第33話 スーパースペシャルステージ② ――差し伸ばされた未来

 暗いスタジアムに耀々と照明が灯り、最終ステージを観戦する大勢のファンが息を飲む中、2台のGRヤリスラリー2が周回2周目へ入ろうとしていた。

 ルートが左右に分かれるスーパースペシャルステージでは、1周目と2周目とで走るコースが入れ替わる仕掛けがある。先ほどの1周目は、高校生ドライバー・高槻亜実(たかつき あみ)がタイトなS字を任される左レーンを走り、レジェンド・藤田拓郎(ふじた たくろう)が比較的緩めの右レーンを走行していた。だが2周目は逆になる。

 つまり、今度こそ亜実たちが“走りやすい”とされる右レーンへ入り、藤田がタイトな左レーンを走る――はずである。

 亜実はピットレーンやサービスパークの事前情報を思い出しながら、(ここで少しでもアドバンテージを作らないと、最終コーナーで確実に負ける)と心を決めていた。助手席の水瀬恵理香(みなせ えりか)がノートを握り直し、インカム越しに「チャンスはここよ。慎重になりすぎると差が縮まらない」と短く指示を送る。

 「うん、わたし、攻める……!」

 それがこのレースの終盤を決定づける大きな契機になるとも知らず、亜実はハンドルを握りしめてアクセルを踏み込んだ。


 スーパースペシャルステージならではの派手な照明が眩しく、路面はほぼドライ。時計の針は夜9時近くを指しているが、ここには昼間以上の熱気が満ちている。

 最初の分岐ポイントで、藤田がタイトレーンへ進むのを横目に見て、亜実は「よし、こっちは緩やかだ!」と声に出した。

 水瀬が「ここは右4、奥に左3マイナス。ブレーキポイントを合わせればいける」とコールし、亜実がそれに従う。

 コーナー自体が緩いぶん、速度を高く維持しやすい。もちろん危険は伴うが、1日目に何度もクラッシュ寸前まで追い込まれた恐怖に比べれば大したことはない。車体が足回りの微妙なブレを感じさせるが、いまの亜実は「もうクラッシュは繰り返さない」という強い信念で操作を安定させていた。


 視界の向こう、観客席が大きくうねるように広がっている。そのスタンドが一瞬だけ音を抑えたように感じた。次の瞬間――大歓声が渦を巻く。

 理由は簡単だ。亜実のヤリスが、わずかだが先に進んでいるように見えたからだ。

 「やった……今、藤田さんより先に行けてる?」

 亜実は思わず興奮気味にアクセルを踏み増す。水瀬が「まだ焦らないで。ここでの失速が一番ダメ!」と大声で制止するが、それでも亜実の目には前方が開けているように見え、チャンスをものにしようとする欲がこみ上げる。

 エンジン回転数が高まり、ターボが力強い音を奏でる。4輪が均等に路面を掴み、加速感が背中を押してくる。この一瞬は、まるで夢のような感覚だった。――レジェンドを上回る速度でコーナーを抜けているかもしれないのだ。


 一方、タイトなS字のほうへ進んだ藤田拓郎は、コクピットで冷静にステアリングをさばいていた。モンテカルロラリー優勝を果たし、国内外のダート・ターマックを経験してきた歴戦のドライバーにとって、こうしたテクニカル区間はむしろ得意分野だ。

 事実、S字の手前からスムーズに減速を合わせ、インからアウトへ流れるようにラインを取っていく。無駄な挙動が一切ないため、車体が安定している。

 ただし、右レーンに比べるとどうしてもブレーキ時間が長くなるし、コーナリングを多くこなさなければならない。直線での最高速は伸びにくいだろう。しかし藤田は「ラリーで勝つための走り」をよく知っていた。

 「ここで離されるわけにはいかない……やはり速いな、あの子」

 彼の言葉にコ・ドライバーも「区間タイムを稼げるポイントで稼ぎましょう。まだ勝負は先ですよ」と答える。

 S字脱出のタイミングは、確かに藤田が少し遅れているように思えるが、それは想定の範囲内。むしろ大きなミスなく抜けられたことこそが大事。次なる仕掛けで時間を巻き返す考えだ。


