笄ーこうがいー

褥木 縁

簪ーかんざしー


 街の一角にある深い竹林の最奥にある小さい鳥居と黒い祠。

 

 入口こそ竹に覆われ判然としないが一歩踏み入れると竹灯籠ちくとうろうが両側に列をなして、最奥の祠へと続く道が現れる。踏み入れた一歩先は現し世ではなく、もはや隠り世かくりよではあるが。

 

 その高々とそびえる竹林が作り出す神域に、一人の人間がゆったりと左右に身体を揺らしながら祠に向かって足を進める。優しそうな皺を蓄えた白髪混じりの老婆が。

 用事は、要件は願い。そうただ一つだけの、それこそ唯一の願い。生まれ落ちて間もない孫の救命。そして延命。

 夜更けに生まれたその孫は、身体が思いのほか弱いらしく、夜が明け。そして日が昇り、午後に差し掛かろうとしている今只中ただなかにも生死を彷徨っているとの事情だ。

 

 焦りを含んだ冷や汗が、静かに頬を伝って顎の先からしたたり落ちる。久しぶりに訪れるこの道を、年を取ったからか、逸る気持ちからなのか、随分と長く歩いている気がするけれど一向に終わりが見えてこない。"此処まで長い道のりだったのか"と疑問は浮かべど、氏神を祀る此処ここ以外に頼れる他もない。

 

 数刻歩いたのち、足を止めたのは一本太くそびえる赤い竹の前。眼の前にあるものは老婆の腰ほどの高さしか無い小さい鳥居と黒い祠。風が老婆の皺を撫でる。

 祠の前で身を屈め、祈る姿は、今の若者よりも姿勢良く1つ1つの所作が様になっている。堂に入っている。

 

 二拝二拍手一拝。

 

 知っての通り。知られている通りの手順に沿って老婆は2回頭を下げ、右手を手前にずらし柏手を2回打つ。

 

 パチン・パチン。

 

 老婆の様子を伺うように周りを囲み、漂う風の中、打った細い畳音じょうおんが響く。その後もう一度ゆっくりと綺麗に頭を下げて小さい声で願いを述べる。

 

 「我らが血族を見てくださっておる氏の神、地を与えてくださった産土うぶすなの神である白き鼬鼠神いたちがみよ。どうか、私の孫の命をお救いくだされ。どうか…。どうか…。」

 

 その願いが届いたのか、老婆の眼の前で不思議な出来事が起こる。風が強くなったわけではない。揺れる竹や林が当たった訳では無い。にも関わらず、ひとりでに黒い祠の扉が勢いよく開かれた。その中に見えたのは1つの鼬鼠いたちのお面。


 全体が赤黒く染め上げられたお面には硬い毛を表すような荒々しい削り跡が夥しい数、細くこまかく彫られている。普通の鼬鼠とは思えない鋭い眼つきに空けられた目尻には金色でふちが取られている。それは、怒っているような、笑っているようなどちらとも取れる歪な表情を浮かべてはいたが、目の悪い老婆に見えるはずもなく驚く素振りを見せながらも近づき手を伸ばす。

 

「ありがたや…、ありがたや…。」

 

 そう繰り返し呟きながらその鼬鼠のお面を取り出し、大事そうに胸に抱えて振り返り帰路に着こうと背を向ける。老婆が振り返った拍子に後ろで結いめていたかんざしほどけて祠の前にポトリと落ち刺さる。まるで白樺しらかばから切り出して作られたようなその白く綺麗な簪は、地面から赤のみを吸い取るように刺さった先端から朱殷しゅあんに染まっていく。


 乾いた血のように…。


 

 落ちた簪に気づくこと無くお面を抱えて、来た道を戻っていく老婆。後ろ挿しうしろざしほどけた老婆の髪は鎖骨当たりまでの長さがあった。向かい風が老婆の頬を撫で、長い後ろ髪が浮き上がりふわりとなびく。





その姿は誰かが、否、何モノかが、後ろ髪を掴んで引き止めているように見えた…。




 

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