第20話 夢の砂漠の青空 サハラフロンティアラリーの追憶
黄色とも金色ともつかない、まぶしい太陽の光が、限りない砂の海を照らしている。サハラ砂漠の大地は果てしなく広がり、風が舞うたびに砂粒が光の粒子となって宙を泳ぐ。それは美しくもあり、同時に無情なほど過酷な世界。
その光景を、水瀬恵理香は今でも夢に見る。夢の中では、決まって青い空のもと、改造トラックのエンジン音が大地を揺らしていた。
——そして、隣には彼がいたはずだった。
いつしか、その夢は悪夢へ変わる。激しく吹きつける砂嵐。見えなくなる道。誤ったメモ。叫ぶ恋人。跳ね上がる車体。次の瞬間、悲鳴と共に視界が真っ白になる。
彼が息絶えていくあの瞬間が、まるで昨日のことのように鮮明に蘇るたび、水瀬は胸をえぐられるような痛みを感じるのだった。
水瀬恵理香が、人生で初めて「いすゞギガツイン」を目にしたのは、とある敷地だった。かつては土砂運搬で使われていた「いすゞギガ」というボロボロの大型ダンプトラックをタダで貰い、鉱山運搬用の私道向けハイパワーエンジンを2基搭載して、黒川奏介が無理やりレース用に改造しているところだったのだ。
「ここにハイチューンのV12ディーゼルターボエンジンを前後に積むんだって? 正気?」
思わず、見学に来ていた水瀬は絶句した。
「正気も何もさ、砂漠を走るなら大パワーが要るだろ? だったらV12を2機積んで、馬力を倍にすりゃいい!」
そう言ってはにかむ彼の表情は、少年が秘密基地を作るような無邪気な輝きに満ちていた。
——その少年のような男こそ、黒川奏介。水瀬の恋人であり、人生のパートナーになるはずだった人。ふたりは大学の自動車部で出会い、そこで意気投合し、やがて恋に落ちた。
ギガツインと呼ばれるこの車両は、いすゞギガをベースに巨大なラリートラックを作ろうという黒川の野心が形になったものだった。前と後ろにそれぞれ15リッターの700馬力のディーゼルターボのV12エンジンを搭載し、1000馬力を超える4WDトラックに仕立てるという、常識外れの改造。
最初にコンセプトを聞いたときは、誰もが眉をひそめ、「そんなのムチャに決まってる」と口にした。けれど黒川だけは本気だった。砂漠を走るなら何だってアリだろう、いつか世界のラリーレイドで総合優勝するんだ、と。
「奏介、あんたほんとバカだよ」
水瀬は笑いながらも、内心はその冒涜的とも言えるプロジェクトに惹かれ始めていた。自分も車好きで、ダートラやジムカーナ、果ては全日本ラリー選手権のコ・ドライバーも経験していた。けれどここまで“ぶっ飛んだ”計画は見たことがなかったのだ。
水瀬は幼少の頃から何かと“運転手”役を任されることが多かった。家族旅行では必ず車内で地図をチェックして案内し、お使いに行くときも周囲の地理を頭に叩き込むタイプ。地図好きでもあった。高校に入り、バイクや車に興味を抱き始めると、いつしか頭の中には“ラリー競技の道”がちらつき始めていた。
でも、ドライバーとして目指すには資金も環境も厳しい。ならばコ・ドライバーという形で何かできないか。そんな思いが彼女をモータースポーツの世界へ引き寄せていた。
大学に進学後、サークル活動でダートラやラリーに触れるとますます夢中になった。その流れの中で出会ったのが黒川奏介だった。彼はメカニックとしてもドライバーとしても優秀で、全日本ラリー選手権では飛び抜けた存在感を放っていた。
――そして何より、世界を目指すという大きな夢を持っていた。
