第1話

 君は僕の全てなんだ。

 これまでも、これからも。


 ◇◇◇



「……くそ、今日には成っていると思ったのに」


  美しい朝焼けした空が頭上にあるというのに、僕はそちらには見向きもせず、冷たい地面を睨むように見つめていた。何度見ても状態が変わることはない。それの存在意義とも言えるものを作れていない自身の無力さには嫌気が差す。果てには「何で成ってくれなかったんだ」と目の前の喋らぬ緑に説教まで垂れようとするのは流石に呆れる。


  その日初めて空を見上げた。嫌味なまでに綺麗な、というのはこういう時に使うのだろうなと僕は胸につっかえる靄を鼻から吐き出しながら笑った。彼女には何を言おうか。このような不完全を渡すわけには――。


「シラン!」


  ああ、噂をすればやって来てしまった。

 可愛い可愛い、僕の運命が。


「……朝からうるさいよ、ルピ」


「えへへ、ごめん。シランに会えたのが嬉しくって」


  自分の吐く毒のある言葉をするりと躱し、僕の心を抉るような笑顔を向けてくる。矢に打たれた経験はないが、まさに今はそれと同様な状態にあると思う。心臓が痛いほどに鳴っている。笑顔1つでこうも心が乱されてしまうのは、後にも先にも彼女だけだった。


  彼女の名はルピシア。


「し、シラン……?」


  僕が人生の中でたった一人、愛した人だ。


  自分でも気付かぬうちに彼女の髪を撫でていたらしい。手に柔らかな心地を感じたのと、目の前の彼女がぽぽぽと頬を赤らめたことで我に返った。


  僕とルピシアは恋人同士ではあるが、それらしい触れ合いというものは行ってこなかった。大した理由などなく、ただ単に僕が恥ずかしかったからであるのだが、ルピシアはそれを気にして拗ねる素振りも、不満に思っている素振りもなかった。


「行動にしなくてもちゃんと伝わっているよ」


  そう優しく笑った彼女の姿が忘れられない。僕とて彼女に触れたい気持ちはある。だが実際に手を伸ばすとなると、心臓がまるで自分の制御下から離れてしまったような心地があってむずがゆくなる。それが溜まらなく嫌で、でもどこか心地良い様にも思えるのも不服で。結果として彼女に触れる回数は少ないままだった。


  だからだろうか、ルピシアがこんなにも戸惑っているのは。ピンク色の髪も相まって、彼女が纏う雰囲気はいつもに増して優しい印象を受ける。


「ど、どうしたの? 珍しいね」


「まあ、今日くらいはと思って」


「あ、もしかしてわたしの誕生日のこと?」


  そんな耳元で言わなくてもわかる、とぶっきらぼうに言い放ったのはいいが、まずいと思い直した。僕はルピシアに対してプレゼントなるものを用意していたのはいいが、それは使い物にならないことが今朝明らかになってしまった。今から代えの物を探す時間もない。ここはひとつ「誕生日プレゼントを忘れていた」とでも言ってしまおうか。


 しかし――。


「?」


  彼女の美しい緑の瞳に一点でも黒いものが混ざってしまうのは嫌だ。それも自分が原因だなんて耐えられない。僕は短い葛藤の末、大きなため息を吐いてルピシアに向き直った。彼女の瞳をしっかりと捉える。


「渡したいもの、あるんだけど」


「えっ、えっ! 本当!?」


「けど君が満足してくれるかは……」


「する! するに決まってる!」


  あまりにも無邪気な返事に思わず笑みがこぼれてしまう。そうだった。君はどんなに不完全なものでもそう言ってくれる人だったな。きっと今も何かを貰えるということに対してではなく、僕が自分のことを考えて何かを準備してくれたという事実に喜んでいるのだろう。


  そういう君だから――。


「……これを、君に」


  花畑。しかし何の花も咲いていない殺風景なものだった。もはや花畑と呼んでいいかも分からない。受け取れるものと言えば、栄養豊富な地面とそこに芽吹く小さな芽のみ。


  花は咲いていないと花とは言えない。


  隣にあるルピシアが作った花畑と僕が作った花畑を見比べてみれば一目瞭然だ。こんなにも美しい花を作れる彼女に僕がこんなものを渡したとて喜んでもらえるのだろうか。まだ芽しか咲かすことのできない僕を見て、彼女は呆れないだろうか。


  不安だった。


  だから僕はその瞬間まで彼女にこれを渡すべきだろうか悩んでいた。


「本当は咲いている姿を見せたかったんだけど……」


  君の綺麗な桃色の髪と同じ色の花を選んだんだ。君と並んだらきっと綺麗だろうなと思ったから。今の僕にはまだ無理だったみたいだけど――。


「うれしい」


  けど、君は。


「嬉しい! 嬉しい! こんなに嬉しいことがあるなんてっ!」


  こんな不完全なものでも喜んでくれる。君がこんなにも喜ぶから、この花畑も世界一素敵なもののように思えてきてしまうんだ。


  ああ、こういう君だから僕は。


「大げさだよ、ルピ」


「そんなことない。しかも芽を出しているなんて……! きっと素敵な姿を見せてくれるわ! とっても楽しみ!」


「いや、きっと僕は君みたいに咲かせられな……」


「シランなら出来る! わたしが保証する!」


  君の言葉はなんでこう、いつも僕の心を軽やかにしてしまうんだろう。長年抱えてきた確執とか。コンプレックスとか。どうでもよくなったとまでは流石に思わないけれど、君の笑顔を見ているとそれすら受け入れようと思ってしまうんだ。君が僕の全てを否定しないでいてくれるから。僕はこんなにも心地がいい。


