悲痛

 とある宮殿の一室で、女がふたり向き合う。いや、向き合うというには語弊があるだろう。片一方はかしずき、もう一方はそれを見下ろしているのだから。


「イシス、あるじはどこじゃ。そろそろ来るはずだろう」

「それが……本日もあるじはヌト様の元へ行かれたとのことで」

 

 イシスの言葉を聞き、ジェロスは胸元に光る首飾りを引きちぎった。ドサッと落ちたそれを踏みつけると、額に青筋を浮かべる。

 

「なぜじゃ、昨夜もその前も! なぜあるじは我の元へ来ぬのだ! ヌトなどより我の方が容姿も器量も上だと言うに!」

 

 荒れ狂うジェロスに、イシスは顔を上げないまま淡々と言う。

 

「明日こそ、明日こそは母上様の元に」

「そんなものはもう聞き飽きたわ!」

 

 甘い色香の漂う部屋。石造の床には宝石と桃色の花びらが散りばめられ、ベッドに施された白いレースの天蓋を蝋燭の灯がぼやっと照らす。影となって揺らめくレースの模様がメロウな雰囲気を醸し出す——はずだった。

 

 ジェロスは紅の引かれた唇を手の甲で乱暴に拭う。ゆっくりイシスに近づくと、爪の伸びた人差し指でくいっとイシスの顎を持ち上げた。

 

「そなた、オシリスにはちゃんと仕事をさせているのであろうな」

「はい」

「本日人間に宿した生命は何体じゃ」

「二八〇ほど」

「アンクが宿した生命は?」

「……四〇〇ほどと聞いております」

 

 その瞬間、ジェロスはイシスの頬に思い切り平手打ちをした。

 

「そなたが付いていながら何事じゃ。あるじが我に振り向かぬのは、そなたらがヌトの子より使えぬからではないのか!」

 

 ジンジンと熱を帯びる左頬を触ることもせず、イシスはただただ謝る。

 

「もうよい。今宵も主が来ぬと言うのなら、我は出かける」

「はっ」

 

 ジェロスが部屋を出たのを確認すると、隣室で控えていた侍女が二人そそくさと後片付けを始めた。イシスは節目がちにゆっくり踵を返し、部屋を後にする。扉を開けると、すぐ近くににセトとネフティスが立っていた。セトは呆れたように口を開く。

 

「今宵も出かけるのか、母上は」

「一人では過ごせないのでしょう。寂しがり屋なお人ですから」

 

 セトは小さく息を吐いた。

 

「その素行があるじに筒抜けだとは思わないものかね」

「元々はヌト様が正妻。母上は可哀想なのです。あまり責めないでやってくだされ」

 

 セトの隣に立つネフティスは、心配そうな顔でイシスの左頬に触れる。

 

「申し訳ございませぬ。いつも責められ叩かれる憎まれ役を……」

「心配することはありません。母上はあれでも我らを愛しておられる、それは間違いないのだから」

 

 月明かりがぼうっとイシスたちを照らす。どれくらいジェロスの部屋の前に佇んで居ただろうか、セトはいつの間にか消えていた。

 

「明日はきっと、母上の気も晴れましょう」

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