【短編3400字】あじさいの思い出

陽麻

あじさいの思い出【短編3400字】

 その日は雨だった。

 夕闇で薄暗くなった道を、私は家に向かって歩いていた。

 普通に道の端の歩道を。

 なのに、対向車線を走るその車は、ガードレールを超えて私に突っ込んできたのだった。




 気が付くと、私は病院の一室に寝ていた。

 足が痛い。右腕も痛い。ズキズキとした痛みを感じて、奇妙なことに私は生きていることを実感した。

 意識が朦朧とした中、ベッドの脇で母と病院の先生だろう人が話しているのが聞こえる。


「幸い、右腕と右足の骨折だけで、あとはかすり傷くらいです。命には別状はないので、安心してください」

「有難うございます……!」


 お母さんの涙声が聞こえた。

 ああ、そうか。私は交通事故にあったんだ。

 そこから、私の奇妙な病院生活が始まったのだった。




 病院の夜は早い。九時に消灯なので、朝はとんでもなく早く目が覚めてしまう。しかも朝ごはんは八時だ。食事をつくる人のことを考えるとこれ以上早く用意できないのだろうが、怪我以外は健康な十七歳女子はお腹がすいてしまう。

 怪我も大分良くなっていたので、いま私は朝がとても暇だ。


 時間を持て余していたので、朝六時という早朝に病院内を少し歩いてみた。朝早くの病院は、ひんやりした雰囲気が漂い、無気味というよりは寂しい雰囲気だ。

 松葉づえをつきながら少し歩いてみて、この病院の大きさを実感する。

 そういえばお母さんが言っていた。ここは県で一番大きい大学病院なんだって。

 私が入院しているのは三階だ。そこでガラス張りの中庭を見つけた。


 病院内であり、三階だというのに、そこには『庭』があったのだ。中央に小さな噴水が作られ、周りに花がたくさん咲いていた。人口の光に照らされているにも関わらず、そこにはいま、アジサイや鉢に入った睡蓮、ユリが咲いている。ユリは香りがきついので病院にはむいていない花だけど、中庭だから特別なのだろうか。


 その室内庭園のアジサイの前に、背の低い少年が立っていた。

 私は自分以外がこの早朝の病院を出歩いていることに少し驚いた。

 少年は、一言で言うと、ガラス細工みたいに透明な印象で華奢だった。

 青白い顔に、細い手足、大きい目だけがキラキラとしていて。

ああ、この少年は病気なんだ、と直感的に私は思った。

 

「君も早く起きちゃったの? 朝ごはんまで長いよね」


 私は静かに声を掛けてみた。少年ははにかんだように笑うと、そうだね、と答える。

 彼は、小学生くらいに見えた。ちなみに私は高校生だ。

「私、野上 優里ゆうり。君は……内科の患者さん?」

「そう」


 この病院の三階は、外科と内科の入院病棟が入っていたから、そう見当をつけて言う。


「俺は高橋 希夢のぞむ。お姉さんは外科の患者さんみたいね」


 私の包帯を巻かれた足と手を見て、彼は答える。

 にこりと笑んだ少年は、小学生にしては大人っぽい笑みを私に見せた。

 私は彼の傍の淡い青紫色のアジサイの咲く前へ行く。

 

「君はいくつなの? 私は十七歳なんだけど。高校二年生」

「俺は十四。中学二年だ」


 小学生じゃなかった。

 でも、彼の身体は小学生のように小さくて細くて、中学二年という年齢を聞くと、痛々しく思える。


「花。綺麗だよな」

「……うん」


 季節になると、外にでていない花でも、こうして咲き誇る。

 アジサイが、室内で育つなんて初めて知った。

 きっと手入れが行き届いているんだろう。

 私たち患者の目を楽しませてくれる為に。





「朝って暇じゃない?」

「暇だな。早く起きちゃうし、することなんてないし」

「ねえ、また明日会えない?」


 そう言うと、希夢くんはびっくりしたように私を見た。


「ここで、明日も。だって暇じゃない」


すると、彼は悪戯をするように、にこりと笑った。


「そうだな……。いい考えかも」


 そうして、私と彼のだれも知らない朝の逢瀬が始まったのだ。




「希夢くん、昨日のうちにアイス買っておいたの。知ってる? 大福型のヤツ。二個あるから一緒に食べようよ」

「ごめん、優里さん。俺、食事制限されてるから、病院の食事以外、食べられないんだ」


「希夢くん、アジサイも良いけど、ユリも綺麗に咲いてるね」

「ああ、でもちょっとやっぱり匂いがきつくて、気持ち悪くなりそうだな。優里さんは平気なの?」


「希夢くん、今日は日曜日だから、朝ごはんがあんまり美味しいモノじゃないみたいよ」

「優里さんは朝ごはんのことばっかりだな。仕方がないよ、日曜日はだれも休みたいから」




 毎日、毎日、私達は早朝の室内庭園の淡い青紫色のアジサイの前で逢った。

 私がどうでもいいことを希夢くんに話しても、希夢くんは嫌な顔一つせずに一つ一つ丁寧に応えてくれる。

 そして、ある日。希夢くんは私に言った。


「今日で優里さんと会うの、最後になるかもしれない」

「……どういうこと?」


 早朝のアジサイの咲く室内庭園で。

 希夢くんは、ガラス細工みたいな儚げな顔に緊張を浮かべた。


「俺、明日手術する」

「うん……」

「難しい手術だって」

「うん……」

「俺、その手術を受けるためにこの病院に来たんだ」

「……うん」


 私は相槌しか打てなかった。

 そんなに大きな病気だとは思っていなくて。

 いや、そうだとは考えないようにしていたのかもしれない。

 

「……住所、交換しようよ。手紙が出せるように」


 希夢くんはハっとした顔で私を見た。


「……ああ」


 大きくてキラキラした目が、潤んでいるように見えた。


 私が住所を聞いたのは、同情?

 違う。

 純粋に退院後も希夢くんと連絡を取りたかったからだ。

 何故?

 彼ともっと話したかったから。


「手術、明日なんだ。だから明日はもうこれない」

「……うん。私、手紙まってるから。今、ペンと紙を持ってくる。そこにお互いの連絡先を書いておこう!」



 二年が過ぎた。

 希夢くんが手術をした、そのあとすぐに私の退院が決まった。

 私たちは、あれからなかなか逢う機会がなかった。

 私が入院したことは、すでにもう過去のことになっていて。

 私は大学一年生になっていて、日々を忙しく過ごしていた。


 でも、一つだけあのころから変わらないことがあって。

 そして、今日はまた特別な日だった。

 携帯電話のメール着信音が鳴る。


『おはよう、優里さん。今日は俺、とっても楽しみにしてたんだ』 


 ずっとメル友になっていた希夢くんと、今日会うことになっていたのだ。


『私も楽しみだわ。希夢くんと会えるなんて』


いつものメールのやりとりも、今日は特別だ。 

一通りやり取りをして、家を出る。

 今日は二年ぶりに希夢くんと会う約束をしていた。


 待ち合わせた都内のカフェで、携帯電話でやり取りしながら、二年ぶりの再会に心を浮き立たたせる。

 彼は、青い半そでを着て、黒いジーンズを穿いて来る予定なんだそうだ。

 カフェのテーブル席に座ると、周りを見てみる。

 そんな風貌の人を探していると、一人、ぴったりの人がいた。

  

 私は首を傾げて、その人を見つめた。

 希夢くんにしては、身体が大きい。いや、大きすぎる。

 だって、筋肉だってついてる。

 背だって私よりも高くて。

 

 あの人は違うな、と思っていると、その青年が私の顔を見た。


「優里さん! 久しぶりだなあ!」


 そう言って、私の方へ歩いてくる。


「え? 希夢くん? え? だって、その……」

「俺、少し背が伸びたでしょう? 成長期だし。いま高校一年生だ」


 背どころか、胸板も厚くなって、肩の筋肉もがっしりしている。

 声だってハスキーになっちゃって。

 私はびっくりしながらも、席から立ち上がった。

 

「逢いたかった! 優里さん!」


 彼は立ち上がった私をその腕にすっぽりと包み込み、抱きしめた。


「ちょ、ちょっと、希夢くん……」

「なに? 優里さん」


 身体を離して見つめ合うと、その瞳は、以前のように病的にキラキラしているのではなく、希望に満ちて輝いていた。


「俺、難しい手術も超えて、リハビリもして、身体も鍛えたりした。今はもう、普通の人と同じくらい健康になってるんだ」

「そう……良かった……」


 彼の大きな変わりように、何故か涙が出そうになった。

 そうか、私は嬉しいんだ。

 希夢くんがこんなに健康に大変身していて。

 

「優里さん、俺、優里さんに逢ったら、言いたいことがあったんだ」

「なに?」

「逢えてすごく嬉しいって」

「私もよ。逢えてとっても嬉しいわ」


 それにしても成長しすぎだろう、と思いながら二年ぶりの再会を喜ぶ。

以前のガラス細工のような彼は、硬質で冷ややかな印象があった。


しかし今、私はたくましくなった希夢くんの胸の中で、以前は想像もしなかった彼の温かい体温を感じている。


「本当に逢いたかった」


私を抱きしめる彼の腕は、二年という時間も、彼がまだ高校生だという事実も、その隙間を埋めるように大きく私を包み込んでくれていた。



END

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