の頃の楽しかった記憶に思いを馳せるが、あの頃の様な楽しさは社会に出てからは全くと言っていい程に無い。

 何もかもが輝いて見えた楽しい時間は、煌々と輝く星空の様にも思える。都会で見上げる夜空の様にいつかはその思い出すらも輝きを失って、見えなくなってしまうのだろうか。

 夜はどうしても悲観的な思いを募らせてしまう。他人とのつながりが急速に途絶えるからだろうか。

 浴槽に張った湯水で顔を洗って悲観的な思いを断ち切り、息を整えた後で浴槽を後にする。

 “明日こそは今日と違う一日を過ごしたい”

 いつからだろう?一日の終わりに今日と違う明日を願う事を止めてしまったのは。

 目を瞑れば、意識のスイッチも程無くして切れてしまう。

 そうして次に目を覚ます頃には、夏に比べて少し陽射しが弱い朝がやってくるのだった。

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