絵師は、画から飛び立つ蝶を夢見た

肩ぐるま

絵師は、画から飛び立つ蝶を夢見た

絵師は、今日も、ただただ、白い紙を見つめていた。

日が昇ると紙の前に座り、筆を手に取るのだが、動きはそこで止まり、正午過ぎまで身じろぎもしないで座っている。やがて、昼餉のために立ち上がると、もう戻ってこない。

そんな日々が、一月近くも続いていた。

弟子からその様子を聞いて心配した近衛将監が絵師を訪ねてみると、絵師はその日も紙の前で座り込んでいた。

「絵師殿、近頃はどうじゃ。どうやら、新しい画の案を練っているらしいの」

その声に、我に返った絵師は、振り返って訪問者を見た。

「おお、将監様。これは、見苦しい姿をお見せした」

筆を筆立てに収めると、

「このような場所ではお話もできませんので、あちらへ」と、隣の部屋へ誘った。

「これ、お茶を持て」と、弟子に命じると

「今日は、また、どのようなご用向きでござりますか?」と聞く。

「いや、近頃のそなたの噂を聞いて、ちと心配になって来てみたのじゃよ。なんでも、絵が進まぬ様子だが」

「そのような噂が立っておりますか。いやはや、人の口に戸は立てられぬものでございますな。おそらく噂の出どころは、不肖の弟子でござりましょう」

「はは、弟子を責めてはいかん。そのような話を人にするのも、お主を心配してのことであろう。現に、人づてに話を聞いたわしが、そなたを案じて、ここに来ておるではないか」

「それは、かたじけない。また、面目ござらん」

「ところで、何を思案しておるのじゃ」

「それが、近頃、ふと趣向を得まして。ほぼひと月ほど前にもなりますが、庭に、蝶が舞っているのを見まして」

「ふむ、蝶は、お主の得意じゃないか」

「はい、そこで、すぐに蝶を描こうとしたのですが・・・」

「それで」

「そこで思ったのでございます。私が描いた蝶が、もしそのまま命を得て、紙から抜け出して舞ったら。私に、そのような蝶が描けまいか、と」

「何、描いた蝶が命を得てとな・・」

「はい、中国の故事に、描いた物が命を得るようなことがあったとか、なかったとか。あいまいながら、そのような話を聞いた気もいたしますので。それで、私も、命を得て飛び立つ蝶を描いてみたいと思いました」

「う~ん。なんとも不思議なことを思いついたものよ。それで、どうした」

「しかし、いざ筆を取ってみますと、どのように描いたらいいのか、とんと分かりません。どのように描いたら、蝶が命を得るという確信がもてません。それで、毎日、紙を前にして一筆も描けずにいる始末でございます」

「うむ、描いた絵が抜け出すという話は聞いたことはないが、文字から鬼が飛び出すという話なら聞いたことがあるぞ」

「と、申されますと」

「昔のことじゃ。都に名高い行者がおってな、その者が呪文を記すと、そこから鬼が抜け出して、相手のところへ飛んでいくということじゃ。まっ、この目で見たわけではない。あくまでも、そう伝えられているというだけのことじゃ」

「呪文から鬼が飛び出す、なんとも物騒な話でござりますな」

「いかにも。いささか剣呑じゃで、お上の詮議をうけたそうじゃ」

「ほー、それは却って、話の信憑性を裏付けますな。それで、詮議の結果は如何に」

「役人の前で、煙のごとく消えたそうな」

「目の前で消えた、とは?」

「その行者は、詮議の最中に、『しからばごめん』とい言い置いて、役人たちの前で忽然とかき消えたと言うことらしい」

「うーむ、面妖な。で、その後は?」

「以来、その行者を見た者は、おらぬという」

「それはいつ頃の話しでございますか?」

「先の帝の御代のことじゃて、かなり前でのことになるのう」

「もし、その者に会うことができれば、描いた蝶が絵から抜け出る法が分かるやもしれませんな」

「かも知れぬな」

近衛将監の訪問があった翌日、絵師は旅立ちを決意した。

「お師匠様、今回は、いつ頃までお出かけでございましょうか」

「うむ、まず、都に出て、将監殿が言っておられた行者の消息を訪ねてみるつもりじゃ。しかし、行者の行方がすぐに分からぬとなると、戻ってくるのはだいぶ先になるやもしれぬ。よって、今回はお前も連れてゆかねばなるまい」

