Ⅲ.サンタの本番
日記を出してもらった。といっても、ベッドサイドのキャビネットにしまわれていたのだけど。
帽子かけにあったガウンを羽織って、ダイニングに行ってみる。居間からキッチンまでひと続きで、寝室から見えない窓のそばにカウチと、大きな柱時計があった。
文字盤がいくつもある振り子の時計だ。一秒ごとに細い針の動く一番大きな文字盤の中で、別の太くて短い針と長い針がそれぞれ11と5を指している。西暦を指していそうな文字盤がどれか探そうとしたけれど、すぐにやめて青い布のかかるカウチに座った。
とても厚いけれど、手のひらに乗るような小さな手帳だ。反り返って、紙はガサガサになっている。閉じ紐付きかと思ったら、紐をほどいた途端にページがバラバラになりかけた。枕やシーツ、ガウンやスリップなんかもおろしたてみたいだったのに、つまりこの日記にだけ、どうやら魔法というものがかかっていないらしい。
今にも崩れそうなページはめくるのもひと苦労で、インクもずいぶん薄れていた。それでも、一番新しい殴り書きみたいな文字だけはくっきりと読めた。
『ことしもダメだった』
「……ダメ?」
「出られないからね」
答えが降ってくる。
顔をあげかけて、青白い光の粉がはらはらと降ってくるのにも気づく。猫背気味で日記を覗きこんでいた私のすぐ頭上で、緑の服を着た妖精がまたなにかをさげていた。
「はい、眼鏡」
差し出される。丸い透明なレンズ。ふちが金色。ぽかんとして、しばらく眺めてしまう。
「それも、私の?」
「じゃないの? 見えるならいいけど」
「見える、けど……」
いらないと言ったような気がするのに、なんとなく受け取ってしまう。念のためかけてみたが、視界は代わり映えがしない。あるいは魔法の眼鏡なら、かけた人に必ず合うのかもしれない。要するにやっぱり必要なさそうだったけれど、なんとなく落ちつくのでまだ外さずにはおいた。
「それで、出られない、って……?」
「配達によ。例外は玄関先まで」
「え……」
耳を疑う、より先に、視界が揺れた気がした。
体の中身がどこかにすべり落ちる感覚。たぶん、カウチに座っていてよかったと思う。
ニッセが窓のほうを見たので、私も無意識にならう。居間は照明もつけてないのに文字が読めるくらいには明るい。外ではピンクと緑の光のカーテンが折り重なったまま揺れていて、太陽の向きがわからなかった。
「さっき言ったじゃない。たとえ話だと思った? そりも満足に飛べないって」
「うそ……」
「む」
聞き覚えはある、けれど、いっぺんにたくさんのことを聞きすぎていた。世界や自分の身に起きたことを受けとめるので精いっぱいで、サンタの仕事なんて他人事みたいだった。
「さっき、あーちは嘘つきじゃないって……」
「へ?」
手足が冷たくて、明るいのにかげりの濃い世界を見ているようだった。のに、不意にそんな気分よりも暗い声を聞いて我に返る。
顔をあげたとき、長くてもしゃもしゃとねじれた黒髪がぶらんと鼻先に降りてきた。ニッセが逆さに浮いたまま器用に膝を抱えて、なにも聞きたくなさそうな顔で天井のすみを見つめていた。
「あ……あ、あぁっ!? そ、そういう意味で言ったんじゃなく、って……!」
くるり、とニッセは頭を上に戻して、フヨヨ、とカウチの背もたれにおしりから着地する。窓のほうを向いて顔を見せてくれないので、きっとまだ機嫌を損ねている。うかつだ。情けなくて肩を落としながら、今はよそう、それにそれどころではなかったはずだと思い直す。
「……いつから?」
「知らないわ。けど、」声色に棘があっても、彼女は答えてくれる。
「日記はその一冊じゃない。そして全部が、磁気嵐に閉じこめられたあとにつけ始めたものよ。ほとんどが読める状態じゃなかったけど、ページを数える限り、ざっと三百年分」
「さん、びゃくねん……」
サンタはクリスマスにしか目覚めないのだと思う。私はねぼすけらしいが、アドベントにまるごと起きていてもひと月足らず。三年日記でも十冊はいらない。
「一度も、越えられてないの?」
「そうね。だから人類最後の三百年は、サンタクロースなし。まぁ、人類ってかたまりで〝わるい子〟になったんだから、順当といえばそうだけど」
ニッセの冷たさよりも、思っていたことがはっきり言葉になって送り直されたことに体が固くなった。
最後の三百年……ひどい世界だったんじゃないかと思う。心細くて、子どもたちはこぞって欲しいものを願ったかもしれない。それを記された手紙を読みながら、サンタはなにもできずここに閉じこめられていた。そんなのって……。
「ほらね。やる気なくすでしょ、クリスマス?」
妖精は座ったまま、浅黒い頬を見せる。機嫌なんてもうとっくに直っていたのかもしれない。もうとっくに、何日も目覚めない私を見おろして、
サンタは来ない。どうせ、サンタクロースなんかいない。
ぽおん――……耳のうしろに聞いた気がする。
あの白紙の便せんは、ガウンのポケットの中にある。
「……そりは、あるんだよね?」
尋ねたいことが、口から自然に出てくる。ニッセが息を飲んだと見なくてもわかった。
「は? ちょっと、行く気?」
膝に置いていた日記を慎重にカウチの余りスペースへ移した。座面をはずませないように立ちあがってからようやく、振り返らずに頷く。
「やってみてもいいかなって……サンタクロース」
「なに? なに言ってるの? ちょ、ちょっと! 待ちなさいッ」
ひとまずまだ見ていないものを探そう。歩きだしかけたその鼻先に、光の粉を散らして黒い妖精が飛んでくる。
「話聞いてた!? 三百年、サンタクロースも冬の妖精たちもこれ幸いと遊んでたわけじゃないッ。それにまだ話しきれてないだけで、問題はほかにもあるしっ!」
「ほかの問題って?」
「!?」
知らないことは全部聞いておかないといけない。
諦めたクリスマスなんかきっと一度もないんだ。けれど、なにも覚えていない私の強みといえば、『ダメだった』と文字を残す苦しみも知らないことくらい。
ニッセはおびえるみたいにうろたえていて、でも、私から目をそらさなかった。やがては力なくうつむいたけれど、ぽつぽつと口をひらいてくれる。
「……わからないのよ、外がどうなってるのか、本当には。太陽の力が魔法にも影響を与えてる。この家の中はまだいいけど、遠くのことを知れるような魔法が全部使えない。手紙の魔法だけは、最も古いサンタの魔法のひとつだから、なんとか動いてるみたいだけど。そもそも、外の磁気嵐に〝さらに外〟があるかどうかさえ……」
「行ってみなくちゃわからない。ってことだね?」
ありがとう。
そう言いそえて、キッチンの前まで進む。窓の外に、今にも崖から転げ落ちそうになっている立派な納屋が見える。
「なんでよ……」うしろで声。「なんで、そんなにやる気なの……?」
振り返ると、浅黒い顔をくしゃくしゃにゆがめた妖精がいる。怒っているみたいなのに、黄色い瞳は心細げにふるえていた。お月様が池に落ちて、夜に置いていかれかけているようだと思った。
「だって、なんにも覚えてないんでしょ? 自分がサンタクロースかだって、あーちにそうだと言われただけじゃない!? 知らない家で、起き抜けに白紙の手紙とボロボロの手帳を見せられて、あの得体の知れないオーロラにどうして自分から飛びこもうなんてッ……」
「ニッセは嘘つきじゃないよ」
「そういう問題じゃッ――」
ニッセの目が見ひらかれる。私も自分がほほ笑んだことに、それを見て気がついた。
だって、おあいこだ。自分が嘘つきに見えることを彼女はすごく気にするくせに、嘘みたいなことを恐れず私に教えてくれているのだから。
「確かに、なんでだろ。さっきから悪い予感ばかり当たってるのに。私しかいないから、も、ちょっと変かな。でも――」ポケットの中、またも無意識につかんでいた、折りたたまれた便せんを取り出す。
「これを、捨てたくないとは、思うから」
「あ……」
か細い吐息をもらして、ニッセは呆然としたあと、とてもとても、悲しくてたまらないかのような顔をした。後悔の顔色だ。なにも教えないほうがよかった、なんて思っているのだろうか。日記を読んで知った怖ろしいことも、全部ひとりで抱え込んでいれば、と。
だったらきっと、私はあなたのために目を覚ましたんだ。
この便せんも、あなたから受け取ったものだね。
耳のうしろでまた、ぽおん、と鳴った気がした。
「イヴだけど、まだお昼なんでしょ? サンタの本番は夜。考える時間はまだ――」
ぽおんと、もう一度鳴った。
頭の中身が溶けて、不意に全身に巡りだすみたいだった。まばたきを何度もしたから、顔を背けたニッセがコマ撮りの映画みたいに見える。
サンタクロース。夜。太陽フレア。記憶。
「違う……今しかないんだ」
「え……?」
私の顔色が変わったことに、ニッセは気づいていなかったらしい。
手紙を手に持ったまま、ガウンから両袖をすぽっと抜いた。そちらは落ちるにまかせて、スリップの裾を思いきりめくりあげる。顔を通すとき眼鏡が引っかかったけど気にとめず一息に脱いだ。ショーツ一枚姿になったわたしを見てようやくニッセが悲鳴をあげる。
「ふヴぁぁあ!? ちょちょちょっと!? なに考えてるのッ!?」
「服! 服どこ!?」
「今脱いだじゃない!? せめて隠しなさいよ! えっち!」
「こっちじゃなくて! サンタクロースの服ッ!」
「はあっ?」
騒いでしまったけれど、こっちと示しついでに拾いあげた衣服で言われたとおり前を隠す。眼鏡は手に持つと落としそうだったのでいったんかけ直した。でも、出るときは外したい。
今しかない。急ごう。夜が本番の魔物は、昼間寝ている隙に倒すものだ。
クラウス・カプセル・シングアソング ヨドミバチ @Yodom_8
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