「いつか砂漠を走ってみたいんだ。サハラとか、アフリカの大地とか、そういう場所で思い切りエンジンを吹かして駆け抜けるのが俺の夢でさ」
その瞳はまっすぐで、何の疑いもなく未来を見つめていた。
水瀬にとって、彼のそんな姿は眩しかった。彼女も心のどこかで「世界のラリーに関わってみたい」という憧れを抱いていたが、実現するなど思っていなかった。資金もコネもない学生にとって、それは到底手の届かない場所のはず。
だが黒川はやると言ったらやる。大学卒業後、地元の企業に勤めながらもレース活動の資金をかき集め、仲間を巻き込み、ついに巨大トラックの改造計画までスタートさせてしまったのだ。
水瀬がコ・ドライバーとして本格的に彼と組むことになったのは、そのギガツインが形になりはじめた頃だった。
「恵理香、もしよかったら……俺と一緒に“サハラフロンティアラリー”に出てみないか?」
彼女は思わず耳を疑った。聞いたこともない大会名。けれど話を聞けば、それは近年新たに設立された国際的なラリーレイド、通称「サハラフロ」というものだった。アフリカのサハラ砂漠を大きく縦断し、一部は岩場やオアシス地帯も駆け抜ける、過酷な長距離ラリーだという。
「いきなりそんな大きな大会に……しかもトラックで? FIA公認とかじゃないの?」
水瀬は半信半疑だった。
黒川いわく、FIA直下ではないが大規模なラリーレイドとして海外の注目を集めているイベントらしく、大手スポンサーが集まりはじめており、正式に参加すれば世界からも認知される可能性が高いとのこと。
「そりゃアフリカでやるラリーってダカールが有名だけどさ、サハラフロも新しい挑戦ってことで注目されてる。俺たちみたいなプライベーターにもワンチャンあるかもしれない」
黒川の顔は勝利を確信しているように明るかった。
水瀬は迷った。資金はどうする? 学校を卒業したばかりで安定した収入があるわけでもない。危険もある。だが黒川は必死に手を動かし、数社のスポンサーや個人出資者からの支援を取り付けてきた。
そして何より、彼女自身の心の中には“砂漠を走るラリー”への強い魅力が抑えきれずにあった。世界の大舞台ではないにせよ、アフリカの大地を巨大トラックで駆け抜けるなんて、普通の人生ではあり得ない経験だろう。
「……いいわ。私も一緒に行く」
そう告げたとき、黒川はとても嬉しそうに笑い、彼女をぎゅっと抱きしめた。
ラリー参戦を支援してくれた企業のひとつが「愛知セントラルテクニカ」という地方の自動車部品メーカーだった。社長が黒川の上司と知り合いで、面白いプロジェクトなら協賛してもいいという話になり、ギガツインの改造を手伝ってもらえることになった。
愛知セントラルテクニカと共同で改造されたV12ディーゼルターボエンジンを2基搭載したギガツイン。シャーシダイナモで馬力やトルクを測定しようとした所、当初の予想を超える1800馬力を超えた所でシャーシダイナモを破壊し、実測馬力やトルクは不明になるほど進化した。
外観もほぼ原形を留めていない。キャビンにはロールケージをめぐらせ、サスペンションは競技用に大幅強化。巨大なオフロードタイヤを履き、泥・砂・岩に耐えうる補強パーツがてんこ盛り。塗装はシックなガンメタリックを基調とし、スポンサーのロゴがゴテゴテ貼られていた。見た目だけでも異様な迫力がある。
黒川は「ギガツイン」のエンジンをかけ、試運転を行うたびに興奮を隠せなかった。
「これならどんな砂丘でもぶち破れる。絶対に負けないぞ」
水瀬はその鼻息の荒さに微笑しつつ、コ・ドライバーとしての準備を着々と進めた。ペースノートやGPS、各種マップの読み方、そしてラリーレイド特有のロードブックのチェック項目。それらを練習し、何度もシミュレーションした。
