「雪が包む深夜のX'masのターミナル」

まとめなな

『雪が包む深夜のX’masのターミナル』

 どうしてこんな日に限って、大雪警報が出るのだろう――。

 仁王立ちでガラス越しに外の暗闇をにらみながら、俺は心の底からうんざりしていた。空港のターミナルビルは深夜に近づくほど、普段のにぎわいが嘘のように静まり返っていく。まばらにしか灯っていない照明は非常口の誘導灯だけがやけに目立ち、その薄青い光に、舞い落ちる雪の結晶がちらちら浮かび上がる。

 これがクリスマス・イブだというのが、まるで嘘みたいだ。休暇を取って関東へ出張したのはいいが、最後に訪問した取引先で会食が長引き、最終便ギリギリの帰りになってしまった。それでも、どうにかして家族の待つ家に帰ろうとターミナルに飛び込んできたら、無慈悲にも「本日の最終便は天候不良のため欠航となりました」のアナウンスが場内に響いた。雪のためかバスや電車までも運休が相次いでいるらしい。一刻も早く戻りたいが、ここは地方空港。陸路も思い通りにはいかない。

 頭上で、クリスマスの飾り付けにつけられた色とりどりの電飾が形ばかりに瞬いている。見上げても全然うれしくない。むしろ悔しさが募るだけだ。案内所でスタッフをつかまえたが、「すみません、本日はもう他の空港も同じ状況で……」と平身低頭されるばかり。タクシー乗り場には長い列があったが、気づけばもう車の姿すら消えていた。滑走路も閉鎖。ターミナル内には俺のほかに、数えるほどの人が行き場をなくしている。


 ふと目に入ったのは飾り付けだけが取り残された巨大なクリスマスツリーだった。角の方にひっそり立っているが、電球は半分以上が消えているようで、ささやかな赤い光がちらちらと点滅しているのみ。上の方に吊るされた天使のオーナメントが雪明かりをかすかに反射して、どこか幻想的だった。

(まったく、今年のクリスマスは最悪だな)

 そんな独り言を飲み込むように、俺は自販機でコーヒーを買う。冷え切った指先をホット缶の熱でなんとか温めながら、ロビーのベンチに腰を下ろす。外から少し寒風が吹き込んでくるが、暖房も節電モードなのか心もとない。経費削減かもしれないが、こんな非常時ぐらいもう少し暖かくしてくれてもいいだろうに。


 そのとき、あたりに誰もいないはずのロビーから、不意に「カツン」と硬質な音が響いてきた。まるで楽器ケースでも落としたような音。反射的に顔を上げると、少し先のベンチでやけに深刻そうな表情を浮かべ、何やら手荷物を探っている女性がいた。ターミナルの非常用照明の下でもわかるほど、瞳の奥には気品と焦りが混在している。

 あの小柄な女は誰だろう? と見つめていると、彼女が目線に気づいてこちらを向いた。目が合った瞬間、「……すみません」といった具合に軽く頭を下げたが、その仕草が妙に重苦しい。


 少し距離を置いたまま観察してみる。彼女は黒っぽいダウンジャケットにロングスカート、首元には赤いマフラーを巻いている。そして、座席の脇にはバイオリンケース。なるほど。サイズ的にコントラバスやチェロではなさそうだから、バイオリンかヴィオラだろう。カツンという音は、ケースの金具が床に当たったのかもしれない。

 一瞬、俺は声をかけるか迷った。人見知りというわけではないが、深夜の空港で妙に絡むのは怪しまれる可能性がある。それでも、がらんどうのロビーで他に話し相手がいない状況では、こうしてじっと座っているほうが余計に不審者っぽいのではないだろうか。こっちが男性ということもあって、怪しいと思われるくらいなら、声かけをして人柄を示したほうがマシかもしれない。

 ――そんなことをぐずぐず考えていると、向こうのほうから少し遠慮がちに視線を向けてきた。


「……そちらも、飛行機、欠航になったんですか?」

 か細い声だが、きれいに通る。やはり音楽をやっているからだろうか、声質が澄んでいる気がする。

「ええ、そうです。最後の便が飛んでくれたらなんとか帰れる予定だったんですけどね。完全に足止めです。あなたも、ここに泊まりですか?」

 そう問いかけると、彼女は苦笑いを浮かべながら、無理やり肩をすくめてみせた。

「そうですね。帰国したばかりなんですが、荷物がまだ全部届いてなくて……。とにかく動けないので朝までここで待つしかないみたいです。まったく、これがクリスマスの仕打ちなんでしょうか」


