第2話 【回想】卒業式当日の朝




三年生の後期、は少し特別な時間だ。

もうほとんど出席する必要もなく、四月からの進路によってもう、同じ学園生なのに振り分けられている。

その、半端な時間に区切りをつけるのが今日の卒業式。

僕、東雲千明しののめちあきはある人に呼び出され、他の生徒たちより一足早く登校していた。そして前期の終わりを最後に、遠ざかっていた生徒会室へと向かう。


扉を開けると、奥の窓から横目に外を眺めていたその人は視線を僕へと移し、流麗な所作で一礼する。


「おはようございます、会長」


銀色の長い髪が揺れ、生徒会室に差し込む朝日を浴びて微笑む彼女――藤原彩音は、一枚の名画のような佇まいだった。


この学園の伝統で次代の生徒会長は、前会長が指名した副会長が就くことになっている。二年の後期から三年の前期までの一年間、僕が生徒会長、彼女は副会長として共に生徒会活動に従事した。


元々僕は能動的に動くタイプでは無かったけれど、先代の会長に半ば強制的に副会長に指名され、そのまま会長に繰り上がったというわけだ。

そして僕は会長就任時に一年生の中で、才女の呼び声が高かった藤原さんを副会長に指名した。

最初はすごく嫌な顔をされたけれど、なんだかんだで引き受けてくれて、今では良好な関係を築いていると……思う。


「その呼び方、いい加減直そうよ。いまは藤原さんが会長でしょ?」

「では、なんとお呼びすれば?」

「普通に先輩でいいんじゃないかな」

「しかしそれでは他の先輩方と区別つきませんよね」

「区別もなにも名前のあとに先輩でいいと思うんだけど」

「なるほど、それもそうですね。では……」


藤原さんは、一呼吸おいて。


「千明先輩」

「…………」


僕の予想の斜め上を行く回答が返ってきた。


「聞こえませんでしたか、千明先輩」

「いや、聞こえてるんだけど。まさかそっちの名前で来るとは思わなかった」

「ふふっ、言質は取りましたからね」


藤原さんは不敵に笑うと、さらに続けた。


「では、例に倣って千明先輩もわたくしを名前で呼んで下さるのですね」

「どんな例かは知らないけど、少なくとも僕は型にはまりたくない生き方をしたいような気がする」

「彩音、とお呼びください」


この人、僕の話聞いてないよ。


「じゃあ、彩音さ――」

「私は後輩ですよ」

「…………」


何故に僕は後輩に逃げ道を塞がれているのだろうか。


娘を溺愛する藤原さんの父親は有名だ。

彼女に気安く声を掛ける悪い虫は叩かれるどころか物理的に消される恐れがある。


「とりあえず、彩音ちゃんで妥協してくれないかな」

「……わかりました。今はそれでいいです」


今はって。僕は今日で卒業だというのに、目の前の彩音ちゃんはスタートラインに立ったかのような口ぶりだ。当然、僕の生活環境は一変するわけで、今のところ僕の予定に彼女との接点は見出せないんだけれど。


ともあれ、互いに着地点を見出したところで本題に入る。


「さて、本日千明先輩をお呼びしたのはお伝えしたいことがあるからです」

「あー、うん。そうだったね」


今のやり取りのインパクトが強すぎて忘れかけてたよ。


「で、何か相談事? 生徒会関連だったらあまり力になれないかもしれないけど」

「……千明先輩。もしかしてわざとですか?」

「わざとって、なにが?」

「私には、そういう雰囲気にならないように予防線を張っているとしか……」

「…………」


そういう雰囲気。

確かに気づいていた。というよりも、考えたくなかっただけだ。

僕の自意識過剰――思い込みであってほしい、と。

けれど、卒業の日、異性を二人きりで呼び出す理由なんて一つしかない。


藤原さん――もとい彩音ちゃんは僕の元に歩み寄ると、僕の両手を取って、そっと自分の胸元へと置いた。



「私では、その……駄目でしょうか……?」



初めて見た。藤原彩音の、緊張と不安をまとった姿。


言葉は添え物、あるいは窓。本質はその向こう側にあり、頭は覗けないけれど目の前にいるのだ、伝わってくるものはある。


……けれど。


「僕の中にある感情は、きっと彩音ちゃんとは違うタイプのものだと思う。だから、ごめん」


別に女の子に興味がないわけもなく、性的なものだってそれなりに知識としてあるし、恋に憧れる気持ちもある。けれど、いまの自分の身に起こること……って考えると、まだその実感が湧かない。