そして迎えたサハラフロンティアラリー当日。アフリカ北部の港町から砂漠の入り口へ移動し、大きなスタートゲートが設けられた。そこには世界各国から集まったバイク、4WD、バギー、そしてトラックが並んでいる。
背の低いバギーやSUVが多い中、ギガツインはひときわ高く、圧倒的に重量感がある。見る者は皆、「なんだあの怪物は?」と目を丸くしていた。
あちこちでフランス語や英語、スペイン語が飛び交う。大勢のスタッフやメディア、観光客が入り混じってカーニバルのような雰囲気さえ感じる。だが、一歩砂漠に入れば、そこは死と隣り合わせの戦場となるのだ。
水瀬は緊張していた。体が震えるような不安と同時に、胸の奥が熱くなる感覚も覚えている。これが、夢にまで見た砂漠ラリー。しかも恋人と一緒に巨大トラックで挑むのだ。
黒川はキャビンの中でエンジンの調子を確認しながら、「恵理香、準備はいいか?」と声をかける。
「うん……やるしかないでしょう」
彼女は答え、すでにヘルメットを被ってインカムの動作を確かめる。コ・ドライバーとして、ロードブックとGPSのチェックを念入りに行い、1日目のルートを頭に叩き込む。まだスタートだから落ち着いて進めばいい。大事なのは完走、と自分に言い聞かせる。
スタートフラッグが振られ、ギガツインは重厚なエンジン音をとどろかせながらアスファルトを後にする。最初のうちはまだ走りやすいダート路面が続き、周囲には街や村が点在していた。
が、次第に地平線が歪むほどの砂漠が始まる。キャンバーのついた砂丘、ゴツゴツした岩場、乾燥しきった川底。道なき道を、自分たちで導き出さなければならない。
「次、左。マーカーの岩からおよそ3km先で右に分岐……」
水瀬はロードブックを読み上げながら、GPSの表示も併せて確認する。サハラフロンティアラリーは、主催者が用意するロードブックを頼りに走るが、目印は必ずしも明確ではない。少しでもズレれば迷子になる危険がある。
ギガツインのキャビンは揺れる。衝撃が凄まじく、普通の車ならサスペンションが悲鳴を上げて即座に破損しそうな段差でも、この怪物トラックは踏破していく。
「ハハ、すげえだろ! 俺たちのトラックならどんな地形でも蹴散らして走れる!」
黒川が笑う。彼の背中からはアドレナリンの熱気が伝わってくるようだった。
最初の数日、チームは順調にステージをクリアしていった。多少のメカトラブルはあったものの、メカニックと協力して早め早めに対策を打ち、完走を重ねたことで総合順位は意外に悪くない。
ロードブックも概ね正確で、水瀬はコ・ドライバーとして危なげなくルートを示し続けていた。
「このまま行けば、トラック部門で上位を狙えるかも!」
チームスタッフがそうはしゃぐのを、二人は少し照れながら聞いていた。ただ、最終日付近まで何が起こるかわからない。それがラリーレイドという競技だ。
夜、宿舎代わりのテントで地図とロードブックを再確認しながら、水瀬はモヤモヤしていた。クロスカントリーラリーでは1日の走行距離が長く、主催側が間違えた情報を記載する可能性もあるという噂を耳にしたことがある。しかし、正式に運営されている大会なら、よほどのことがない限り大きなミスはないだろうと考えていた。
(でも、私たちのクラスは“無制限改造”的なカテゴリーだし……ドライバー同士でかなりのハイスピードバトルを仕掛けているのも事実。万一コースに想定外の障害があったらどうなる?)