 そう言いながら、彼女はまるでツリーの電飾のように淡々と明滅する表情を浮かべる。せっかく帰国したのに荷物トラブルに巻き込まれ、さらに大雪で帰宅もできない。確かに散々な目に遭っているようだ。

 俺はふと買い置きしていたスナック菓子がスーツの内ポケットにあるのを思い出し、どうせならと取り出して見せた。

「よければ、これでも一緒に食べます? お腹、空きませんか。ここらへん深夜営業してる店もなさそうだし」

 すると、彼女は少しだけ戸惑いながらも、困り顔を崩して笑みを浮かべた。

「ありがとうございます。空港の外に出ようにもタクシーはないし、雪もひどいし……。すごく助かります」


 バイオリンケースをそっとベンチの上に置き、彼女は俺の隣まで来て、小さく礼を言ってから袋を受け取った。大きな音を立てないように、袋を少しずつ開けて一枚ずつ食べている。どうやらボリボリという咀嚼音を周囲に響かせないよう、気を遣っているようだ。しかし、今やターミナルに残っているのは、奥の清掃員らしき人と我々くらいなもの。誰にも遠慮する必要はないのに。


「ところで……。もしよかったら、名前を聞いても? こんな時間と場所じゃ、さすがに『あの人』って呼ぶのも変だから」

 俺がそう切り出すと、彼女は口元をハンカチで軽く拭いた。

「そうですね。私、蒼井といいます。蒼井楓香(ふうか)。『あおい』ですけれど、苗字が色と被っているんで、ちょっとややこしいんですよ」

「いや、蒼井さん……ですか。こっちは瀬川っていいます。瀬川修二。お互い大変なクリスマスですけど、よろしくお願いします」

「うふふ、変なご縁ですね。知り合いがこんな状況で空港泊してるのを知ったら、だいぶウケますよ。『もうホテル取れよ』って」

 楓香は少しだけ冗談っぽく笑ってみせた。俺もそれにつられて苦笑いする。いや本当に、「ホテルを取るにしてももう遅いし」などと、お互い言い訳するしかない。


 何やら外は一段と吹雪いているらしく、ガラス越しにも風のうなりが聞こえる。普通なら喧騒に満ちているはずのターミナルは、雪のクッションのせいか物音すら吸い込まれていくようだ。夜が更けるにつれ、廊下の照明も次々と落とされ、人影はほとんど見えなくなった。まるで舞台のセットがすべて片付けられ、役者だけ取り残されているかのような光景。


 コーヒーの缶がすっかり冷たくなった頃、楓香がぽつりぽつりと話しはじめる。

「……留学先で、ちょっとね、コンクールに出たんです。でも結果は不本意で。だから、クリスマスぐらいは気晴らしに実家に戻ろうと思ったら、こうやって足止め食らっちゃって……。笑うでしょ?」

「いや、笑わないですよ。むしろ大変だなって思います。せっかくのクリスマスなのに落ち着くどころかトラブル続きで」

「でしょ? あ、でも笑い話にしちゃうのが一番いいんだろうな。まあ、コンクールは泣きそうになるくらい悔しかったけど、今は雪を見てたらいろいろどうでもよくなってきた」


 その言葉の奥には、孤独と不安の狭間を埋めるような響きがあった。音楽の世界は相当厳しいと聞く。コンクールの順位ひとつが評価にダイレクトに繋がり、生活もそれに振り回される。そこで散々だった彼女の心情を思うと、あまり軽々しく触れづらい。

「家族に会いたかったんだろうなっていうのは、なんとなく伝わってきますよ。ご実家、遠いんですか?」

「ええ、ここから電車で3時間ぐらいかかる場所で。実家でゆっくりしたかったんだけど……。そちらは?」

「俺は西の方へ戻る予定で。やっぱり家族が待ってるんですよ。まあ、待ってるっていうか、クリスマスパーティーを一緒にしたかっただけなんですけど……って、この年にもなって子どもみたいですよね」


 そう言うと楓香は少し表情を緩め、「いや、なんかいいですね。そういう素直な感じ」と言って笑った。俺は顔のほてりを隠すように視線をそらし、わざとらしくスナック菓子をもう一枚口に放り込んだ。

