ステディスマイル

小狸

短編

 もう限界である。


 社会人になって、いの一番に思ったことというのは。


 無理。


 というそのただ一言に尽きる。


 全てが無理なのである。


 仕事は勿論ちゃんとこなさなければならない。


 企業が求めているのは即戦力なのだ。中途半端でも初心者でもない。駄目な奴は蹴落とされ、落ちこぼれ、どうしようもなくなる。だから食いつくしかないのだ。


 そして生活の方も、きちんとしなければならない。


 私は一人暮らしである。


 大学時代から一人暮らしなので、家事は慣れたものだが、今までと違うのは、身体を拘束され賃金が発生する時間ができたこと――くらいだろうか。


 特に仕事をする者にとって、身体は資本である。


 食事の栄養バランスも考えなければならないし、早寝早起きも習慣づけねばならない。適度な運動をすることも良いこととされている。


 更に言えば、趣味も持たなければならない。


 会社の飲み会の場などで、何もない、何の取り柄もなければ何も継続していないつまらない人間と思われるわけにはいかないからである。


 とは言っても、社会人の私がすぐにできて、今まで継続してきたことと言えば、読書くらいである。


 休日の空き時間は、流行りの小説を読み漁った。


 そんなこんなの事柄を考えながら、考え煮詰めながら社会人生活を過ごして三年間、ついに限界が来た。


「無理!」


 日曜日の夕方、図書館から帰って来て、空の図書館バッグを玄関に投げつけた。


 思わずそんな言葉が、口の中から転げ出た。


「あー、無理無理無理無理」


 そう思って、子どもみたいに、頭を抱えて、私は泣いていた。


 何泣いてんだよ、と自分でも思う。


 それでも、一度決壊してしまった堰を、留めることはできなかった。


 分からないのである。


 一体どうやって、皆はこのストレスしかない社会を生きているのか。


 生きるのって、辛すぎやしないか。


 いや、分かっている。


 私の両親は、生きているのが辛そうだった。


 実際に辛いと言っていた。


 生きづらい、と、


 そんな両親の下で育ったからか、世の中の厳しさ、苦しさ、辛さ、しんどさは、知っていたはずだった。


 ああ、そうか。


 ――大人になるってことは、辛いことしかないんだ。


 ――苦しいことしかないんだ。


 ――嫌なことなんだ。


 ――早く死にたいなあ。


 そんなことを思いながら、結局死ぬ勇気もなく、社会人になるまで生きてしまった。


 そして今、生きるのが嫌になるほどに「しんどい」を抱えている。


 馬鹿みたいである。


 あの時死んでおけば良かった。


 素直にそう思った。


 あの時が具体的にどの時なのかは、私にも分からない。


 いつだって、死んでも良かった。


「あーー、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌!」


 当たり前のように朝早く起きて、当たり前のように満員電車に揺られて、当たり前のように仕事に従事して、当たり前のように残業して、当たり前のように頑張ることを強要されて、当たり前のようににこにこしている社会通念上の枠からはみ出ないように生きて。


 否。


 きっとそう生きることが正しいのだろう。


 そうだ、そっちの方が正しいのだ。


 間違っているのは、私の方なのだ。 


 例えば私がこれで心療内科とかに行けば、「正しい側」に矯正されるのだろう。


 ちゃんと仕事に行ける人間に。


 ちゃんと労働に従事できる人間に。


 ちゃんと毎日の生活ができる人間に。


 「ちゃんと」の形は、もう既に決まっているのだ。


 何が多様性だよ、ちゃんちゃらおかしい。


 初めから決まった形に当てはめられて生きてゆくだけなのだ。


「なんでお前らはちゃんとできるんだよ! 私には! もう! できないんだよ!」


 誰に対してでもなく、私は部屋の中の、布団にうずくまってそう叫んだ。


 誰も、何も答えなかった。


 当たり前である。


 転職したところで、結局変わらないだろう。


 私の生きづらさは、職場を変えた程度で解消されるようなものではない。


 どうしよう。


 どうすれば良いんだろう。


 死ぬか? 


 一番先に思い浮かんだのが、その選択肢だった。


 死んじゃったら、もうこんな悩みに苦しむ必要はなくなる。


 楽しいことなんて何もない――ただ仕事に行って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張るだけの人生に、意味なんてないだろう。


 それが終わるだけである。


 ただ、死は、多様性の適用の範囲外である。


 死ぬことは、悪いことで、いけないことで――特に自殺は人に迷惑をかけることである。


 駄目、駄目、駄目。


 全部駄目。


 私の提案を、もう一人の私が全て否定する。


 あーあ、結局生きるしかないのか。


 このまま生きて、残りかすになるまで働かされて、いつかぶっ倒れて壊れるまで歯車のように回転させられるしかないのか。


 もう嫌だな。


 しかし、嫌というそんな気持ちも、どこかの私が否定する。


 ――皆嫌な中で頑張ってるんだよ。


 ――皆辛い中で生きているんだよ。


 ――自分だけが辛いとか思って、可哀想ぶって、誰かに構って欲しいだけじゃん。


 ――辛いのはお前だけじゃないんだよ。


 分かっている。


 分かっている。


 分かっている。


 分かっている。



 分かっている。


 分かっていても。


 それでも私は、これ以上私を抑圧することができなかった。


「うわああああああああああああああああああああああああああ!」


 布団に埋もれて、音が隣の部屋に届かないようにしながら、私は叫んだ。


 悲鳴のようにも聞こえた。


 泣き疲れて、涙も枯れてしまった。


 ここまで来ると、諦観が先に来る。


 前を向けば良いんでしょ。


 きっと良い日が来るんでしょ。


 明日が来ると思えば良いんでしょ。


 もういいよ、それで。


 そう思って、部屋の中の鏡を見た。


 口角が下がっていたので、無理矢理上げた。


 にこにこしなきゃ。 


 笑顔でいなきゃ。


 辛い時でも耐えなきゃ。


 そこには、いびつな笑顔が映っていた。


 気持ち悪くて、私は吐いた。




《Steady Smile》 is the END.

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