こうして師弟は、初夏の頃に屋敷を出た。

都では数日逗留したものの行者の行方はついぞ知れず、一人の僧侶から聞いた噂を訪ねて東国へと足を向けることになった。

ふた月ほど経って、二人がたどり着いたのは、霊地として信仰を集めるある山の裾にある小さな村であった。

その村で、

「この辺りに、徳の高い行者様が修行をされておられぬでしょうか」と聞いて回ったところ、ある家で耳寄りな話を得ることができた。

「ここの山には行者が集まる滝がござる。この先を進んだところにあるゆえ、そこで尋ねられてはどうじゃ」

師弟は、長旅の疲れも吹き飛ぶ思いで、教えられた道を進んだ。

獣道をまる半日ほど歩いたところで、一人の行者に出会った。

「そちたちは、わしに会いに来たのであろう」

行者は、向こうから声をかけてきた。

「はて、手前どものことをご存じでおられるか」

「ふむ、ひと月ほど前に、わしを訪ねてくる二人連れがあるとお告げがあったのじゃ。そこで、日にちを占ったところ今日ということが分かったので迎えに来たのじゃ」

この言葉に師弟はたいそう驚き、二人して平伏し「まことに、その通りでこざります」と答えた。

その夜は行者が仮住まいにしている岩洞に泊まることになった。

行者は、一つまみの粉薬を絵師に差し出した。

「まず、これを飲んでみよ」

「これは、何でござるか」

粉薬を受け取りながら、絵師がけげんな顔で答える。

「絵に命を与える薬じゃ」

行者はそれ以上は言わずに、薬を飲むように目で迫った。

その眼光に押されて、絵師は、恐る恐る薬を口に入れた。

絵師の喉ぼとけが上下し、薬は飲み干された。

「それでは、ここに座りなされ。」

岩床の上に、枯草を敷いた場所があり、絵師はそこに座らされた。

「この灯りをじっと見るのじゃ」

行者は絵師の正面にたいまつを据え、自身は炎の後ろに隠れる場所に座って両手で複雑な印を結び始めた。

最初、行者は無言のうちに、流れるような鮮やかさで次から次へと印を結んでいたが、やがて低い声で真言を唱え始めた。

行者の真言は、低くうねったような調子で続いているかと思えば、じょじょに声高くなり、また低くなりと、様々に変化した。

ほぼ二刻ほど真言が続いたであろうか、行者は気合とともに九字の印を切った。

しばらく間をおいて、

「これで、絵師殿、そなたには、絵に命を与える力が授けられた。そなたが描く絵は、命を与えられて、画から抜け出すであろう。ただし、それは、一度だけじゃ」

絵師は、行者に深々と頭を下げた。

「不思議な力を授けて頂き、どのようなお礼をしてよいのか分かりません」

「いや、お礼を申されるのはまだ早い。この力を使って、帝に、わが身のご赦免をお口添え頂きたい。そのためには、帝の前で蝶を描いてもらうことが肝要じゃ」

「それは、また・・・」

絵師は、一度絶句したが、思い直して

「承知いたしました」と答えた。

都に帰った絵師は、つてを頼って、絵から蝶が抜け出すところを帝に見て頂きたいと申し出た。願いは聞き入れられ、天覧描画が催された。

白装束に身を固めた絵師は、帝の目の前で、見事な蝶を描き上げた。

その瞬間、誰もが、蝶が飛び立つのを待った。

ところが、描かれた蝶は、絵から抜け出すことはなかった。

息づまる沈黙の中、突然、右大臣が笑い声をあげて、皆を救った。

「絵師よ、そなたは、その行者にたばかられたのじゃ。愚か者め。いま手打ちにしてくれるから、そこになおれ」

右大臣は座敷から下り立つと、衛兵に、絵師の首をはねるように命じた。

慌てたのは帝で

「右大臣、座興じゃ、座興。たかが蝶の絵でそこまですれば興ざめじゃ。朕は、戻るぞ。その絵師のことは、よきにせよ」

そういい残して、帝は席を立った。

絵師は、無罪放免となったが、失意のうちに、半年後にはこの世の人でなく亡くなった。

その後、絵師の最後の絵から蝶が消え、紙が白紙に戻っていたことは誰も知らない

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