「……まあ、出張っていうのは何かとトラブルが起こりますよね。俺もさっきまで、接待やら何やらでクタクタだったんで、このまま空港で強制的に休養っていうのも、悪くないのかもしれない。……なんて、ポジティブに考えるしかないですから」

「あはは、確かに。強制休養。それ、意外と贅沢かも。なにもかもシャットダウンされて、変に誰からも連絡来ないし」


 そう言ってキョロキョロとターミナルを見回す楓香の仕草は、さっきまでの落ち着かなさとは違い、少しだけ開き直ったようにも見えた。クスクスと笑い合ううち、ロビーの片隅に取り残されたクリスマスツリーが一瞬ちらついたように感じた。もしかして、電源も不安定なのか。


 それから俺たちは、カフェインと糖分の力を借りながら、ぽつりぽつりと会話を続けた。最初は不安や落ち込む話題が多かったが、次第にくだらない冗談も飛び出すようになる。

「さっき、入口の警備員さんがチラッとこっち見てたけど、私たちどう思われてるのかな。『あの男は不審者かな』『いえいえ、あの女性が実は指名手配犯かも』とか、勝手に想像されたり」

「はは、それは困りますね。いきなり職質されても逃げる先がないし。何せここは大雪のど真ん中」

 そんな他愛のないやり取りをしていたら、いつの間にか寂しげな雰囲気がだいぶ和らいでいた。外の吹雪を恨めしげに眺めるのも、二人だとどこか滑稽なコントみたいだ。


 時間は深夜の1時を回ったころ。あたりは最低限の照明さえ落ちて、非常口ランプの光だけが地面をうっすら染めている。そろそろ寝るしかないかという空気が漂いはじめた。背もたれの硬いベンチで横になるのもつらいが、外に出て行くわけにはいかない。そんなとき、何気なく俺はバイオリンケースに目をやった。

「そういえば、バイオリンなんですよね。あれ……?」

「ええ。ヨーロッパで音楽を学んでて。コンクールでぼろ負けして、ああ、もう帰りたいって思ってチケット取ったらこのありさま」

「せっかくだから弾いてみたらどうです? こんな空港でクリスマスイブを迎えるなんて、そうそうないですよ」

 軽口のつもりで言ったが、まさか彼女が「いいですよ」と即答するとは思わなかった。


「正直、お客さんもいないし、コンクールで弾いた曲とかをもう一度おさらいしてもいいかも。……って、夜中に騒音になるかな?」

「こんなに雪が降って静かな場所でバイオリンを弾いたら、逆にいい感じじゃないですか? それに、ここ、まわりにほとんど人がいないし」

「そうだね。じゃあ、お言葉に甘えて……」


 楓香はバイオリンケースを開け、寒さでかじかむ指先をほぐすように何度か握ったり開いたりしている。その姿はまるで儀式のように荘厳で、俺はなぜか息をのんだ。やがて彼女は弓の松脂を軽くこすりつけ、弦の調律を始める。静まり返ったターミナルにかすかな音が響くと、床に薄く積もった雪までもが音の振動で落ち着かないように思えた。


「じゃあ……本当にちょっとだけ」

 彼女がバイオリンを構えると、細い体からは想像できない張り詰めた空気が漂う。まるでスイッチが入ったかのように、音楽家の顔だ。演奏を始めた瞬間、その音色は深夜のターミナルに染み渡り、周囲の殺風景な景色を一変させた。


 曲は「きよしこの夜」だった。クリスマスシーズンには欠かせない定番曲だが、今この時間と場所で聴くと、なぜか胸が温かくなる。それまで「なんでこうなったんだ」ばかり考えていた俺の頭から、雪への恨みや苛立ちが、どこかへ消えていくようだ。

 少し続けていた演奏がやがて止まると、ターミナルには余韻だけが残り、静寂が降りてきた。俺は思わず小さく拍手を送る。すると、楓香は照れくさそうに「ありがとうございます」と一言だけ。彼女の頬がほんのり紅く見えたのは、寒さだけが理由ではないような気がした。


 俺はありがちな言葉しか見つからず、「すごくいいですね」としか言えなかったが、それでも彼女は優しく微笑んだ。こんな深夜に、こんなかたちで音楽を聴けるなんて、生まれて初めての体験だ。


