第一章 ~『大事な物を失う ★趙炎視点』~



~『趙炎ちょうえん視点』~


 時間が経つのは早く、雪華せっかと離縁してからすでに一ヶ月が経過していた。彼の生活は完全に崩壊しており、勤め先もなければ、住む家もない。卿士けいしと敵対するのを恐れ、友人たちも離れていった。


 それは美蘭びらんも同様だった。彼が破滅した瞬間、何の情も見せずにいなくなってしまったのだ。その冷たい態度が、彼の心に深い悲しみを残していた。


「あいつは俺を利用していただけだったんだな……」


 薄汚れた路上に座り込み、趙炎ちょうえんは乾いた唇を舐める。腹が空き、まともに食事をとれない生活が続いていた。


「もし雪華せっかへの愛を貫いていれば……」


 大きな屋敷に住み、雪華せっかに支えられながら領主としての役目に励んでいただろう。馬鹿な選択をした自分の愚かさに腹を立てながら、ぼんやりと空を見上げる。星一つない空と湿った空気は彼の未来を象徴しているかのようだった。


「俺に残されたのは慰謝料の借金だけだな……」


 金貨百枚という慰謝料を取り立てるために、李明りめいは金融屋を雇った。強面の取り立て人が趙炎ちょうえんを追い詰め、財産と呼べるものはすべて回収されてしまった。


 食べ物もろくに口にせず、激しい取り立てとストレスに耐え続けた趙炎ちょうえんの顔は、かつての整った容姿とは程遠いものになっている。頬は痩せこけ、目の周りには深いクマができていた。


「このまま俺は死ぬのか……」


 空腹で腹の虫が鳴る。目尻から涙を溢しながら、現状から抜け出したいと渇望する。


 そんな彼の前に、突然、一台の馬車が音もなく滑り込んできた。重厚な木製の車体は金色の飾りで縁取られ、その洗練された美しさは場違いなほどだった。車体を引っ張る馬たちは艶やかな毛並みで、上品にその場に佇んでいる。


 馬車の扉は御者によって、ゆっくりと開かれる。そこから現れたのは神秘的な雰囲気を纏う絶世の美女だった。漆黒の髪が風になびき、その光沢は月光を反射しているかのように輝いている。


「私は妲己だっき。あなたをスカウトしにきたの」

「お、俺を……」

「後宮で働くつもりはないかしら?」


 妲己だっきの瞳がまっすぐに趙炎ちょうえんを見つめる。彼は目を見開いたまま、その言葉を反芻する。


(俺をスカウト? なぜ?)


 心に疑問が渦巻いていくが、その心中を妲己だっきも見抜いていた。


「なぜあなたを誘うのかが不思議?」

「それはまぁ……」

「理由は言えないけど、あなただからこそ誘ったの」


 妲己だっきは含みを持たせて艶やかに微笑む。それは妲己だっき趙炎ちょうえんに対して特別な感情を抱いていると誤解させるような表情だった。


 自分もまだまだ捨てたものではないらしいと、自己肯定感を取り戻した趙炎ちょうえんの口元に自信が蘇える。


「その話、受けさせてもらう」

「話が早くて助かるわ。では、これに署名を」


 妲己だっきは優雅に契約書を差し出すと、趙炎ちょうえんはその内容を気にすることもなく、彼女を信じて素早く筆を走らせる。妲己だっきとの未来を思い描く彼の心の中は、不安よりも希望に満ち溢れていた。


「では、私の部下と一緒に後宮に向かって頂戴」

「あんたは?」

「私は別件があるから、後から追いかけるわ」


 そう伝えると、御者が馬車の扉を開ける。趙炎ちょうえんが乗り込み、扉が閉められると、妲己だっきは御者にこっちへ来るようにと伝える。


「どうかされましたか?」

「彼はこれから後宮で宦官として働くから。しっかり去勢してあげてね」


 妲己だっきの声には冷酷な響きが込められている。御者は趙炎ちょうえんを哀れみながらも、職務を全うするべく、淡々と頷いた。


 命令を受けた御者は馬車を走らせ、石畳を進んでいく。趙炎ちょうえんに待ち受ける結末を想像しながら、妲己だっきは微笑む。


「不貞で私の大切な人を傷つけたあなたには、相応しい罰になるでしょうね」


 妲己だっきの声には、冷たい怒りが滲んでいた。女好きである彼にとって、男性機能を失うことは何よりも効果的な罰になる。これからの人生はきっと辛いものになるだろう。


「さて、雪華せっかを傷つけたもう一人も片付けないと」


 妲己だっきにはまだやり残したことがあった。口元に妖艶な笑みを広げながら、暗い路地を進むのだった。



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