第21話 巡る約束 水瀬の再度の決意

 空には淡い月が浮かび、街の夜を静かに照らしている。水瀬恵理香はベッドの上、部屋の灯りを消したまま、瞳を閉じていた。

 胸に突き刺さるのは、かつてのラリー事故の記憶。砂丘でジャンプに失敗し、最愛の恋人・黒川奏介を喪ったあの日から、彼女はコ・ドライバーとしての道を絶っていた。

 それでも――最近、彼女の心に変化が生じた。地元工業高校のラリー部に引き合わされ、高槻亜実という少女の強い意志に触れ、さらにセントラルテクニカ社長の願いを聞き入れる形で、“コ・ドライバーとして復帰してほしい”という声が高まっていた。

 いくら拒んでも、自分がかつて愛したラリーの熱が、少しずつ灯り始めている。まるで消えかかった焔が、新たな酸素を得て再び燃え出すように。

 そしてつい先日、彼女は「……わかった、やってみる」と言葉を発した。自分の心を確かめるために、再びラリーへ戻ると。

 だが、その決意をした今、彼女が思い浮かべるのは黒川の家族の顔。葬儀の後、まともに会っていない彼の両親がいる。ラリーを拒絶し、逃げ続けた自分を、どう思っているのか……。

 深い闇の中で、恵理香はそっと呟く。

「……挨拶に行こう。ちゃんと、私が戻ることを伝えなきゃ」

 それができなければ、本当の意味でスタートできない。そんな思いが、胸の奥で小さな火を灯していた。


 翌朝、カーテンを開けると春めいた柔らかい陽射しが部屋に差し込んだ。水瀬恵理香は目をこすりながら窓の外を見る。青空が広がり、清々しい朝だ。

 まるでこれからの道程を祝福しているかのような天気。寝起きのまどろみの中で、昨夜の決意が一気に鮮明になる。

 彼女は洗面所で顔を洗い、自分の姿を鏡に映す。髪は少し伸びて、前髪が目にかかる。ラリーから離れた後は、メカニック関係の仕事を辞めて一般事務をしていた。ゆえに服装は地味なままだが、これを機にまた動きやすい恰好へ変えていくのかもしれない。

 「さあ……決めたんだ。もう逃げられないよね」

 自分に言い聞かせる。黒川の両親に連絡を取る前に、まずは協力者であるセントラルテクニカの社長と話を詰めて、具体的な日程を決めよう。そう思いながらスマホを手に取る。


 一方、同じ朝、地元の教育長である円城寺潤も落ち着かない気持ちで目覚めていた。水瀬が「やってみる」と言ってくれたことで、亜実とのコンビがほぼ現実味を帯び始めたからだ。

 支援企業やラリー車の手配なども少しずつ動き出しているが、肝心の水瀬が本当に走る覚悟を固めたのか、まだ確信がない。

 スマホが振動する。見ると、セントラルテクニカの社長からメッセージだ。

「水瀬が正式に動くそうだ。今日、円城寺さんも来てもらえますか?」

 円城寺は思わず微笑む。やはり彼女は決断したようだ。後ろ向きだった人間をここまで動かすなんて、亜実の存在や社長の想いが大きかったのかもしれない。

 彼は急いで支度を整え、ラリー部へ顔を出した後、愛知セントラルテクニカ社長のオフィスへ向かう。部室で亜実に「水瀬さんがコ・ドライバーを正式に受けるって」という報告をすると、彼女は目を潤ませ「本当ですか!?」と喜ぶ。

 「ただし、正式というか……まだ条件付きらしいから、期待しすぎないでな。それでも、彼女が一歩踏み出してくれたことに変わりはない」

 亜実は深く頷き、拳を握りしめて「ありがとうございます……私、絶対に頑張ります」と気合を入れた。


 愛知セントラルテクニカ社長のオフィスで待っていると、水瀬と社長が連れ立ってやってくる。彼女は少し落ち着かない様子だが、どこか表情が柔らかい。

 「これで、私、コ・ドライバーとしてラリーに復帰……ということになりますね。まだ自信はありませんが……」と彼女はうつむく。

 社長が「まずは小さなローカル戦から始めてみよう。亜実ちゃんとコンビを組んで練習だ。資金や車両については円城寺さんも含め、こちらがバックアップする」と笑顔を見せる。