 演奏のあと、急に眠気が押し寄せてくる。雪に閉ざされた不自由な現実を、ほんのひととき忘れさせてくれる旋律。先ほどまでは嫌悪感しかなかった大雪も、「もしや、この出会いのための舞台装置だったのかも」などと馬鹿なことを考える余裕まで生まれてきた。


「瀬川さんは、本当はこの夜、どんなクリスマスにしたかったんですか?」

 楓香が半分ふざけたようにそう訊いてきた。

「うーん、特別なことは何も。子どもにケーキを買ってあげたり、妻と一緒にささやかに乾杯したり。その程度です」

「なんか……それが一番幸せなんだろうな。特別に飾らなくても、普通に家族と過ごせることって」

「そうですね。今こうしてみると、普通がいかに有難いかって実感します」


 彼女がそっと膝の上に置いたバイオリンケースに触れながら、少し伏し目がちに口を開く。

「私はずっと夢ばかり見てて、『家族を安心させられなくてごめん』って気持ちがあるんです。向こうで音楽を頑張るって決めたはいいものの、コンクールに落ちて、このまま続けるかどうかもわからなくなって。だから、実家に帰ると色々言われるんじゃないかってビクビクしてたんですけど……。どうやら帰るどころか、こんなところで足止めです」

「まあ、こうして足止め食らってる間に、逆に自分の気持ちを整理できるかもしれない。さっきの演奏だって、すごく心に響きましたよ。やっぱり好きだから弾いてるんじゃないんですか?」

「……そうかもしれませんね。音楽、好きだから。だから挫折しても、やめると決めきれない。でも家族に頼ってばかりは申し訳なくて」


 言いながら、彼女はバイオリンケースの端を握りしめる。その仕草はか細いけれど、その中に意思の強さが感じられた。俺は思わず、「きっと大丈夫」と、根拠のない言葉を口走っていた。


「すみません、なんかおっさんくさい慰めで……」

「ふふ、いいんですよ。ありがとうございます。ちょっとだけ、気が軽くなりました」


 彼女の白い息が、ロビーの冷たい空気に吸い込まれていく。もう夜中の2時近い。仮眠を取らないと明日がつらい。俺は楓香に、もし眠れるならベンチに横になるか、少し歩いてみるか提案した。すると彼女は、「じゃあロビーの端にあるイスを並べて横になりましょうか。独りでいるよりは心強いです」と少し遠慮がちに言う。


 そんな他愛ない会話をしながら、俺たちは毛布を一枚ずつ確保した。隣の椅子と少し距離を空けて、視線を交わし合う。深夜のこうした間合いは気まずいような、くすぐったいような、不思議な感覚に包まれる。

「じゃあおやすみなさい。もし、寒くて眠れなかったら起きておしゃべりしましょう」

「うん、ありがとう。おやすみなさい」


 ベンチに横になり、毛布をかぶる。意外なほど落ち着いてきたのは、バイオリンの音色の残響や、彼女という存在のおかげかもしれない。普段なら絶対しない状況に、初対面の女性と一夜を空港で過ごすなどというイレギュラーは、どう考えても奇妙なはずなのに、今は変に安心している自分がいる。


 まどろみの中で、遠くの方から除雪車の音がかすかに聞こえる。あるいは清掃員が掃除機をかけているのかもしれない。クリスマスイブの夜にこんな体験をするなんて、記憶に残ることだけは間違いない。


 ――数時間後。うっすらと意識が戻ると、微かな弦楽器の調べが耳に飛び込んできた。ハッとして起き上がると、今度はクリスマスソングではなく、小さなクラシックの練習曲らしきフレーズが繰り返されている。ロビーの隅で背筋を伸ばしてバイオリンを構える彼女の姿があった。時刻は朝の5時過ぎだろうか。空はなお真っ暗だが、ターミナルの中には夜明け前のわずかな気配が漂い始めている。


「おはようございます。起こしちゃいました?」

 演奏を止めて振り返った楓香の声が響く。寝起きの頭がまだぼんやりしていたが、俺は大きく伸びをしながらベンチから立ち上がった。

「いえいえ、こちらこそスーツのまま寝るなんて初めてでした。……寒くなかったですか?」

「少し寒かったですけど、まあ大丈夫。たまにはこんなのも悪くないかも。だって、寝る前にあんなにボロボロだった気分が今はなんだかすっきりしてるから」


 彼女は肩を回し、弓を持ち替えながら言う。顔に疲れは残っているものの、目には少し力が戻っているように見えた。

「外、どうなってます?」

 俺がガラス越しに視線を送ると、雪はまだ降り続けているが、昨夜の吹雪と比べるとかなり勢いが弱まっている。除雪作業が進めば、午前中には公共交通機関も動き出すかもしれない。