あくる日以降も、黒川は加速を緩めず、時速200キロ以上で砂丘を越えることもしばしば。水瀬はロードブックに載る危険箇所を正確に読み上げようと必死だが、内容が曖昧な箇所もあり、そこは自分の勘で補うしかなかった。
(お願い、事故なんて起きないで……私はずっと彼をサポートしたいんだから……)
そんな祈りにも似た想いを抱えながら、ギガツインは走る。ライバルのトラックどころかワークスマシンを抜かすほどで、ワークスパジェロを追い抜く時に相手ドライバーがハンドルを殴りつけて悔しがっているのを見るほどだった。
ステージを無事終えて、順位も上位に食い込む頃、他チームのメカニックからこっそり「今回のロードブック、ミスが多い気がするんだ。注意したほうがいいよ」と耳打ちされた。そのメカニックは「例えば昨日のステージ、距離表示が数百メートル狂ってたとか、危険箇所マークが不足してたぞ。大きな問題にならなきゃいいが……」と首を振る。
水瀬は不安が増す。まさか大規模ミスなどあるはずないと思いたいが、クロスカントリーは巨大なコースを毎日進むので、主催者も全てを完璧にカバーできない面があるのかもしれない。
ラリー部で習った常識「ロードブックは絶対ではない。最終的にはドライバーの目とコ・ドライバーの観察が頼り」を思い出し、黒川に「慎重に走ろう」と提案するが、「俺たちが負けるわけないだろ? 砂丘で一歩遅れれば抜かせないんだ。攻め続けるしかない」と熱を帯びた眼差しで返される。
こうして、黒川の攻めは続く。水瀬は加速を抑えてと何度も警告するが、黒川はアドバイスを7割くらいしか聞かない。圧倒的なパワーで次々と上位に追いつき、アドレナリンにまみれながら突き進む姿は、頼もしくも危険だった。
迎えた運命のステージ7。朝から強い風が吹き荒れ、砂埃が空を覆う。“ギガツイン”は既に総合上位を走っていて、前方にはプロトタイプバギーが一台だけだ。黒川はそのマシンを抜きたいと燃えている。
「恵理香、次の区間はどうなってる?」
水瀬はロードブックをめくり、「直線が約2キロ続いたあと、左に大きくコースがカーブし、そこから砂丘がいくつか……」と記載を読み上げる。だが、書いてある砂丘の位置や大きさは曖昧だ。そして本来なら“この先に大きな砂丘はない”という記述まである。
「ふむ、じゃあ行けるな……あのプロトカーを抜いてやる」
黒川はアクセルを踏み込む。既に時速230キロを越える勢いで走っている。
水瀬が慌てて「危ないよ、視界が悪いんだから!」と叫ぶが、アクセルは止まらない。
「大丈夫、ロードブックにデカい砂丘の記載はないんだ。ここはチャンスだろ!」
そして——その先に待っていたのは、ロードブックには載っていない“巨大砂丘”だった。主催者側のチェックミスで本来のコースにはないはずの砂丘が、砂埃に霞む景色の中に突然現れる。
「え……? 嘘、こんなデカい砂丘、載ってない……」
水瀬が咄嗟に叫ぶが、時すでに遅い。砂埃が視界を奪い、プロトタイプカーを抜こうと横へ並びかけたギガツインは、速度をほぼ落とさぬまま時速230キロでその砂丘に突っ込む形となった。
黒川が急ブレーキとハンドル回避を試みるが、目の前はもう巨大な砂の壁。水瀬の脳裏が真っ白になる。「やめて……止まって……!」と叫ぶが、重い車体は勢いを殺せず……ジャンプした。
数秒の浮遊感。頭がクラクラして、砂の粒子が視界を埋め尽くす。ギガツインは空中でバランスを崩し、何回も前転をするように転倒を繰り返す。轟音と激震が二人の全身を叩き、意識が遠のきそうになる。
衝撃が何度も走る中、シートベルトに拘束されていた水瀬の身体はなんとか車内に留まる。
水瀬がどうにか意識を保ち、運転席を向くとそこは黒川の姿は無かった。黒川どころか運転席が丸ごと無くフロントガラスは粉々に砕け散っていた。
「黒川……!!! 黒川、どこ……!?!?!?」
シートベルトを外して脱出を試みた時には、あちらこちらに血と破壊された鉄のカケラが散乱していた。
砂が積もった車内を這い出し、外に降り立つと、もう水瀬の声は嗄れていた。周囲に救助隊や他チームが駆け寄り、誰かが「ドライバーが吹き飛ばされてる! あっちだ!」と叫ぶのが聞こえる。そこへ向かおうとするが、足がもつれて動かない。