 コースは再度クロスする区間に入り、両レーンが視界の端で交差するように設計されている。観客も解説者も「高校生が先行してる!」「いや、藤田がまだ順位を維持してるか?」と大盛り上がり。

 実際、亜実のマシンが一瞬だけ前へ躍り出たように見える場面がある。スタンドに設置されたビジョンにも、そのシーンが映し出され、悲鳴に似た歓声が広がる。

 亜実はコーナーを抜けるたびにハンドルをこじ開けるようにし、限界を探りながらアクセルとブレーキを踏み替える。足回りの歪みをカバーしきれない瞬間もあるが、水瀬が的確に「修正!」と声をかけるため、大きな姿勢乱れには至らない。

 (すごい……わたし、ここまで攻められるんだ……!)

 亜実が鼻息を荒くしながら無我夢中で走る中、視界の隅にいる藤田の姿は、案外落ち着いて見える。不思議なほどの余裕感が漂うが、彼女は「勝てるなら勝ちたいんだ」と思い直し、加速を止めない。


 ここで、水瀬がわずかに声のトーンを変える。

 「亜実、行けると思ってるでしょ? でも、気をつけて。最終コーナーを迎える前に、足回りが悲鳴をあげるかもしれないわ」

 そう、2日間を戦い抜いたヤリスラリー2は、すでに十分な整備をしているとはいえ“満身創痍”の状態。高速域でのブレや連続コーナーでの歪みが、いつ破綻してもおかしくない。

 「うっ……わかった、でも、ここで引き下がったら勝てないよ!」

 亜実が叫ぶように返事をする。

 どちらにせよ、このスーパースペシャルステージは短距離勝負。あと1〜2分で決着がつく。もし車が壊れたら最悪だが、今は“賭け”に出るしかない。

 (藤田さんは、こういう勝負でこそ本気を出してくるタイプだろう。だったら……わたしも本気を出さなきゃ!)


 周回が後半に入り、コース上の分岐区間が残り少なくなってくる。2台は再び合流に向かうラインへ駆け上がり、最後のストレートに差し掛かる。

 今度は亜実のマシンがややリードを得た状態に見える。実際、スタンドのビジョンで確認すると「高校生が先だ!」と映っているほどだ。

 水瀬の声が興奮を帯びる。「そのまま行って! 最後のストレートに入った時点で前にいれば……」

 亜実はハンドルを握る手に汗をにじませながら、「了解……もう全部踏み切る!」と宣言する。しかし、またも足回りの揺れが大きくなり、彼女は思わずステアリングを切り過ぎる気味になる。

 ――大きなスライドにまでは至らないが、出口速度がほんのわずかに削られてしまう。

 「くっ……!」

 そのわずかな誤差が、レジェンド・藤田には十分な“仕掛けのきっかけ”になるのだった。


 藤田は、並走状態でホームストレートに入る直前、亜実の車体が軽く揺れた瞬間を見逃さなかった。

 自分のマシンは足回りもボディも万全。2日間ほぼノーミスで走ってきたこともあり、高速区間での安定性に余裕がある。ここで一気にアクセルを踏み込み、ラインを外にはずさないようにスムーズに旋回を完了。

 結果、コーナー出口の速度が亜実より数km/hだけ速い。だが、その数km/hがこの短距離決戦では大きな差を生む。

 スタンドの観客が目を見開く。「あれ? 藤田が追いついてきた!?」「やばい、並ぶ……!」

 亜実のインカムにも、「藤田がきてる!」という水瀬の焦り混じりの声が飛び込む。

 (嘘……なんでこんなに速いの? わたしも踏んでるのに……!)