「どうやら、今日は少しだけ希望がありそうですね」

「……ええ、帰れるかもしれません」


 帰れる――それは本来喜ばしいことだが、なぜか少しだけ寂しさを感じる自分がいた。昨夜まではあれほど「何がなんでも帰りたい」と思っていたのに、この奇妙な空港での逗留がどこか温かい記憶になりつつあるからだろうか。


 そこへ、場内アナウンスが微かに流れ始めた。「除雪作業のため、飛行機の運航に遅れが出る可能性があります。詳細は担当スタッフまで……」。この声で少し現実に引き戻される。慌ただしい朝がもうすぐやってくる合図だ。


「もし、今日中に帰れるなら、バスか電車を乗り継いで帰ることになるかな。あ、ところで荷物は大丈夫なんですか?」

「まだ連絡がないんですけど……とりあえず問い合わせしてみます。もう待ちくたびれちゃった」

 楓香は小さくため息をつき、スマホを取り出す。バッテリーを気にしてか、通信は最小限にしていたらしい。


 待っている間、ロビーのほうに昨夜はいなかった乗客らしき人々の姿がちらほらと見え始めた。死んだように眠っていた売店も、そろそろスタッフが出勤してくるだろう。丸一晩、貸し切り状態だったあのロビーも、再び人の波が戻ってくるのだ。


 ほんの数分後、彼女がバイオリンケースを抱えたまま戻ってくる。その表情は……半分安堵で、半分はやはり問題が解決しきっていない雰囲気。

「荷物は一日遅れで、自宅に直接送ってもらうことになりました。ちょっと服とか心配だけど、とりあえず帰れるだけよかったかな」

「そっか。それじゃあ、今日帰れますね」

「はい。なんだか、ほっとしたような、落ち込むような……。瀬川さんはどうします?」

「俺は……朝のうちに動けば、まあ、夕方までには家に着けると思います」


 そこまで言って、ふと口をつぐむ。俺も彼女もここで別れるのだろう。でも、心のどこかでこの夜の出来事を忘れたくないとも思っていた。彼女がコンクールに出て、悔しい思いをして、でもバイオリンを諦めきれないことや、音楽に向き合う姿勢。そういったものが俺の胸を打ったし、自分自身の「家庭と仕事の板挟み」みたいな状況を、少し俯瞰して見られるようになった気がする。


「ねえ、もしよかったら、連絡先とか……。交換しませんか?」

 意を決して口にしてみた。俺は家族を持つ身だ。だけど、なんというかそれ以前に、彼女の音楽を応援したいという気持ちと、純粋に人間としてまた話がしたいという思いが混ざり合っている。

 すると、彼女はすぐにうなずいた。

「……うん。私も、もう一度ちゃんと弾けるようになったら、今度は聴きに来てほしいから」


 その言葉を聞いて、俺はスマホを差し出す。彼女はメールアドレスを入力し、「こちらから改めてメッセージ送りますね」と微笑む。それだけで、この不思議な夜が「ただの悪夢」ではなく「大切な転機」だったように感じるから不思議だ。


 場内アナウンスが再び入り、出発ロビーの案内表示も少しずつ電光掲示板に更新が入り始める。大雪の影響で混乱は続いているが、数時間後には便が動き出す可能性があるという。周囲の人たちも、その知らせを聞いて少し安堵の空気に包まれた。


「そうだ、最後にもうひと曲、聴かせてもらっていいですか?」

 帰り際、俺は唐突にそう切り出した。楓香は目を丸くする。

「え? こんな朝早く、騒音にならないかな……?」

「大丈夫ですよ。今なら、まだ人もそんなに多くないし。警備員さんも多分気にしない。むしろ、朝のラウンジに音楽が流れたら素敵かなって」


 彼女はしばし考えたが、すぐにバイオリンケースを再び開けた。周囲にいた数名の旅行客が、何事かとちらっとこちらを見やる。しかし楓香は気にせず、弓を構える。そして、先ほどの「きよしこの夜」よりももう少し活気のあるクリスマス曲――「ジングルベル」を軽くアレンジしたバージョンを弾きはじめる。