黒川はシートごと80m先に投げ出され、頭部を強打して既に息絶えていた。 砂丘の裂け目に突き刺さるように倒れ、血の痕が惨い色を映し出している。水瀬は救護隊が制止するのも振り切り、必死で黒川の名を呼んで走り寄ったが……その体はもう冷たくなっていた。
「ああ……嫌だ……嘘でしょ……」
水瀬の言葉は砂漠の風にかき消される。震える手で彼の頬に触れるが、返事はない。周囲のスタッフが慌ただしくタンカを運び、私を引き離そうとする。「怪我人を救護するから下がって!」「もう……彼は……」という声。
荒れ狂う砂風の中で、彼女は黒川の冷たい頬に触れながら泣き続けた。やがて自分も意識を失いそうになり、血の味が口に広がる。
自分が必死にロードブックを読み間違えなければ……。あるいは、主催者がこんな不正確な情報を出さなければ……。思考が混乱し、責任がごちゃ混ぜになる。ただ、彼の命が失われたという事実だけが残り、彼女の心を締め上げた。
目を覚ましたのは病院のベッドだった。どうやって救助され、いつ運び込まれたのか、彼女にははっきりしない。目や頭に包帯が巻かれ、肋骨にヒビが入ったまま横になっている。
病室の白い天井を見つめていると、涙がこみ上げ、呼吸が苦しくなった。何度も自分に問いかける。どうして、あんな無謀なスピードを……どうしてコマの指示を信じたのか……止められなかったのか……。
主催者からは「深いお悔やみを申し上げる。コースにミスがあった可能性がある。詳細は調査中」と言われただけだ。詳細には触れない。
仲間たちが見舞いに来ても、水瀬はぼんやりと空気を眺めるばかり。生きている実感がわかない。「本当に奏介がいないの?」という悲しみと、「私がもっと慎重にチェックしていれば」「私が止めていれば」などの自責が渦を巻いた。
病室に差し込むアフリカの太陽光は熱くて眩しいが、それがやけに冷たく感じられる。まるで世界がモノクロになったようだった。
数日後、意識がある程度安定した水瀬の元に、思いもよらない客が現れた。——黒川の両親だった。遠く日本から駆けつけ、遺体の引き取りや手続きをしているという。
最初に彼らの姿を見たとき、水瀬は身がすくんだ。「責められるに違いない。自分のせいで彼が死んだのだから」と思った。
だが、二人は彼女の手をそっと握り、「大変だったね」と涙を流した。憎悪はそこに無かった。むしろ、息子の最後を共にしてくれた彼女を労わる気持ちが伝わってきたのだ。
「あなたのせいじゃない。奏介はきっと、自分の夢を追いかけて逝ったのよ。……悔しいけれど、誰もあなたを恨んでなんていないわ」
母親はそう言って、震える声で「ありがとう。息子は最後まであなたと一緒で幸せだったと思う」と続けた。
そんな言葉を聞いたら、余計に水瀬は自分を責める気持ちが増してしまった。どうして、こうも優しいのだろう。もし罵声を浴びせられた方がまだ楽だったかもしれない、とすら思う。
黒川の父親も「無理せず、身体を治して帰りなさい。私たちは手続きが終わったら先に日本へ戻る。……大変だろうが、君まで倒れたら息子が悲しむぞ」と語りかけた。その背中は哀愁に満ち、どうしようもない喪失感を抱えているのがわかった。
ほどなくして、水瀬の容態も落ち着き、チームスタッフに付き添われて日本へ帰国することになった。飛行機の中で、彼女は眠ることができなかった。
夢に見るのは、あの日の砂丘。上空から撮られた映像のように、ギガツインがジャンプしていく姿がスローモーションで脳裏に残る。そして転倒。暗転。
いくら振り払っても、そのイメージは消えない。
日本に戻ってからも、彼女はラリー関係の人々と連絡を絶ち、ひっそりと暮らし始めた。周囲の人々が「主催者のミスだ、訴訟を行うべきだ」「恵理香は悪くない」と言ってくれても、彼女の自責は消えない。なにしろ、コ・ドライバーの責務はロードブックを正確に反映し、危険を先読みしてドライバーを安全に導くこと。結果としてそれを果たせず、恋人が死んだ。
メディアから問い合わせがあったが、公式には「コースミスによる事故」としか発表されず、詳しい経緯は闇に包まれている。主催者側のロードブックミスを追及しようとしても、現地での訴訟は難しく、水瀬自身もそれ以上闘う気力を失っていた。
「私が止められなかったのが悪い」