 亜実が首を振る。修理してきたとはいえ、足回りが万全でない工業高校ラリー部のヤリスでは、藤田のマシンと同じトップスピードに長く留まるのは難しい。


 ついに、2台はほぼ並ぶ形でホームストレートへ戻ってきた。周回2周目の最終セクション、ゴールラインはもう目と鼻の先だ。

 亜実はギアを上げてアクセル全開。「いくよ……ここで譲りたくない!」と心中で渇望する。

 だが、藤田のヤリスがじりじりと前に出る気配がする。

 (勝ちたい、勝ちたいのに……!)

 エンジンの唸りと歓声が混ざり合い、自分の息づかいすら耳に届かない。身体が震えてしまいそうになるが、水瀬の「最後、最終コーナーで決まる!」という叫び声を頼りに集中を切らさないよう努める。


 ホームストレートが短く終わり、その先に最終コーナーが待ち構える。このコーナーを曲がりきって数十メートルでゴールラインだ。

 観客席が最高潮に盛り上がる瞬間でもある。解説も「どちらが先に最終コーナーへ飛び込むのか!?」と熱く叫んでいる。

 藤田は外側ラインをキープしながら、ブレーキを少しだけ遅らせ、タイトに侵入してスピードを殺さない作戦を取る。

 亜実はイン側。こちらもインベタで守りたいが、車体に揺れが発生しているため、ブレーキを遅らせると曲がりきれないリスクがある。

 水瀬が「ブレーキを少し早めに……出口重視!」と指示を飛ばす。

 亜実は(でもここで譲ったら絶対に抜けない!)という思いがよぎり、一瞬迷う。けれど、迷いは事故の元だ。迷うくらいなら安全策を取るしかない。

 結局、「わかった!」と応じ、若干早めのブレーキで安定性を優先した。確かにコーナリング自体はスムーズに入れるし、出口で踏み直すことができる。だが、そのわずかなロスが“藤田がタイトに攻める隙”を大きくするのも事実だった。


 亜実のマシンは最終コーナー進入時、少し速度を落としてからスッと安定した旋回に移行。出口に向けて加速する流れは理想的……のはず。

 しかし藤田は、ブレーキを遅らせてコーナーへ飛び込み、ギリギリの姿勢でインに向けて旋回。ライン取りを最小限にまとめるという高度なテクニックを披露する。

 コーナー中盤で2台の位置はほぼ横並び。だが、藤田の外側ラインが出口付近でスピードのロスを回避しており、ぐんと前へ出た形になる。

 「……ああっ!」

 亜実が絶望に近い叫び声をあげるのと同時に、水瀬は「しまった……やっぱりあの人、速すぎる……」と声を落とす。

 次の瞬間、藤田のヤリスが最終コーナーの出口で速度をほとんど落とさずに立ち上がり、ラスト数十メートルの短い直線へ飛び出す。亜実のマシンはそこから再加速しようにも、すでにコンマ数秒の差がついている。


 ゴールラインが近づく。スタンドの歓声は地響きのようになり、先にチェッカーを受けるのはどちらか、息を詰める瞬間が訪れる。

 結果、先にゴールしたのはレジェンド・藤田拓郎だった。

 亜実がラストで踏み直してみても、その差は埋まらない。わずかコンマ数秒のリードで、藤田がチェッカーを切る姿が実況カメラに映し出される。


「やられた……!!」

 亜実はハンドルを握りしめたまま、思わずヘルメットの奥で涙を浮かべそうになる。あれだけ攻めたのに、あれだけやれたと思ったのに、ほんの数瞬の差で勝利を逃してしまった。

 ゴールラインを越えて停止エリアへ入ると、水瀬が「惜しかった……ほんとに惜しかったわね」と悔しそうに言う。

 亜実はヘルメットを外さないまま、ハンドルに額を押し当てる。「あともうちょっとだったのに……。あの最終コーナー……攻められなかったんだよ、やっぱり怖かった……。悔しい……!」


 一方、観客席では「高校生ドライバー、惜しかった!」「でもすごい走りだ!」と口々に興奮の声が上がっている。SNSでも「あとほんのちょっとでレジェンドに勝てたのでは?」「マジで鳥肌ものの展開だった」とリアルタイムの映像や写真が拡散。

