清き薫りの娘
入江 涼子
第一話
時は平安の世、歌人で有名な清原元輔という男がいた。
元輔は既に子が何人もいたが。四十を過ぎた辺りで、新しく妻を迎える。
静子という。まだ、二十八歳と若い。
元輔は彼女を大層気に入り、間もなくして元気ながらに不思議な女の子が生まれた。この子は生まれた際、まるで蓮の花のような清らかな薫りがする事から。
「ほんに、かわゆらしい子じゃ」
元輔はそう言って、生まれて間もない馨子を揺りかごから抱き上げた。傍らにはまだ、静養中の静子がいる。
「殿、馨子はいかがしますか?」
「……そうさのう、儂の邸に引き取っても構わぬか?」
「分かりました、殿の手元で育った方がこの子のためです」
静子は穏やかに笑う。が、悲しげでもあった。元輔も分かっていた。
娘の馨子を生んでから、静子は体調を崩している。これでは世話も出来まい。
なら、自身が引き取って
「すまぬ、静子。そなたが快癒したらば、儂の邸に来ておくれ」
「ええ、お約束致します」
静子は頷く。元輔は「馨子の首が据わったら、迎えに来る故」と言い置いて、彼女の住まいを出る。
あれから、しばらくが過ぎた。馨子が生まれて三月が経っている。元輔は久しぶりに静子の住まいを訪れた。
が、人がまばらでなんとなく、暗く沈んだ雰囲気だ。元輔は勘で何かあったとすぐに気づく。住まいにいた
「……つかぬ事を訊くが、いかがした?」
「……あ、殿。実はお方様が!」
男は泣きそうな顔で言った。
「お、お方様の容態が優れなくて。薬師にも診てもらったんですが、今夜が峠やもしれぬと」
「な、お方が?!」
「ええ、五日程前から床に臥されて。起き上がれぬくらいに、弱ってしまわれました」
男はそこまで言うと、すすり泣きを始めた。元輔は信じられない。が、自身の目で確かめねば。その思いに駆られて、住まいの中に入った。
「……お方様!」
「於春、中へ通してくれぬか?」
「……あ、殿。少々、お待ちください」
「分かった」
元輔が頷くと、於春は立ち上がる。奥へと入って行った。
しばらくして、於春が戻ってくる。今、季節は冬の十二月だ。元輔は木枯らしが吹く寒い中で待ち続けたが。
「殿、お入りください」
「うむ、すまんな」
元輔が謝ると、於春は泣き笑いの表情になった。簀子縁に上がり、中に入る。御簾を上げ、静子がいる寝所に向かう。
於春も後に続いた。元輔は御帳台に近づき、几帳を動かす。そこには褥の上に横になり、昏昏と眠り続ける静子がいた。
「……静子、遅くなったな」
「お方様、殿がお越しになりましたよ」
「於春、姫はどうだ?」
「……姫様はお元気です、けど。お方様が臥してしまわれてからは泣く事が多くなりました」
「そうか、ちょっと。二人にしてくれぬか」
「分かりました」
於春はそう言って、静かに退出した。元輔は涙ぐみながら、静子の量が少なくなった髪をそっと撫でる。しばらくは無言でそうしたのだった。
静子は翌日の夕暮れ刻に身罷る。元輔は
「殿がお越しになるまで、お方様は頑張りました」
「うむ、静子は待っていてくれたのやもしれんな」
男の言葉に元輔は頷いた。密やかに一行は都の外れまで進んで行った。
野辺送りを済ませ、元輔は故人の住まいに戻った。乳母の君、女房達や従者達に準備をするように言いつける。
元輔は自邸にて、喪に服す事を決めていた。もちろん、娘の馨子も引き取るつもりだ。慌ただしく、乳母の君達は荷造りをする。しばらくして、荷造りが出来たと於春が伝えに来た。
元輔は用意させた牛車に乳母の君や馨子、女房達が乗り込むのを待つ。従者達も馬や徒歩でやって来た。
「殿、皆も準備が出来ました。行きましょう」
「うむ、行こうか」
頷いて、静子の住まいを後にした。元輔は振り返る事はなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます