雨の音色
塚本正巳
上
「なあ清水、シュウがお前のこと好きなんだって」
次の大会が近いため、バスケ部の練習は今週に入ってから一段と熱を帯びている。急いで部室に向かおうと放課後の教室を駆け抜けていた私は、受けそこなったパスを胸にぶつけたときのような気分になって足を止めた。
別に告白られて舞い上がったわけではない。高校に入って一年半ほど経つが、私はこれまで六人の男子に告白された。でもすべてその場で断っている。
こんなバスケ一筋のがさつな女のどこがいいのだろう。周りにはもっと髪が綺麗で、色が白くて、見るからに可愛い女子がいくらでもいるというのに。男子の好みというのは本当によくわからない。
私が所属する女子バスケ部は、県で有数の強豪チームだ。クラスには恋愛にのめり込んでいる子も結構いるが、私にそんな悠長なことをしている時間はない。練習をサボればすぐに勘が鈍ってしまうし、何より一日でも休んでしまうと次の日から練習に行きたくなくなってしまう。恋愛は卒業してからでもできるが、県大会、そして全国大会出場のチャンスは今しかないのだ。
告白めいた言葉を聞いて固まってしまった理由は、何のことはない、ひどく驚いたからだ。私を呼び止めたのはアキラというクラスメイトで、お調子者ではあるが笑顔が憎めないクラスのムードメーカー。そして彼はシュウと仲が良い。だからさっきの言葉は、もしかするとシュウのために気を利かせたつもりだったのかもしれない。
でもアキラ、君のその気遣いはお節介というものだ。君の隣には誰がいる? ちょっと首を振って見てみるがいい。シュウこと小野修二が、私と同じように全身を強張らせて絶句しているではないか。事もあろうに君は、本人同士の前で空気を凍らせるだけの暴露をしてしまったのだよ。このバカチンが。
気を取り直した私は、横目で二人を見ながら慌ただしくその場を立ち去った。当然だ。私は一分でも長く練習をしたかったし、そもそも私からバカチンどもに言いたいことなど何もない。
もし本人から告白られていたなら、お断りの言葉の一つや二つくらいは口にしていただろう。でも言ったのはあのバカチンだ。小野修二ではない。自分は何も言っていないのにフラれてしまうなんて、小野としては不本意極まりないだろう。だからある意味、私の無言の退室は巻き込み事故に遭った小野への配慮でもあったのだ。
腹立たしいことに、アキラのお節介はおかしな形で尾を引いた。私は夜、ベッドに倒れ込むとすぐに眠ってしまう。激しい練習のあとなのでくたくたになっているからだ。ところがあの一件以来、ベッドに入っても眠気の到来に時間がかかるようになってしまった。布団に潜り込んだ途端、まぶたの裏に邪魔者が現れて眠気をどこかへ追いやってしまう。なんて忌々しい置き土産だ。
その邪魔者とは、友人どころかほとんど話したこともない小野修二だった。これまで地名を喋るだけのモブキャラ同然だった小野が、なぜか毎晩、閉じたまぶたの裏に現れる。背は高い方で、少し几帳面そうな目つき、そしてサラサラの髪をかき上げたときの物憂げな表情が印象的だ。クラスでは物静かで目立たない存在だが、笑顔の記憶も少なくないので暗い性格というわけではないのだろう。
布団の中でそんなことを考えていると、友達とお菓子パーティーをしているときみたいにみるみる時間が溶けていく。なるべくたくさん睡眠をとって翌日の練習に備えなければならないのに、この現象はいつまで経っても静まる気配さえなかった。こんな悪癖のきっかけを作ったアキラが呪わしくてたまらない。あんなやつ、英語の先生の後頭部にバナナを投げつけたことがバレちゃえばいいんだ。ただ不思議なことに、それでも本気で彼を責めようという気にはならなかった。
そういえば小野は、教室でよく映画の話をしていた。きっと映画が好きなのだろう。おとなしくて繊細そうな彼らしい、私にはまったく縁のない趣味だ。そうやって最近の教室の風景をぼんやりと思い返していると、心地好い微睡みに紛れて熱っぽい話し声が聞こえてきた。
『シェーン』。友達との会話の中で、彼は確かにそう言っていた。聞いたことのない単語なので今日まで心に引っかかっていたようだが、一体何のことなのだろう。俳優か、それとも映画監督の名前だろうか。その言葉は朝になっても頭から離れず、私は朝食を食べながらスマホの検索窓に例の言葉を打ち込んでみた。どうやら『シェーン』とは、古いアメリカ映画のタイトルらしい。
さらに検索してみるとサブスクで観られることがわかったので、朝練を終えた土曜の午後、何となく再生ボタンをタップしてみた。腕利きガンマンがアメリカの西部開拓時代を舞台に活躍する、何とも古臭い西部劇が流れ始める。興味はまったく湧かなかったがとりあえず観続けていると、中盤あたりから次第に先が気になり始め、最後には不覚にも涙を流していた。特に開拓者の息子が主人公の背中に呼びかけるラストシーンは、あまりに切なくて思い出すたびに涙が出た。
この感動を誰かに伝えたい。でも友達の中に、こんな古い映画を知っている者などいるはずもない。となると思い当たるのは──。声をかけてみたいのは山々だったが、さすがにこちらから話しかけるのは気が引けた。あのバカチンがあんなことを言ったあとだけに、きっとお互い意識しすぎて変な空気になってしまう。
秋も深まり、気がつくと穏やかな暖色が景色を彩るようになっていた。部活を終えた私は、教室に弁当箱を忘れてきてしまったことに気づいて思わず天を仰いだ。このまま帰ってしまうと、明日の弁当箱は味気ないタッパーになってしまう。まるで冷蔵庫の常備菜みたいで、教室で広げるのは何となく嫌だ。
友達には先に帰ってもらい、仕方なく一人で陽の落ちた校舎へ戻った。暗い廊下は想像以上に不気味だったが、こんなところで怯んでいたらいつまで経っても帰れない。さっさと用を済ませて全力で走れば、まだ友達に追いつけるはずだ。余計なことを考えずひたすら廊下を駆け抜けた私は、すっかり夜陰に沈んだ教室の扉を開けた。
声にならない悲鳴が喉を突き上げる。真っ暗だと思っていた教室に浮かび上がる、ぼんやりとした一点の光。それだけでも全身鳥肌ものだというのに、私の闖入に気づいた黒い影が光の側で勢いよく立ち上がったのだからたまらない。これで肝を潰さなければ、その人は相当勇敢か、もしくはダチョウ並みに鈍感ということになる。
「──清水さん? 驚かせちゃってごめん」
暗がりの中から心配そうに声をかけてきたのは、依然として私の睡眠時間を容赦なく奪い続けている小野修二だった。こんな時間に一人で、しかも明かりも点けずに何をやっているのだ。
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