 さっきまで暗く閉ざされていたターミナルに、明るいメロディが広がる。その音に反応した子供連れの家族が、遠巻きに拍手してくれている。「わー、バイオリンだ!」と小さな子が嬉しそうな顔をしているのが見えた。昨夜の静かな演奏とは違い、朝日に向けて勢いよく飛び立つような軽快なリズムに、俺自身も思わず胸が躍る。


 曲が終わると、周囲から小さな拍手がわき起こった。驚いた表情を浮かべていた清掃員のおばちゃんまで、「素敵ねぇ」などと言ってくれる。まさか深夜の空港で会った得体の知れない二人組が、朝になってクリスマスの演奏会を始めるなんて、誰も想像しなかっただろう。

 実際、誰よりも驚いているのは俺かもしれない。だが胸の中には確かな満足感が広がっていた。昨日の夜、雪でがんじがらめになった不安と苛立ちが、少しだけきれいに溶けていくようだ。


 最後に彼女がペコリと頭を下げる。拍手をしている人々の中には、「雪が止まってよかったね」「これぞホワイトクリスマスだ」という声も混じっている。俺はそんな光景を眺めながら、まるで映画のワンシーンを見ているようだと感じていた。


 やがて彼女はバイオリンをしまい、もう一度俺と目を合わせる。

「ありがとね、聴いてくれて。それと、スナック菓子も」

「こっちこそ、素敵な演奏ありがとう。……じゃあ、またいつか連絡します」

「待ってます。絶対、また弾くから」


 そう言い残して、彼女は到着ロビーのカウンターへ向かっていく。俺も自分の便の手続きをするために、チェックインカウンターの方へ進む。別れ際、ちらりと振り返ると、彼女もこちらを見ていた。少しぎこちない笑顔だけれど、目が合うとすぐに背を向けて歩き出す。


 厚い雪が静かに空港を覆う朝。昨夜までの孤独感が嘘のように、ロビーは人であふれ、いつもの空港らしいざわめきが戻りはじめていた。だが、俺たちが過ごしたあの静寂の夜は、たしかに存在したのだ。あまりに奇妙で、しかしどこか心が温まる夜だった。


 いつかまた、あのバイオリンの音色を聴くことがあるだろうか。それは彼女が夢をあきらめずに弾き続けた先に待っている、次のステージかもしれない。思えば、この深夜のターミナルでの一夜は、彼女にとっても、そして俺にとっても、「普通の日常」の大切さを思い知るための小さな奇跡だったように思う。


 俺はフライトの案内を待つ間、ふとバッグの中を探り、昨夜の自販機で買ったホットコーヒーの空き缶を見つけた。手の平で転がしながら、もう一度だけあのバイオリンの響きを思い出す。雪降る夜、弦がつむいだ旋律。その余韻はきっと、俺たちの知らない場所でもまだ響き続けているだろう。


 こうして俺は、少し遅れてやってきたホワイトクリスマスの奇跡を胸に抱きながら、新しい朝を迎える。

 目の前にはざわつく空港、外には一面の銀世界。まもなく除雪が終われば、俺も彼女もそれぞれの行き先へと旅立つことになる。

 けれど、この雪が包む深夜のターミナルで始まったささやかな絆は、きっとこれからも残り続けるはずだ――。


 朝の光が少しだけ射し込んできたガラス越しに見える景色は、どこか優しく輝いていた。やがて点灯したばかりの案内板に、小さく「Delayed(遅延)」と表示された俺の便が、少しずつ出発準備に向けて動き出す。

 誰もいなくなったあのベンチを振り返れば、薄い毛布と消えかけたツリーの電飾が、昨夜の出来事をかすかに証明している。雪が降り止まない限り、今日のクリスマスはまだ続いているのだと、俺は心のどこかで信じたい気持ちに駆られた。


 ――まばらだった人々の足音が徐々に混み合い、空港にふたたび日常が戻りつつある。けれど俺たちが共有したあの特別な時間は、たとえ雪に閉ざされようとも、確かな温かさを持って心に残り続けるだろう。

 そんな思いを胸に、俺は静かに搭乗ゲートへと向かった。


(了)

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