沈痛

 冥界に続く地下の道を行く、ニフティとネフティス。互いに言葉を交わすこともなく、おごそかな雰囲気が二人を包む。湿り気を含む岩肌に生えた苔は決して優美なものではなく、少しずつ生気を吸い取られていく感覚に負けぬよう、ニフティはただ前だけを見据えていた。


 徐々に気温が上がり、道が開ける。目の前に広がる池は炎に囲まれ、気泡が弾け飛ぶ水面はぐつぐつと煮えている。


「悪き魂よ。我が炎に焼かれるがいい」


 ニフティとネフティスは、ゆっくりと池にその身を沈めた。炎の池に浸かり、ふたりは並んで呪文を唱え始める。


「おお、今宵もおるわおるわ! 我が元へ堕ちる人間の魂!」


 赤い髪、赤い瞳、血の滴るほど赤い唇。はやぶさの頭部に人間の胴体をもつホルス神は、金色の腰巻きにウアヌ杖を持ち、よだれを垂らして裂けそうなほどの口を大きく開ける。


『いやだ……嫌だ行きたくない! 吐き出さないでくれ!』


 喉元にしがみつく人間の心臓はホルスの力に引っ張られ、ニフティは涙を浮かべて嗚咽する。身体の中で暴れ狂う心臓を制御し、恐れおののく人間の声を聞くことは実に堪えがたかった。ニフティは呪文を唱え続けながら、悪魂にひたすらに繰り返す。


(諦めよ、諦めよ、諦めよ)


 ホルスの元に引き寄せられた心臓は寸刻、生前の肉体を取り戻す。だがそれは既に炎の池に焼け爛れ、焦げついた肉の臭いと骨や目玉が飛び出たおおよそ人間とは思えぬ姿であった。


『苦しい、息が……前が見えない!』


 当然、痛みもある。


『イダイ! 痛いイダイいだ……ぎゃっ』


 ホルスは泣き叫ぶ人間を、次々と喰らう。


 ニフティは目を瞑りながら、繰り返される嘔吐と耳に残るホルスの咀嚼音に、ひたすらに耐え続けた。


「大丈夫ですか」


 炎の池を抜け先に進む最中さなか。ネフティスがそう声をかけると、ニフティは丸めていた背中を意識して伸ばした。


「失礼ぞ。我に話しかけるでない」

「……申し訳ございません」


 それからはまた一言も交わすことなく、ふたりは次の門へたどり着く。


 壁には鋭い突起物が幾つも生えていた。中心にある小さな凹凸に近づくにつれ、その凹凸が門に同化した唇だということが露わになる。


 獲物を待ち侘びるかのように半開きになった口から覗くのは大きな四角い前歯、鋭い犬歯。


「悪き魂、我が鉄杭に身を捧げよ」


 再びふたりは呪文を唱える。憎悪と恐怖に満ちた人間の心臓は吐き出され、吸い込まれるように門に向かうと、瞬時に肉体を取り戻した。


「あっ……」


 炎の池の時とは対照的に、痛みも恐怖も声に出せぬまま、その肉体は次々と杭に突き刺さっていく。


「我は戦いの神メンチュ。我が満足するまで心臓を寄越さねば、門は開かぬぞ」


 壁一面に突き刺さった人間の顔は、まるで有名画家が描いた絵画の如く、痛烈な表情で固まっている。


「今宵も楽園まで辿り着けぬ魂の、なんと多いことよ……我は悲しく、同時に怒りを覚えよう」


 門の口が大きく開かれる。噛み潰すように動く度、断末魔のような叫びがニフティの耳を襲った。おそらく数分。それが何時間にも感じる絶望を経て、メンチュの口は閉じられた。


「良いだろう、通れ」

 

 門が開く。震える膝を気力で抑え立ち上がると、ニフティは右足を出した拍子に体勢を崩した。すぐさまネフティスが手を貸す。


「お掴まり下さい」

「やめよ」

「意地を張っている場合ではありません。門が閉じれば大変なことになります。もうすぐ裁きの間。後少しで終わりますゆえ


 肩で息をするニフティ。やむを得ずネフティスの手を取ると、ふたりは閉じ始めた門を慌てて潜った。


 真っ白な光。その先に見える四つの影を確認すると、ニフティはすぐにネフティスの手を離した。

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