6・トキコの事情
志水と名乗ったヤクザが帰ったあと、トキコはすぐに机に向かった。
借金を返さなくてはいけない。
令佳はトキコにとって、唯一の友達だった。同居中はいつも家事をしてくれたし、トキコの仕事を応援してくれていた。
令佳はトキコに、金銭的な援助を求めてきたことは一切ない。キャバクラで一生懸命働いていたし、無駄遣いもしていなかった。生活費などもきちんと折半していた。そんな令佳がトキコに借金を推しつけて消えてしまったというのは、何か事情があるに違いなかった。
とにかく、仕事をしなければいけない。
トキコには、温めていたネタがあった。それを簡単なネームに起こして、すぐに編集部に送った。ネームというのは、原稿を書き始める前に「こんな話にする」と決めておく、設計図のようなものだ。一般的に、これで編集部には仕事になるか・ならないかを判断してもらう。
連載になれば、まとまった原稿料の目途も立つ。トキコが借金を返す方法はこれしかなかった。
数時間後…すっかり暗くなった頃に、ピンクヘブン編集部の、都しぐれ担当・溝呂木から電話があった。
「しぐれ先生、おつかれさまですー。これ、急にどうしたんですか?」
「あの、連載をさせていただけないかと思って…!ずっと前から、温めていた話なんです!」
若い男女の、純愛もの。ふとしたきっかけで相手のことが気になって、恋に落ちて、ふたりは結ばれる。
ありきたりかもしれないけど、ゆっくり愛を育む男女は書きたいテーマだった。性急に進むエロマンガにも魅力はあると思う。でも、ここは一度、好きな人と愛し合う行為という原点に帰りたかった。
「次は、これで書かせてもらえませんか!?」
「うーん…これじゃ、読者ウケが悪いかなぁ。しぐれ先生のファンが見たら、物足りないって思うだろうし、新規のファンも話についてきてくれるかどうか」
「ま…また没ですか!?でも、私どうしてもお金が必要で…!」
「お金?なにかあったんですか?」
「ちょ…ちょっと、まとまった金額が急に必要になりまして…」
まさか友達の連帯保証人になっていて、ヤクザに返済を迫られているとは言えなかった。
「だったらやっぱり、しぐれ先生は、いつものがいいですよ。教師と生徒もの。すごく評判がいいし。次の読切もそれで仕上げてください。すぐ編集長に話つけますから!」
電話の向こうから聞こえる、理解のない言葉。借金返済という差し迫った理由もあるトキコには、呑気に聞こえてしまう。
けれどなにより、こんなにもあっさりと、自分の考えた作品を捨てられてしまうのか。
「でも連載にしてもらえないし、その割に売れてないじゃないですか。いつも同じような話ってレビューついてるし!」
「……」
「そもそも…私がなにを書いても溝呂木さんがネーム通してくれないから、同じ話ばかりなんですよ。いつもいっぱい直されて、結局、溝呂木さんがほとんど考えた話みたいになって。私は…自分で考えた作品を読んでもらいた」
「だーかーら!しぐれ先生はダメなんですよ」
溝呂木が、急に大きな声を出したのでトキコの体がびくっと跳ねた。
電話越しにも、彼がおもしろくなさそうな顔をしているのがわかる。
「俺もしぐれ先生の企画を通したいですよ?でも、前にもしぐれ先生が全部自分で考えたネーム見せたことありますけど…編集長からOK出ないんです。だからなんとか通るように、鉄板の教師と生徒ものにしてもらってるんです」
「……はい」
溝呂木は、いつも同じ説明をする。
そしてトキコは自分の実力を思い知らされる。面白いと思ったものが、独りよがりであると。求められていないと。
やっぱり私は、自分の作品と呼べるものなんて書けないんだ…
「それに俺、約束は忘れてませんからね」
「……!」
「ピンクヘブンで結果出したら、橙台出版の一般誌に書かせてあげるって”約束”したでしょう?そのために、一緒にがんばりましょう!」
「……はい。わかりました」
がんばるって、なにをどうやって?
トキコには、もうわからなかった。
・・・
「やっぱりだめだった…」
電話を切ったあと、机を離れて、エリザベス(注 ダッチワイフ)のもとへ向かう。
ぎゅっと抱きしめて、その頬に顔を寄せた。
「どうしよう…借金があるのに、マンガじゃ返せないの。私、もうマンガ家辞めなきゃだめかな…」
何のとりえもないトキコにあるのは、マンガだけだった。
小さい頃は体が弱くて、みんなみたいに外で元気に遊べなかった。そのとき出会ったのがマンガだった。トキコはすぐにマンガに夢中になった。そのマンガを今度は誰かのために書きたいと思うようになるまでそう時間はかからなかった。
でも実力不足でいくつも出版社に断られて、ようやくつながったのが橙台出版の溝呂木。
そこでとりあえずピンクヘブンに成人向けマンガを書いて、実力をつけようという話になった。
最初は抵抗があったけど、成人向けマンガの奥深さをトキコは知った。
ただ男女の裸があって、セックスをしていればいいというものではない。ちょっとした構図や絵の書き方で、伝わり方ががらりと変わる。たしかなデッサン力がなければ男女の絡みは書けないし、体の構造がわかっていないと不自然な体位になる。かといって忠実に書けばいいというものではなく、誇張するような工夫もいる。
研究と練習を重ねて、ようやく絵だけは褒めてもらえるレベルになった。
でも、そこまでだ。
トキコはいまだに読切――単発の仕事しかさせてもらえないし、自分が考えた話では書かせてもらえない。溝呂木にも編集長にも面白くないと言われてしまう。これでは、他の雑誌や出版社にいったところで同じだろう。
借金返済がきっかけで、もう一度あがいてみたけどダメだった。
「みんなに私のマンガを読んでもらうのが夢だった…」
言葉にすると、もうダメだった。顔が熱くなって、目に涙がにじんできた。
「でも、なにひとつできてない。どうしたらいいの…?」
――ガンガンガン!!
「っ!?」
ドアが激しく叩かれる音がした。
「俺だ!志水だ!開けろ!」
「ひっ…!借金取りの人!」
「おい、いるんだろ!出てこい!」
数時間前に、返済計画――というか、マンガで返すから待ってほしいと話したばかり。でも、数時間しか待ってもらえないものなのか。
トキコは取り立ての恐ろしさを知りつつ、そろそろと玄関へ向かった。そのあいだも、志水は「おらぁ開けろ。さっさとしろ」というようなことをわめいている。怖い。
「ど…どうしよう。連載もダメだったし、返せるお金の目途なんてまだ立ってないし…」
でも、とにかく出なければいけない。このままだとドアを破壊してでも入ってきそうだ。
鍵を開けると、音に気付いたのかドアを叩く音がやんだ。おそるおそる、ドアを小さく開く。
「すみません!まだ、お金の用意は…」
「お前、エロドージンシ書け!」
トキコは思わず、「何で!?」と言っていた。
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