 オフィシャルアナウンスが入る。

 「ただいまのスーパースペシャルステージ、勝者は昨年の覇者・藤田拓郎選手! しかし、高槻亜実選手もコンマ数秒差で健闘、すばらしいバトルを見せてくれました!」

 スタジアムは大拍手だ。亜実の胸には悲しさと喜びが混ざった複雑な感情が渦巻いている。


 クールダウン後、まず先に降りてきたのは勝者・藤田拓郎。レーススーツのジッパーを少し下ろし、額の汗を拭いながら、彼は自分のメカニックと笑顔で言葉を交わす。

 続いて亜実たちの方からも水瀬が降り、「亜実、大丈夫?」と車外へ声をかける。 亜実はハンドルを外してようやくコクピットを抜け出し、地面に両足で立った瞬間、そのまま膝に手をついて息を吐き出す。

 すると、そこへ藤田が歩み寄ってくる。

 「いい走りだったよ。まさかあそこまでやってくるとは……最後、俺も本気で踏まなきゃならなかった」

 亜実はヘルメットを抱きしめたまま、苦笑いと悔し涙の混ざった顔で「でも……負けました。やっぱり藤田さんには及ばない……」と消え入りそうに答える。

 藤田はにっこり微笑み、「勝ち負けの世界だからな……けど、俺が思ってた以上に君は攻めてたよ。あと最終コーナー一つのブレーキングが違えば、負けてたかもしれない」と右手を差し出す。

 握手を交わしながら、亜実は「そんな、わたしにはまだまだ足りないものだらけです」と俯く。しかし藤田は「足りないから伸びしろがある。次はもっとすごい走りをしてみせてくれよ」と優しく声をかけた。


 やがて、工業高校ラリー部のメンバーや顧問の佐伯、そしてスポンサーの円城寺潤が、2人のもとへ駆け寄る。大拍手で「お疲れ!」と肩を叩き、「すげえよ、お前ら。本当にすげえレースだった!」と口々に称賛を送る部員もいる。

 円城寺は特に感慨深げな表情で、亜実の姿を見つめている。彼はかつてWRCを夢見て挫折した過去があり、“未来”という言葉を自分で口にすることに諦めを抱いていた。しかし今、この若きドライバーの奮闘を目の当たりにして、「自分が見たかった景色が、ここにあるんだ」としみじみ痛感しているのだ。

 (あの藤田さんに、あと一歩まで迫るなんて……まるで夢のようだ。きっと、こいつらなら俺が見たかった世界を超えてくれる。いつか、WRCの舞台で……)

 心の中で“未来”を確信しながら、円城寺は苦笑混じりに亜実の肩を叩いた。

 「泣くな、亜実。お前はもう、十分にやれることをやったんだ。藤田さんだって、本気でやってたろう? その相手にここまで……」

 亜実は目尻を拭いながら、「うん……そう、ですよね。でも、やっぱり勝ちたかった……」と唇を噛む。

 円城寺はうなずき、「そう思えるなら、次がある。あの人を本気で追い越そうと思えるなら、世界にだって行ける。俺が保証するよ」と言葉を送る。


 一方、勝者となった藤田拓郎は、さほど派手にアピールをするわけでもなく、静かにスタッフと談笑していた。メディアからも当然インタビューを求められるが、まずは「ちょっと待ってね」と落ち着いた笑みを浮かべる。

 その視線の先には、亜実たち工業高校ラリー部のメンバーが騒いでいる光景がある。若さに溢れ、やや素人臭いところもありながら、光るものを確かに感じさせる――そんなチームだ。

 (世界は広い。だけど、あの子らが来るなら面白いかもしれないな)

 藤田はそう胸中で呟く。日本人ドライバーとしてモンテカルロを勝ち取るまでの険しい道を思い返すと、どうしても若い才能が羨ましくなってしまう自分がいる。でも、同時に嬉しさもある。

 (いつか本当に俺を超える日が来るかもしれない。……それを見届けるのも悪くないな)