その呟きだけを胸に抱え、彼女はモータースポーツから完全に離れていった。
時間は流れ、水瀬は地元の小さな会社で事務の仕事を始めた。日常は平凡で、毎日同じように過ぎる。
けれど、夜になるとあの砂漠の風景がフラッシュバックする。キャビンで感じた振動、砂を噛むタイヤの音、黒川の笑顔。悪夢が蘇るたびに彼女はベッドで身を縮こまらせる。
一時期はバイクや車のエンジン音を聞くのが怖くなり、街中でラリーやダカールの話題を見かけるだけで吐き気がした。トラックを見ると、ギガツインを思い出す。
——もう、ラリーなんて見たくない。車だって乗りたくない。そう言い聞かせて、彼女は自分を押さえつけていた。
周囲の友人は心配して声をかけてくれた。「時が解決してくれるよ」「あなたは悪くない」……しかし、そんな言葉は心に届かない。だって、奏介はもう戻らないのだ。自分が何をしようと、あの日から時間は止まったままだ。
それでも、どうにか人生を続けなくてはならない。黒川の両親は「また顔を見せにおいで」と言ってくれているが、水瀬はまだその勇気が出ない。会えばきっと自分の罪悪感が溢れ出し、どうしようもなくなる気がするから。
あるとき、彼女は家の片隅にしまい込んであった写真を見つめていた。そこには真っ赤な砂漠を背景に、ギガツインの前で笑顔を並べる二人の姿が写っている。
——あのときは本当に幸せだった。危険を承知で、砂漠を走る興奮を分かち合えていた。彼となら何でもできる気がしていた。
「もし、ロードブックが正確だったら……」
彼女は何度も想像した。砂丘を迂回していたら、無事にステージを終えられたかもしれない。あのトラックがどこまでいけたか、夢を追いかけられたかもしれない。
勝手な“もし”を並べたところで、過去は変わらない。それでも、後悔が消えるわけじゃない。
やがて一年が過ぎ、二年が過ぎ……周囲はその事件を少しずつ忘れていく。それでも水瀬だけは一人その場に取り残されていた。普通の仕事を続けながら、夢のない日々を送る。
あの日々からずっと、水瀬は心の片隅に“砂漠の風”を感じている。乾ききった大地の匂い、太陽の光、砂粒が肌を刺すような感覚。その全てが、彼女にとって今は痛みと同義だ。
――それでも、時折ふと思うのだ。黒川が本当に見たかった景色はきっと、この先にあったのではないか。砂漠の夜明け、あるいはラリーのゴールで歓喜に沸く仲間たち。彼はそこへ向かう途中で途切れてしまったけれど、その夢の輝きは消えたわけではないと。
彼の両親は最後にこう言った。「あなたが生きてくれるだけでも、息子は救われると思うの」。
当時はその言葉が理解できなかったが、今になってほんの少しだけわかる気がする。自分が生きて、彼の思いを覚えていることこそが、彼の生きた証になるのかもしれない。
だからこそ、水瀬は決してラリーを完全に憎みきれない。あれだけ悲惨な事故が起きたにも関わらず、砂漠の風景を思い出すと不思議と胸が熱くなる。もしかしたら、いつか自分がこのトラウマを乗り越える日が来るのかもしれない、と感じ始めている。
ギガツインは事故で廃車となったが、その一部の部品やフレームが愛知セントラルテクニカの倉庫に保管されている。円城寺や愛知セントラルテクニカの社長と会った時に見たギガツインは、あの時が風化するかのように錆びており、胸が痛んだ。
いつかは……いつかはあの巨大なマシンを思い出として笑える日が来るのだろうか。
砂丘の跳躍で終わった夢。けれど、彼女の人生はまだ続いている。たとえ自責の念を抱えたままだとしても、遺された者が歩む道があるはずだ。
夜、窓を開けて風を感じると、微かに乾いた空気が入り込むときがある。それがサハラ砂漠の風だと思うのは、ただの錯覚かもしれない。だけど、水瀬はその風に頬を撫でられるたび、心の奥でこう呟くのだ。
「ごめんね、ありがとう。……私は、まだ生きてるよ」
そうして彼女は今日も眠りにつく。夢の中で、あの青い空と灼熱の砂が映し出され、遠い異国の地で笑う恋人の姿を見ながら。いつか彼の笑顔を、涙ではなく微笑みで想い出せるようになる日を、まだ見ぬ砂漠の星空に祈って——。
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