「わたしもね、今新しいお花を育ててるんだ」


「へぇ、今度はなんの花?」


「えへへ、秘密」


  なんだよそれと目を細めて顔を睨むように見つめてみれば、楽しそうに彼女が笑う。「シラン変な顔」なんて言われてしまっては少しカチンとくるものがあったが、彼女の笑顔を見ていたらそう考えてしまうのもおかしく思えてしまって。僕も自然と笑ってしまっていた。


「でもね、わたしのとっても好きな色で咲いてくれるお花、っていうのは伝えておこうかな」


「君の好きな色?」


「ふふっ、さて何色でしょう」


「別に何色でもいい」


「あ、またそんな意地悪言う」


  僕らは図らずとも二人して土いじりを始めていた。隣に並んで、綺麗な花が花となってくれるように。丁寧に彼ら、彼女らを扱う。僕は腰に下げているハサミの内の1つを取り出して、成長の邪魔になるであろう根を切っていく。


「シランはハサミの扱いが本当に上手よね。いつも思ってたけどとっても器用」


「まあ、手先は器用かもしれないけど。僕からしたら君の方がすごいと思うよ」


「わたし?」


「どんな花だって元気に咲かせてしまうだろ。まるで母親のようだなって.....緑の手を持っているなっていつも感じていた」


  そう言うと、ルピシアは突然クスクスと笑い始めた。


「わたしたちお互いのことをすごいって思ってるんだね。そんなわたしたちが一緒なら、これからもっとたくさんのお花を咲かせることができるかも」


「……そうしたら、君の花壇も賑やかになりそうだ」


「あはは。なんだかその言い方、家族みたいね」


  家族、か。


「ねぇ、ルピシア」


「なあに、シラン」


  ルピシアの笑顔に僕は見惚れた。何度だって見たことがあるくせに、何度だって惹かれてしまう。


  春のような君。すぐに過ぎ去っていく儚さを感じさせながらも、心には暖かな気持ちを残してくれるような。そんな君。


  そんな君だから、僕は。


「僕と結婚してくれないか」


  そばにいてほしいと思った。


  その笑顔をいつも隣で見せてほしいと思った。そんな贅沢ものになる権利なんて、僕にはないと思っていたけど、君はそんな僕すらも容易く受け止めてくれたんだ。そんな優しい君のそばにいたい。


  どうか僕を、これからも受け止めてほしい。そして、僕に君を受け止めさせて欲しい。


「君に、傍にいて欲しいんだ」


  僕はポケットから小さな指輪を取り出した。特別な宝石が施されているわけでもない、特別な意匠があるわけでもない、ただの銀色の指輪。だけど、僕の精一杯の愛。


  柄にもなく手が震えていた。春の訪れを感じる季節で、冬の寒さはもう通りすぎているというのに指の先が冷え切って仕方がない。僕はルピシアの次の言葉を待っていた。


「わた、しも」


  鈴のような声だと思った。


「わたしもシランと結婚したい……!」


  世界一素敵な鈴のような可愛い声。


  その声で僕の名前を呼んでくれるだけでこんなにも嬉しいのに、僕のことを求めてくれるの?ああ、嬉しくてどうにかなりそうだ。


  僕は格好つけて、あふれ出そうになる涙を抑えて小さく笑った。そして準備していた銀色の指輪を彼女の小さな左手の薬指にはめた。


「……っ」


  僕の人という証。


「シランも」


  僕が君の人という証。


  ああ、なんて。

  なんて、素敵な日なのだろう。


  僕の目にはルピシアしか映っていなかった。ルピシアの目にも僕しか映っていなかった。だから僕らは気付けなかった。朝焼けの美しい空に、子供が絵具を倒してしまった時のような真っ黒な歪が現れていたことに。そしてその歪が、僕らの頭上にまでやってきていたことに。


  さながら、天地を揺らがすほどの轟音が。


「ああ”あああっっ!!」


  黒の歪は稲妻のように彼女の身体を貫いた。


  黒の衝撃は凄まじいものだった。周囲の花畑は見る影もなく、一瞬にして無残な荒野へと姿を変えてしまう。そしてその衝撃を直に受けた彼女の痛みは、形容できないほどだ。


  肌が縮れ。美しい髪は変色している。鈴を転がす可愛らしい声はひしゃがれ、オーロラのような緑の瞳は徐々に光を失われていく。僕は苦しむ彼女の身体を抱きしめた。


「ルピ! どうしたんだ!?」


「いたい、いたいいたいいたい!!」


  ルピシアを襲ったのは激しい痛み。身体が燃えるような。凍り付くような。貫かれるような。本来であれば同時に存在するはずのない痛みが、今だと言わんばかりに彼女に襲い掛かり続ける。見えない痛みを退ける術がなく、ルピシアはただ、もがき苦しむことしかできなかった。


  そして僕もルピシアの中で一体何が起こっているのか何もわからなかった。僕はひたすらに無力だった。ただ、痛みを受ける彼女の身体を抱きしめることしかできなかった。


  しばらくして、ルピシアの状態が変わった。充電が切れたオルゴールのようにぱたりと動きを止め、力なく首を上へと向けている。それが彼女の意志によって起こっているものではないのは明らかだった。


  腕の脱力感。ずしりと感じる人間としての重み。そして、見たこともないほどに黒く染まっていく瞳、身体。彼女の異変は全て空からのあの闇によるものだと心が感じていた。


「聖女は役目を果たしたか」

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