 オフィシャルから正式なタイムが発表され、藤田がコンマ数秒リードという結果が示される。スタジアムは「惜しい!」という嘆息や「すごいよ、あの高校生!」という称賛で盛り上がる。

 亜実と水瀬のペアは総合順位としては中上位でレースを終えることになるが、このスーパースペシャルステージでの激闘は、もはや順位以上の衝撃をファンに与えた。メディアも「若き才能」「あのレジェンドを追い詰めた高校生」といった見出しを用意し始める。

 ラリー部の面々は「よくやった」「まさかここまで接戦になるなんて……」と興奮を抑えきれないまま、亜実と水瀬を讃える。疲れがどっと押し寄せた亜実は、ヘルメットを抱きしめて苦笑いしながら「でも、勝てなかったんですよ……」とつぶやく。すると部長が「勝ち負けだけじゃねえよ。お前がどれだけ凄い走りをしたか、俺たちは全部見たんだ」と声を張る。亜実はそれを聞いてようやくうなずいた。


 表彰式へ続く待機時間、亜実は車両の脇で大きく息をつきながら、水瀬に言葉をかける。

 「水瀬さん、わたし……ほんとに最後のコーナーで怖くなっちゃって、ちょっと引いちゃった。あそこで踏めたら違ったかもって……」

 水瀬は苦笑しつつも、優しい目で亜実を見つめる。

 「事故を恐れるのは当然。それでも、あんなぎりぎりまで攻めたんだもの、十分よ。あの藤田拓郎を焦らせるなんて、そうそう出来ることじゃない」

 「でも……」

 亜実は目にうっすら涙を浮かべる。悔しさが混ざった透明な水滴が彼女の頬を滑る。

 水瀬はその肩に手を置き、静かな声でこう続けた。

 「大丈夫。あなたはもう世界に行ける。わたしが保証するわ。これだけ走れるんだもの、怖さを乗り越えて、次はもっと速くなるでしょ?」

 その言葉に、亜実は泣き笑いのまま何度も頷き、「うん、わたし、もっともっと速くなる!」と返事をした。


 インターバルのあいだに、藤田が再度亜実のもとへやってきて小さく笑う。

 「お疲れ。次に会う時は、もっと強くなってそうだな。俺も負けないつもりだけど、負けるかもしれないって思わせるのは久しぶりだよ」

 亜実はまだ涙の跡が残る目で「ありがとうございます……いつか、本当に勝ってみせます」と言葉を詰まらせながら伝える。

 藤田は「楽しみにしてる」とだけ言い残し、軽く手を挙げて背を向けた。その背中には、過去に世界を知った者の誇りと、未来への期待が宿っているように見える。


 観戦エリアの奥で、円城寺がそんな光景を見ながら小さく息を吐く。

 (俺も、あの舞台を夢見ていたんだよな……WRC。あれは遠くて高い壁だったけど、こいつらなら超えられるかもしれない。いや、きっと超えてくれるだろう)

 そう思うと同時に、心の中でかつての苦い挫折がふわりと蘇る。しかし、今回はそれが痛みとしてではなく、温かい思い出に変わりつつあるのを感じる。

 (高槻亜実……そして水瀬恵理香。お前たちが持ってる輝きは本物だ。次の大会、それどころか世界に挑むなら、俺は全力でサポートするよ)

 円城寺はそう誓いながら、ふとスタンドの盛り上がる声に耳を傾ける。亜実と藤田の一戦を目にした観客やメディアは、皆「あの高校生ドライバーはすごい」と口を揃えているのだ。スポンサーやチーム関係者も、興味津々に亜実たちへアクセスしてくるだろう。

 (始まったばかりだ。だが、きっとこの子たちのラリーは、ここからだ)


 ステージ上で行われるセレモニーには、スーパースペシャルで際立った走りを見せたドライバーも呼ばれる。藤田はもちろん堂々とした表情で登壇し、マイクを向けられて「コンマ数秒差。ヒヤヒヤしたよ」と冗談交じりに語る。

