中島みゆきを観て聴いて考えて書く

コンタ

夜会VOL.8 『問う女』

今年(2024)から月に1本ずつ中島みゆきのDVDを購入し(わたしは“お布施”という)、今年最後のお布施で鑑賞。今回のテーマは『エレーン』のようだが、『エレーン』という曲目は、実は入っていない。

だが『エレーン』の通低奏音は確かに感じる。『エレーン』はマイナーで暗~い曲なので、知っている人は少ないだろうが(『生きていてもいいですか(1980)』収録)、中島みゆきはかつて、同じアパートに住んでいた外国人の娼婦が殺されたニュースを知り、激しい衝撃を受けた。この衝撃が『エレーン』という作品になった。同じテーマによる小説『街の女』(『女歌-おんなうた-(1986)』収録)にも書いている。『夜会』にも当然登場するだろうと、わたしは見込んでいた。現実には、わたしの想像のはるか斜め上を飛んでいた。

中島みゆきはなぜ、そんなに衝撃を受けたのだろう。そして、なぜ同じテーマで繰り返し作品を作り続けているのだろう。


フリーアナウンサー(?)のナルセマリアは、ある土砂降りの夜、繁華街で外人の娼婦と出会った。互いに言葉が分からず、何も聞いても「ニマンロクセンエン」と答える彼女は事故で大怪我をして出血し、マリアは助けようとして抱きかかえ救急車を呼ぶが、HIV+と知り自分の手が触れるのを躊躇する。あらすじはざっとこんな感じ。


HIVといえば、1980年代、米国ではエイズ危機が始まる。ストレート(異性愛者)は病院治療OKだがゲイはNGだというあからさまな差別が勃発する。「オレたちにもエイズを治療する権利がある!」と主張し政府と戦い、そして次々と死んでいった。いっぽう、日本ではエイズは一向に無視される(日本のエイズ死亡者第一号は娼婦と報道される)が、実はエイズ罹患者数はかなり多い。ダムタイプの演出家・古橋悌二は文化庁芸術家在外研修制度でNY滞在を果たし、ついでにエイズにかかって亡くなった(1995)。調べれば他にもいると思うが、古橋の死後の1996年、世紀末の日本のなかで、あえてHIVを出すのが彼中島みゆきであった。彼女が古橋の存在を知っていたかどうかはわからないが。

『エレーン』の最初の印象は、ロシア系娼婦なのかと思ったら(いまからおよそ20年前、歌舞伎町で立ちんぼしてるのは全員白人ロシア系だったのを、わたしは目撃している)、『夜会』ではタイ人設定の娼婦である。たぶん“ジャパゆきさん”のイメージが強いのだろう。

これはわたしの憶測にすぎないが、歌手として人さまに姿と歌(という芸当)を見せるのは娼婦やストリッパーに違いない、身体の奥を見せるのも心の奥を見せるのも全部一緒、自分も同じようなことをしている、むしろ殺されたのは自分だ、と感じたのだろう。


エレーン 生きていてもいいですかと誰も問いたい

エレーン その答えを誰もが知ってるから誰も問えない


中島みゆきの曲は「フラれ歌」であり、「失恋して落ち込んだときに聞いてさらに涙を流し、やがて落ち着く効果がある」という声も多い。マイノリティに寄りそった「応援歌」ともいわれる。わたしが彼女を初めて知ったのは『悪女(1981)』というヒット曲。TV番組にも出演したようだが、TV局の扱いがとてもひどかったらしく、それ以来、傷ついた彼女は一切TVに露出していない(「のど元過ぎれば熱さ忘れる」と言うが、彼女が再びTVやCMに出演したとき、すでに“大物”になっていた)。まわりのシンガーソングライターが高潔な彼女を真似て「(オレも)TVには出ないぞ!」と粋がってカッコつけていたが、売れなくなると自分からすごすごとTVに出たがるようで、なんかカッコ悪いとわたしは思った。

一般的に、彼女の曲は「暗い」「ジメッとしている」と非難交じりに言われた。それはそれで「てめえら全然わかっちゃいねえ!」とわたしはひどくムカついたものだった。ただ単に暗いだけではなく、苦痛や孤独といった暗さの底を尽いたように突然開き直って明るくも感じられる。わたしは「失恋」とは無関係に、彼女の歌を聞いて心の琴線に触れたような気がして、何度も何度も曲を聞き、吟味していた(と同時に歌ってもいた)。誰も知らないだろうが、わたしは密かに「中島みゆき在野研究者」となって、この文章を書いている。てか書かざるを得ないのだ(そして歌わざるを得ない身体になってしまった!)。それでいま、わたしは彼女について考え、これを書いている。歌いながら書いている。

時代はバブル直前。人々は浮かれ騒いではしゃぐが、その陰でそっと彼女の歌を聞いていた人たちもいただろうと思う。バブルが弾け「ロスト・ジェネレーション世代(いまはZ世代?)」と呼ばれて30年が過ぎた。中島みゆきは若い世代もよく聞くと言われている。『時代(1975)』『わかれうた(1978)』『糸(1993)』『地上の星(2003)』などの世代を超えたヒット曲がある。おそらく普遍的な歌を歌っているのだろう。

「クリぼっち」「カップル見てるとムカつくしイラつく」「リア充爆発しろ」と、たとえネタとして暴言を吐いても、おそらく自分の孤独に向き合わず、いたずらに他者に当たっているだけだ。ふたりでいる幸せをジト目で見て羨望を感じ、ひとりでいるしかない自分の僻みや憎しみ八つ当たりをぶつけ、無駄な怒りを発しても孤独は決して癒されないということ、感情や言葉は貧しくテンプレート化していることを、本人たちはおそらく知らないだろう。知らぬうちに自殺したり無差別殺人したりするのがオチだろう。

ありふれた孤独、ありふれた死。


1986年、『見返り美人』にはレコードやCDだけじゃなく、初のビデオも発売され、中島はラジオで「胸はぺったんこでお尻は大きい」と笑い飛ばしていたが、さっそくそれをレンタルビデオ店で探したわたしは、そのビデオを観た。

当時34歳の中島みゆきは、とてもとても官能的だった。スレンダーでクールビューティだった。超色っぺ~!(検索しても現在は視聴不可だと思うしビデオもないだろう)。いままで静止画(LPジャケットやポスター写真)の彼女しか観られなかったが、“動く”中島みゆきのセクシーさエロティックさに、わたしは完全にノックアウトされた。

ただ、わたしが気になったのは、ナルセマリアの声である。はっきり言って勘に触る声だ。なるべく人とは話さないようにしている彼女は、わざとらしい作り声で、(それこそテンプレート化した)言葉を武器にして生きてきた。たぶんそれも影響しているのだろう。しゃべる声はアニメ声で平べったい耳障りな発音をしていて、歌う声はしっとり野太くシリアスな感じである。ニマンロクセンエンに対するナルセマリアの反応は、自分でも衝撃だったようで、彼女は引退するのであった。

『中島みゆきのオールナイト・ニッポン』のヘビー・リスナーだったわたしは、DJの彼女が底抜けに明るい軽薄者を演じていて、歌はほの暗い水の底からホラーテイストで『恨み節』な感じ、『恋愛版(フラれ版?) 屋根裏の散歩者』な感じ、と同時に、妙な疑問を抱いた。このギャップはなんなのだろう。わざと演じているのか? それともナチュラルなのか? 中島みゆきは二重人格なのか? 脱線するが、彼女は発達障害だろうと仮定しておく。


さて、来週は『歌会VOL.1劇場版』だ。年末の夜、今年も映画館にひとりで観に行こう。


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