そんな曖昧模糊とした気持ちで誰かと付き合うのは、やはり僕にはできない。


「そう……ですか……」


彩音ちゃんは僕の両手をゆっくりと下に降ろした。


「……他に意中の方がおられるのですか?」


そう言われて、一人の女の子が僕の頭の中にぼんやりと浮かび上がる。

けれど、それは頭の中ではっきりとした像を造り上げる前に、煙のように消えてしまった。


「いまは、まだそういう感じの子は思い浮かばないかな」

「……千明先輩は、まだ恋を知らないのですね」

「そうなのかもしれない」

「私は、千明先輩が初恋でした」

「…………そうなんだ」


はっきりと言葉にされて、僕はいま静かに動揺している。現実の遠景化――目を開けたままふとアルタード・ステイツに陥るような。


「ふふっ、千明先輩でも、そんな顔をすることがあるのですね」


彩音ちゃんは鈴を転がすように笑いながら言った。


「彩音ちゃんは普段どんな目で僕を見ているのさ……」


口腔からため息が押し出される。

僕の外面は流動性に欠け、他人から見ても変化には乏しいのだろうと思っていたけれど、案外そうでもないらしい。


「千明先輩は……皆さんの意見を参考にするなら、怒ることも無ければ、年に数回しか笑わない――鉄仮面のような方でしょうか」

「……はは」


渇いて笑うしかない。実はそうでもないのかも、と思ったそばから否定されるのだから、これはもう処置なしである。


「中には千明先輩には心が無い、と仰る方もいます」

「へえ、やっぱりみんな鋭いんだなぁ……」


僕はつい他人事みたいな返事をしてしまう。

そう言われて痛むような心が無い、それこそが何よりの証拠だった。


「……私はそうは思いません」

「彩音ちゃん?」

「千明先輩は感情を表に出すことが苦手なだけで、他の誰よりも温かい心を持っています」

「そう言ってくれるのは嬉しいけど……」


何事に対しても熱意を持てない。理解はできても共感ができない。

温かい心、なんて言われても耳に砂が入り込むようなザラリとした違和感がある。


「この一年と半年の間、一番近くで千明先輩を見続けてきた私の言うことが信用できませんか?」


きっと生徒会活動のことを指しているのだろう。


確かに僕は自分の及ぶ範囲であれば、人からの頼み事を断るようなことはない。

けれどそれはあくまで受動的に。求められれば。

だから、彼女は勘違いしたのだろう。それが心からの親切によるものだと。


「僕はね、彩音ちゃん――」


僕は彼女から視線を逸らした。一瞬の逡巡。

この先は僕にとっての境界線。けれど、彼女は勇気を出して告白して来たのだから、僕もそれに応えて踏み込むべきなのだろう。


「本当はすごく冷めたい人間なんだ。昔は特に酷くてね、勉強にしても運動にしても、なんでみんなこんな簡単なことも出来ないのかと人を見下して、それは嫌な子供だったよ。幸い、周りの人に恵まれたおかげで、今は何とか善人の振りはできるようになったけれど、それはあくまで示唆されたことであって、発意によるものじゃない。だから、今まで君が見てきた僕は、単なる虚像なんだ」


僕は世間からギフテッドと呼ばれる存在で、特に並列思考に特化している。


例えば数学のテストを出されれば、自分の視界に入っている問題は全て同時に計算し、あるいは最適解を即座に見いだせる。けれど、日常生活に関していえば、僕の思考は最良と最悪――相反する二つの可能性を同時に再現してしまう。場合によっては数百のパターンとか。

そして人間っていうのは、良いことよりも悪いことの方が、より深く心に刻まれるようにできているらしく、そんな思考を繰り返していくうちに僕の心は徐々に削られていった。


いまの僕は、自分の周りに見えない壁を張り巡らせて、そのくせ集団から孤立しないようにと、周囲の色に同化することに汲々きゅうきゅうとしている。

だから、僕に僕の色はなく、いや、ないはずであり、透明であったらいいと、そんなことを常に願っている。そうして機械のように冷めた心を周囲に気取られぬように、意志を持たない仮初めの優しさで取り繕う人生。


――もはや虚業。砂上の楼閣はいつ崩れることか。


「千明先輩……」


沈んだような声。

正視することのできない僕は、彼女のその表情を窺い知ることはできない。それなのに僕の頭はうなりを上げて思考し、理解・同情・嫌悪、といった様々な彼女の反応を脳内でシミュレートしている。否応にも。


それが苦痛だった。


「正直に言うと君からの告白を聞いた瞬間、僕は恋愛感情の有無について考えるより先に、数多の思考の先で最良よりも最悪の結果が多いことを憂慮した」

「……内容をお聞きしても?」

「言えないよ。口にするのも憚られるような、ろくでもない想像だからね」


例えば、この告白が実はドッキリで、大成功のプラカードを持った二年生達が生徒会室の外で今か今かとスタンバってるんじゃないか、とか。


――しかし、彼女の様子はそんな疑いを許さない。


別の思考は、僕が彩音ちゃんの告白を受け入れたとしても、彼女のお父さんが家柄が釣り合わない、などを理由に交際を認めてくれなくて、結果、僕たちは……などと。


「千明先輩、こっちを見てください」

「……うん」


再度合わせた彼女の目は、どこまでも真っ直ぐだった。


「私は、千明先輩の考えていることは想像できます。もし、私の周囲に壁があるというのなら、その全てを壊してみせます」

「――っ!」


それは、場合によっては藤原の家を捨てることも厭わない、とも取れる発言だった。


彼女は聡い子だ。親の反対など最初から折り込み済み、ということか。

鳥かごのお嬢様とは思わなかったけれど、まさかそこまでの覚悟を決めているとは思わなかった。


「千明先輩、もう一度言います。藤原家の彩音ではなく、目の前にいる私と、お付き合いしていただけませんか?」

「…………」


改めて考える。お互いの障壁となり得る要素を一切排除した上で。


恋愛や気持ちを天秤に例えようとは思わないけれど、ある程度のバランスは必要だと思う。……などと考えている時点で僕は、致命的な欠陥を抱えてるんだけろうけど。


しかし、どう考えても釣り合っていないのだ。彼女の覚悟と好意に、僕の感情が。

いまの僕には、彼女から向けられる感情に返せるほどの何かが無い。


「彩音ちゃん、僕は――」



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