 「でも、あれだけの勝負ができる若手が出てきたのは嬉しいね。これから日本ラリー界は面白くなるよ」

 そう言い切った藤田の眼差しは、明らかに亜実のほうを見ている。その視線を感じて、亜実は客席の裏手で身を縮めながらも、「いつか、本当に倒したい……」と口中で呟いた。


 そして表彰式が始まる。スーパースペシャル単体の勝者として藤田の名が呼ばれ、盛大な拍手が降り注ぐ。亜実の名は呼ばれない。だが、その存在感は既に観客の心を大きく揺さぶった。

 円城寺やラリー部員、顧問の佐伯らは「よかったよ」「最高だった」「惜しかったな」と口々に声を掛け、亜実はそれに力なく笑い返す。まだ心の奥底には悔しさが渦巻いているが、それ以上に“これから先の道のり”を強く意識する瞬間が増えていた。


 セレモニーがひと段落した後、亜実はサービスパークに一時的に戻り、車両を格納する作業を手伝う。水瀬や部員が泥や砂を落とす中、彼女はヘルメットを両手で包み込み、「負けたままでいいわけないよね……」とつぶやく。

 水瀬は笑って「そりゃそうでしょ」と答える。

 「次がある。あなたなら、もっと速くなれる。そして、わたしもまだ成長できるはず」

 「だよね……。わたし、あの最終コーナーで躊躇したのを一生後悔するかも。でも、その分、もっと上達したいって思えるし……。あの藤田さんを超えて、いつか世界に行くんだって」

 心に湧き上がる熱量を隠しきれず、亜実の声は少し震えている。水瀬もそれを感じて「大丈夫、あなたは強い子だもん」と微笑む。


 深夜に近い時刻。イベントが終わり、観客も帰路につきはじめたスタジアム外周。円城寺は偶然にも藤田と鉢合わせた。

 「藤田さん、やっぱりすごい走りでした。あんなスーパースペシャル、想像以上の盛り上がりでしたよ」

 円城寺が素直な賛辞を送ると、藤田は「こっちも本気になるしかなかったよ。まさかあの子がここまでやるとはね」と笑みを返す。

 「いつか、本当にあの子たちがあなたを超える日が来るかもしれません」

 円城寺が冗談まじりに言うと、藤田は少し首を振り、「かも、じゃない。来るよ。あいつらならできる」と断言。

 そして小さく息をついて、「楽しみだね。日本人で世界へ行く若手がもっと増えれば、俺が見たかった景色が、あいつらには見られるかもしれない」と遠くを見つめる。

 その言葉を聞いた円城寺は深くうなずき、「そうなればいいな……いえ、そうなると思います」と噛みしめるように答えた。自分自身が辿り着かなかった舞台、その夢の続きは、どうやらこの若者たちが背負っていってくれるらしい。


 愛知工業高校ラリー部のテントには、長かったラリーが終わりを告げる安堵感が漂っている。足回りのチェックをし、余分な荷物を片づけながら、部員たちが互いをねぎらう。亜実と水瀬もヘルメットやスーツを脱ぎ、簡単なストレッチをしながら疲労をほぐす。

 部長が「それにしても、惜しかったなあ。でも、あの藤田さんが焦るなんてすげえよ」と感心しきり。亜実は苦笑まじりに「焦ったかわからないけど、ほんとに後一歩だった……」と唇を噛む。

 顧問の佐伯も「お前ら、ここまでよく走りきった。正直、1日目にクラッシュしたときは、もうダメかと思ったぞ」と大きく笑う。

 まるで大きな試験を終えたあとのような雰囲気がそこにはあった。けれど、亜実の瞳はすでに次のステージを見据えている。今日の敗北が燃料になって、さらに大きなエネルギーを生み出すことは、誰の目にも明らかだ。


 深夜のスタジアム駐車場。チームのトランスポーターと並び、片づけを終えた円城寺が一息ついて、夜空を見上げる。星は薄雲に隠れてあまり見えないが、遠くに微かに街の灯りが反射している。