 円城寺は安堵しながらも、一つ気になる質問を投げかける。「水瀬さんは、乗るたびに……黒川さんのことを思い出してしまうんじゃないですか?」

 すると水瀬は苦い笑みを浮かべ、「もちろん、思い出さないわけがないです。だけど、いつまでも逃げ続けても、あの人は戻ってこない。だとしたら……私が走る意味は、あるのかもしれない」と言う。

 その言葉には、決意と悲しみが混ざり合っていた。まるで自分を奮い立たせるために声に出しているような響き。


 こうして、コ・ドライバー復帰を表明した水瀬は、やはり黒川の両親に報告したいと思うようになる。「もう何年も会っていないから、今さら顔を出しても構わないだろうか……」と不安を吐露するが、社長は力強く頷いた。

 「必ず喜んでくれるさ。黒川が愛したラリーを、君が再び走ると聞けば。あの二人は、ずっと君を責めたりしなかったんだから」

 円城寺も「自分も同行しましょうか?」と提案するが、水瀬は首を振った。「いえ、一人で行ってきます。私の問題なので……ただ、場所が少し遠いんです。黒川の両親は今、山のほうへ引っ越して住んでるんですよ。車で数時間かかります」

 「なら、せめて車は手配しますよ。大丈夫?」

 水瀬は少し迷ったが、社長が自分の会社の車を使っていいと言ってくれたので、その日は社長の運転で行くことに落ち着いた。


 翌朝、水瀬と社長はアルファードで出発する。空は晴れやかで、初夏の日差しが車内を温める。道中、社長が水瀬にいろいろ話しかけるが、彼女の返事は簡素で、ときに黙り込む。

 途中、サービスエリアのようなカフェに立ち寄り、少し休憩を取ることに。水瀬はコーヒーをすすりながら、心ここにあらずの様子。

 社長がそっと問いかける。「不安か?」

 水瀬は苦笑。「はい……正直、何て言えばいいのか。黒川の両親に。私がラリーに戻るなんて言ったら、あの人たち、どう思うでしょう……やっと落ち着いたと思ってたのに、また無茶をするのかと呆れられるかも」

 社長は首を振る。「そんな心配はないと思うけどな。俺もあの二人を知ってるけど、奏介の夢を否定したりしない人たちだよ。むしろ、ずっと気にかけていたはずさ——恵理香がどうしているかって」

 水瀬は視線を落とす。胸が痛むが、その痛みこそが再起に不可欠な試練だとわかっている。重い荷物を背負って、再び前へ進むためには、この訪問が避けて通れないのだ。


 山道を抜け、小さな町を過ぎると、川沿いに家々が点在するエリアに差しかかる。社長が「あそこだ」と指を指す先に、昔ながらの日本家屋が建っている。外観は落ち着いた木造で、庭に赤い椿の花が咲いていた。

 車を停めて門をくぐると、戸口が開き、黒川の父親らしき男性が出てきた。少し腰が曲がり、髪が白くなっているが、かつて息子を送り出した時の面影が残る。彼女を見ると、目を丸くする。


 「……ああ、水瀬さん、久しぶりだね」

 そして、父親が家の中へ呼び入れると、奥から母親も現れる。皺の増えた手で水瀬の手を握り、「お久しぶりね、元気にしてた?」と穏やかに問う。その声には責めの色はない。むしろ温かい眼差しがある。

 水瀬は涙が込み上げそうになるのをこらえ、「長い間、お会いできずにすみませんでした……」と深々と頭を下げる。母親は首を振り、「いいのよ。あなたも苦しかったでしょう」と言う。


 居間に通され、お茶が出される。社長は昔からの付き合いらしく、軽い冗談を交わしながら当たり障りのない話をするが、水瀬は緊張して背筋が伸びたまま。

 しばらくして、母親が落ち着いた口調で切り出す。「今日は、何か大事な話があって来たんじゃないの? 恵理香ちゃん……」

 水瀬は姿勢を正し、手を膝に置いたまま意を決して言葉を紡ぐ。「……私、またラリーを走ることにしました。コ・ドライバーとして、高校生の女の子と組んで……。それを、お二人にお伝えしたかったんです」

