スパーク・ラリーガール!――女子高校生ラリーガールの挑戦

松本 響介

プロローグ 心奪われたWRCジャパン

 草木が生い茂る山間のダートロード。小石や泥を巻き上げながら、エンジンの轟音が近づいてくる。突如、視界の奥から姿を現したラリーカーが、信じられないほどのスピードでコーナーに飛び込み、サイドブレーキを駆使して華麗に横滑りする。泥や落ち葉をまき散らしながらも、わずかなスペースを縫って走り去っていく。


 ——その一瞬を目撃したとき、高槻亜実(たかつき あみ)は心臓がバクバクするのを感じた。まだ小学生の彼女にとって、こんなにも迫力のある“走る車”は生まれて初めてだった。


 「うわあ……な、なにこれ……」


 そこは愛知県のWRCジャパンステージの観戦エリア。亜実は父母と叔父に連れられて、たまたま会場の指定観覧場所に来ていた。両親は「せっかくだから一度くらい見てみてもいいか」と半ば渋々ついてきたようで、既にこの爆音と泥だらけの光景に眉をひそめている。


 「危険だな……こんな速さで走るなんて」と、父親が苦い顔で呟き、母親も「車がこんなに汚れた道を走るなんて……」と小さくため息をつく。

 一方、亜実の叔父はニコニコと楽しげで、ここが特等席だというようにラリーカーを目で追っている。彼は昔から車やバイクが好きで、今回のWRCジャパンを見るために家族を誘ったのだ。


 「亜実、びっくりしたか? これが世界ラリー選手権(WRC)ってやつさ。舗装路だけじゃなく、山道や砂利道、雪道なんかを走り、何日間もかけてステージを巡る競技なんだ」


 叔父が亜実の頭を軽く撫でながら続ける。「ラリーはね、ドライバーとコ・ドライバーが協力して進むんだ。ドライバーはハンドルを握って全力で攻める。コ・ドライバーは“ペースノート”っていうメモを頼りに、先のカーブや路面状況を読み上げる。この二人三脚で、見えない先のコースを走り抜けるんだよ」


 「へぇ……じゃあ、運転してるだけじゃなくて、隣の人も大事なんだね!」


 亜実は目を輝かせる。コーナーを大ドリフトで抜けるラリーカーたちが次々通過していくたび、胸が高鳴った。轟音とともに石や砂が跳ね、観客たちの歓声が一斉に湧き上がる。この空気の熱量は、いままでの日常では考えられないほど刺激的だ。


 「そうだね。コ・ドライバーがいないと、ドライバーはコースを把握できなくて、全力で攻められない。危険や飛び出しもあるし……ま、実際かなり危険なんだけど、世界でも一番過酷なモータースポーツとも言われるんだ。ロードレースのF1とはまた違う魅力さ」


 叔父が楽しそうに話している横で、亜実の父母は落ち着かない様子。父は「こんな荒れた道を走るなんて、無茶だよなあ」と呟き、母も「子どもに見せるものじゃなかったかも」と顔を歪める。しかし亜実本人は、そんな両親の声をほとんど耳に入れていない。彼女のすべての感覚は、目の前のラリーカーに釘付けだった。


 コーナーへ突入する瞬間のタイヤのスキール音、土ぼこりが空中に舞い上がる光景、混じり合うガソリンと泥の匂い……。その全てが、亜実の心を強烈に揺さぶる。

 ——子どもながら、直感するのだ。「私、こんな車で走りたい」と。


 別のラリーカーがカーブを曲がり切れず、一瞬バランスを崩すが、ドライバーが巧みに修正して立て直し、コースへ戻る。その光景に拍手と歓声が沸きあがる。事故には至らなかったが、それがリアルに“危険なスポーツ”であることを彼女に教えてもいた。


 (怖い……けど、カッコいい……どうしてこんなに心臓がドキドキするんだろう)

 亜実の胸には、初めて味わう“ときめき”と“未知の世界”への憧れが渦巻く。遠くではスタッフが合図を送り、新たなラリーカーが林道から飛び出してきた。巻き上がる砂とベタつく匂い、辺りに広がる熱気。

 そんな圧倒的な迫力を全身で受け止めるうちに、亜実は軽い息切れさえしてしまう。


 「やっぱり危ないわねえ……」

 母親の声が小さく漏れるが、亜実はその言葉に反発のような感情を抱く。危険だからこそ、こんなに魅力的なのではないか。普通の道路を走る車とはまるで次元が違う——心のどこかで、そう確信し始めていた。


 やがてステージ終了のアナウンスが流れ、観客が少しずつ散っていく。叔父は亜実の手を引き、「ほら、行くぞ。もう終わりだ」と笑う。父母が安堵した様子で「もう帰ろう」と促す。

 だが、亜実は最後まで目を離せない。車たちがサーッと消えていった砂塵の向こう、その先にまだ見ぬ世界がある気がする。“いつか、私もあの道を走りたい”——そんな大それた夢を、10歳にも満たない少女が抱いた瞬間だった。


 “危険だ……”と両親は口を揃えたけれど、彼女の心はその瞬間から離れられなくなっていた。泥と砂を蹴り飛ばしながら突き進むラリーカーのイメージは、これから先の未来に大きな影響を与えることになる。


 この体験こそが、後に彼女を“ラリーへ走らせる”原点となり、家族との衝突すら招くことになる。

 今はまだ両親も亜実自身も、その運命を知る由もなかった。


 ——こうして、小学生の高槻亜実は人生を変える衝撃を受け、危険と呼ばれるラリーの世界に惹かれていく。 それが彼女の物語の始まりだった。

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