 そこへ亜実が近づいてきた。

 「円城寺さん、今回本当にありがとうございました。新しいパーツとか車両の修理費とか、全部助けてもらってばかりで……」

 円城寺は笑って首を振る。

 「いいんだ。もともと俺がラリーを諦めきれずにいたんだから。お前らが走ってくれるなら、こんなに嬉しいことはない。結果だって、ここまでやってくれたら十分だよ」

 「ううん、まだまだです。わたし、今の結果には満足できない。絶対にもっと走れるはずだし、藤田さんにも……勝ちたいから」

 亜実は拳を握り込んで、言葉に力を込める。その瞳は燃えるような赤を宿していて、やや疲労で血走っているようにも見えるが、それ以上に意志の強さが際立つ。

 円城寺は少し微笑し、「そうか。じゃあ俺も手伝うよ。次はもっといいコンディションで、もっとデカいステージに出てみるか?」と持ちかける。

 「え……いいんですか?」

 「お前がやる気なら、いくらでも。俺がWRCで果たせなかった夢を、お前らなら超えてくれる気がしてるからな。勝手な押し付けかもしれないが……」

 亜実はかぶりを振り、「押し付けなんかじゃありません。……わたしも、世界を見てみたいって思いました。車が壊れるのも怖いけど、それ以上に、もっと速く走りたいんです!」と素直に語る。

 そう、ラリーとはいつも“速度”と“危険”と“技術”が表裏一体となった世界だ。でも、そのリスクを負ってでも前へ進みたいという欲が、亜実の胸には確かに芽生えていた。


 円城寺は夜空を見上げ、「よし……じゃあ決まりだな」とひときわ大きく息を吐く。そこには、自分が見られなかった風景を彼女が連れてきてくれるという確信にも似た期待があった。

 (あの藤田さんにここまで迫るなんて、誰が予想したろう。これからのラリー界は、この子が先頭に立つかもしれない)

 そう思うと、得体の知れぬ歓喜と熱が胸を満たす。若い力とともに、自分ももう一度夢を追いかけられるかもしれない――それが彼の心を染めているのだ。


 そして、亜実は少し照れながら円城寺と並んで駐車場の外灯に照らされ、「帰りましょうか。部員のみんなも疲れてるし、明日は片付けもあるし……」と言い出す。

 円城寺は「そうだな。まだまだ先は長いけど、まずは今日ぐっすり休んで、また明日から次のステップへ進もう」と応じる。

 「はい、今日はほんとにクタクタ……でも、わくわくして眠れないかも」

 亜実が笑い、2人は一緒に工業高校ラリー部のテントへ向かい始めた。遠くの方ではまだメカニックや部長が車両の片付けを続けている。水瀬は何やらノートをチェックしながら、「あの最終コーナーのライン、もうちょっとこうしたら……」と未来の研究をしているらしい。


 こうして長いラリーは幕を下ろした。

 スーパースペシャルステージを制したのはレジェンド・藤田拓郎。だが、その陰で輝いたのは、コンマ数秒差まで藤田を追い詰めた高校生ドライバーと天才コ・ドライバーのコンビだった。

 敗北という悔しい結果ではあったものの、亜実の胸には確かな自信と強烈な課題が同時に刻まれた。「もっと上手くなれる」「あの最終コーナー一つで勝負が分かれるなんて、奥が深い」と思いながら眠りにつくことだろう。

 そして、彼女を見守る円城寺や藤田の眼差しには、これから先のラリー界で大きく羽ばたく新人の姿がはっきりと映っていた。世界への道は遠いが、そこへ歩み出す一歩を示したのは紛れもなく、高槻亜実という17歳の少女ドライバーだった。

 “次”はもっと強く。

 亜実は今宵、その夢を見ながら眠るのだろう。足回りを軋ませながらも走り続けたヤリスラリー2と共に、再びステアリングを握る日を待ち望み、世界へ挑む覚悟をじわじわと育てている。

 終わりと始まりが重なる夜——ラリーのドラマは、次の朝日に向かって静かに息を潜め、しかし確かに育まれていた。


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