 両親は互いに顔を見合わせ、目を潤ませているように見えた。そして、父親は深く頷き、「そうか……それは本当に、勇気のいる決断だっただろうね」と穏やかに微笑む。

 母親はハンカチで目頭を押さえながら、「私たち、ずっとあなたのことが気がかりだったの。あの事故の後、あなたがどんなに苦しんでいたか……私たちを責める必要はないのに、きっと自分を責め続けていたんじゃないかって思ってた。でもこうして、もう一度走ると決めてくれたんですね。本当に、ありがとう」と言葉を詰まらせる。


 両親の優しさに触れ、水瀬は心がほどけていく。事故後しばらくは、彼らと対面するのが怖くて避けていた。彼女自身が“黒川を死なせた”という罪悪感で苦しんでいたからだ。

 なのに彼らは、「恵理香ちゃんを責めたりなんて、一度も思ったことがない」「むしろ生き残ってくれて良かった」とずっと言い続けていた。

 「でも、私は怖くて……あの瞬間、もっと私が正確にコースを読んでいれば、砂丘を飛ばずに済んだのに、とか……」

 父親が首を振る。「それは“もしも”の話さ。ラリーは常に危険が伴うものだろう? 奏介も、それを覚悟で挑んでた。だからあなたを恨むなんてことは絶対にない。今、こうしてあなたがまた走ると聞いて、本当に嬉しいよ」

 母親も同意し、「奏介も天国で喜んでいると思うわ。あなたが前を向くことは、彼の夢を続けてくれるのと同じだから」と涙を拭う。


 やがて話が一段落し、穏やかな空気が流れる中、母親がある提案をする。「せっかく来てくれたなら、奏介のお墓にお参りしていって。あなたにも、ゆっくりお話ししてほしいわ」

 水瀬は一瞬ためらうが、そっと息を吐いて頷く。「……はい、行きたいです。ちゃんと報告したい。私がまたコ・ドライバーをやるって」

 両親は微笑み、「今から行きましょう。お墓は車で20分ほど先にある小さなお寺なの」と案内を始める。社長も同行すると言いかけるが、水瀬が「もしよければ、ご両親と私で行かせてください。二人きりの時間がほしい」と静かに頼む。

 社長は了解し、「じゃあ俺はここで待ってるよ」と笑顔で送り出す。円城寺は来ていないが、いずれにせよこれは水瀬が自分の足で踏み出すべき試練かもしれない。


 車に乗り込み、父親がハンドルを握り、母親が助手席。水瀬は後部座席に座っている。道中ほとんど会話はなく、ラジオもつけていない。外の景色が緑豊かな山並みになり、道は細く曲がりくねっていく。

 水瀬は窓を開けて、冷たい風を頬に感じる。無意識にあの日のダカールの砂風を思い出しそうになるが、頭を振って振り払う。ここは日本の山道だ。もうあの灼熱の砂漠とは違う。

 母親が振り返り、「寒くない?」と気遣ってくれる。水瀬は微笑んで「大丈夫です」と答える。胸の奥が妙に熱いから、これくらいの風がちょうどいい。


 車を降りると、小さな石段を登った先に古刹があり、その裏手に共同墓地が広がっていた。鳥のさえずりが聞こえ、風に竹林がざわめいている。

 母親が手に花束を抱え、父親は線香を用意する。水瀬はついていくうちに胸が早鐘を打ち、足が震えそうになった。ここで黒川の墓を前に、何を言えばいいのか……。

 やがて墓石の前に立つと、“黒川家”と刻まれた文字。その隣に細長い卒塔婆が立ち、彼の名前も書き添えられている。

 「奏介……恵理香ちゃんが来てくれたわよ」

 母親がそう語りかけ、花を供える。父親が線香を取り出し、火をつけて立てる。水瀬はぼんやりそれを眺め、息が止まるような感覚に囚われる。

 (ここに、黒川は眠っている。あの日の砂漠で命を落とした彼が、今は静かに土の中……)


 母親が水瀬に花を渡す。彼女は両手でそっと受け取り、墓石の手前に置く。ふわりと花の匂いが漂い、心がざわめく。

 父親は少し離れて見守っている。ここからは、水瀬が一人で向き合う時間だろう。彼女は墓石を前に膝を折り、静かに頭を下げる。

 「あの……奏介、私、水瀬恵理香です。久しぶりに来ました。ごめん、ずっと来られなくて」

 声が震える。まるでそこに彼がいるかのように、謝罪の言葉がこぼれる。砂漠で失った光景が一瞬フラッシュバックするが、ぐっと耐える。

 「あれから、ラリーをやめて、ずっと逃げてた。でも……またコ・ドライバーに戻ることにしたよ。今度は若い子と。あなたが夢見た世界とは違うかもしれない。でも、私、もう一度だけ走ってみようと思うんだ」


 自分でも驚くほど、言葉が自然に出てくる。涙がぽろりと頬を伝うが、それを拭わずに語り続ける。

 「あなたが背中を押してくれるなら、私、またラリーを信じられるかもしれない。サハラで終わった夢を、今度は別の形で続けてもいいよね……?」

 墓からの返事はない。だが、心の奥で黒川の声を感じるような気がする。「お前ならできるよ、恵理香……」そう優しく囁くような感覚が胸を満たす。

 母親が後ろでそっと目を潤ませている。父親も背筋を伸ばして俯く。水瀬は、最後に深く礼をし、「ありがとう、奏介……そしてごめんね」と静かに言葉を結ぶ。


 ひとしきり祈りを終えた後、父親が近づいて肩を優しく叩き、「よかった。君がまた走ると知ったら、あいつも喜ぶよ。きっと危険だと心配するかもしれないけど、ラリーを愛した彼なら、反対なんてしないはずだ」と微笑む。

 母親も花の香りを胸に吸い込み、「恵理香ちゃん、無理はしないでね。もし辛くなったら、いつでもここに戻ってきて。私たちはあなたを責めたりしない。むしろ応援するわ。だって、奏介が好きだったラリーを、あなたが繋いでくれるんだもの……」

 その温かい言葉に、水瀬の胸が熱くなる。自分がずっと恐れていたのは何だったのか。彼らは決して自分を責めることなく、ただ“生きていてくれてありがとう”と受け入れていたのだと改めて知る。


 墓参りを終え、家に戻ってしばし会話を楽しんだ後、時間も遅くなってきたので水瀬は辞去することに。両親は名残惜しそうだが「また必ず来てね」と握手をして見送る。

 車に乗り込む直前、母親が小さな紙袋を差し出す。「奏介が大事にしていた写真があるの。サハラの砂漠であなたが写ってるもの。持っていってほしい。あなたがコ・ドライバーを続けるなら、この写真がきっと支えになると思うから」

 水瀬は一瞬迷うが、「ありがとうございます」と深くお辞儀をして受け取る。その袋の中には、ラリーカーの隣で笑顔を見せる若き自分と黒川の姿が写った写真があった。まるで別世界の光景のようだ。

 車を発進させ、山道を下る。心は重かったはずなのに、不思議と軽やかな感触を覚える。過去に縛られるだけではなく、“次へ進んでいいんだ”という想いが、微かに胸を温めていた。


 後日、水瀬は愛知セントラルテクニカの社長と円城寺に報告する。「黒川のご両親にご挨拶してきました。…やっぱり私は、ラリーを捨てるべきじゃなかった。もう一度だけ挑戦しようと思います」

 円城寺は嬉しそうに微笑み、「そうですか。亜実も喜びますよ。これで本格的に、あなたが彼女のコ・ドライバーに……?」

 水瀬は頷き、「はい。ただ、まだ完全に怖さが消えたわけじゃありません。でも、彼の両親の言葉を思い出すたび、私がここで逃げるのは間違ってる気がするんです。私はまた走る義務がある。黒川の夢を無駄にしないためにも……」

 社長も感無量な面持ちで、「よかった……本当によかったよ。ギガツインで届かなかった夢、黒川と水瀬が目指した先を、今度は亜実と共に追えばいい。俺も全力でサポートする」と言う。


 かくして、水瀬恵理香はコ・ドライバー復帰を正式に受け入れ、亜実とのラリー準備が本格的にスタートすることになる。

 遠い砂漠で終わったはずの夢は、日本の地で若い才能と共に蘇ろうとしている。黒川の両親が口にした「ありがとう」という言葉が、彼女の胸に深く刻まれ、進む意志を力強く後押ししていた。

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