私の妻
青空あかな
第1話:私の妻
――……悪いことをした。
それが、今一番強く抱いている感情だ。
静まり返った自宅のリビングで、私はテーブルの上を見つめる。深い焦げ茶色に塗られた欅の一枚板。結婚が決まってから、新居とともに購入した大きなテーブルだ。値が張ったものの、今では買ってよかったと思う。
私たちはこのテーブルで数え切れないほど食事をし、酒を呑み、愛を囁き合った。君と私の濃厚な思い出がこれでもかと詰まっている。たとえ壊されても燃やされても、その記憶が消えることはないだろう。
思い出のテーブルに乗せられた菜々子の顔は死してなお美しく、首だけとなっても私の目を釘付けにするばかりだ。物憂げな表情を浮かべた猫のように丸くて黒い瞳、緩やかなウェーブがかかった柔らかい茶色の髪、触るのも憚れるほど美しい白き柔肌……。
そのどれもが生前と少しも変わらず、ただ私を無表情に眺めていた。
――まだ菜々子は死んでいない。本当はまだ生きているのでないか……。
そう思わせるほど、彼女の死に顔は穏やかで安らかで、何より美しかった。だが、確かに菜々子は死んでいる。欅の黒に近い濃い茶色に、彼女の白い肌が不気味なコントラストを作っていた。淡い希望を打ち砕く冷淡な現実を前にして、私は懺悔のため息を吐くしかない。
「…………どこで間違ったんだろうなぁ……」
私たちの愛しい日々を思い出すと、思わず呟きが漏れた。
菜々子と初めて出会ったのは、およそ一年半前。菜々子は私の勤め先に、重要な商談相手として訪れた。一目見て、私は彼女に夢中になった。大事な商談の内容はよく覚えていないくせに、あのときの心臓の高鳴りだけは今でもよく覚えている。柔らかな茶色の髪をさらさらと優しく波打たせ、猫のように丸い瞳を細めてころころと笑う彼女は輝いて見えた。大げさではなく、天使や妖精の類いかと思ったほどだ。
菜々子と会ってから、私の目には彼女しか見えなくなった。会社にいても、家にいても、本を読んでいても、会話をしていても、夕飯の買い出しに行っても、スマホを見ていても、テレビを見ていても、食事をしていても、車を運転していても、風呂に入っていても、ベッドに横たわっていても……私は菜々子のことばかり考えていた。 何をしていても頭には菜々子の笑顔が浮かび、耳には菜々子の軽やかな声が聞こえ、彼女を想うたび初恋を知った少年のように心臓が激しく鼓動する。これほどまで好きになった女性は他にいない。
完全に心を奪われた私は悩んだ。無論、菜々子との関係である。
――どうにかして自分の思いを伝え、恋仲になりたい……。しかし、今の関係を壊してしまってもいいのだろうか……。そもそも、彼女は私のことをどう思っているのだろうか……。
寝ても覚めても、私は同じ悩みを繰り返し考えた。連絡先は知っているし、怪しまれない接点はある。だが、菜々子にこの気持ちを伝えるには、普通の男が普通の女へ告白する以上に並外れた勇気と覚悟が必要だった。
十日ほど考え抜いたと思う。結局、私は自分の気持ちに嘘を吐くことができず、ある日意を決して菜々子に思いを告げた。運がいいことに、菜々子もまた私を好いてくれていた。慌てた商談のせいで第一印象は最悪だと思っていたが、菜々子には大人の余裕が感じられ、むしろ魅力的に見えたらしい。人間とは不思議なものである。
覚悟を決めて勇気を出した結果、私と菜々子は両思いとなった。告白したとき、彼女が頬を赤らめながらこくりとうなずいた瞬間は、鮮明に脳裏に焼き付いている。今でも目を閉じれば、菜々子の恥ずかしそうな嬉しそうな顔が目に浮かぶ。この年になるまで神など信じていなかったが、彼女と結ばれたときばかりは心から感謝した。
――一生に一人出会えるかどうかさえわからない、真に愛する女性と結ばせてくれありがとう……と。
互いに思いが通じ合ったその日から、私と菜々子は親密な関係となった。死ぬまで一緒にいよう……いや、死ぬときは一緒に死のうとさえ誓い合ったが、問題が一つある。
会社の重要な取引相手同士でもある私と菜々子。両者の恋愛は、公にはできない関係だ。仕事という名目で会うことは簡単だったが、もちろんのこと会社やその近辺で愛を深めることはできない。短い電話やメールでさえ気を遣う。他人の目を盗むようにして連絡を取り、言葉と愛を交わす。
私と菜々子の間には高い壁があるようでならない。もどかしくて心が焦がれるものの、それが逆に私たちの思いを燃え上がらせた。愛は障害があるほど燃える、とはこのことか……と、自分の身をもってして感じた。
菜々子と過ごす時間は刺激的で幸福感と充実感にあふれ、他の何物にも代えがたかった。わずかな時間さえ惜しむように、私たちは深く愛し合った。菜々子のきめ細やかな肌は温かく、柔らかな髪は撫でるだけで癒やされ、抱きしめるたび心が温かく満たされる。大好きな女性と気持ちが通じ合うことがどれほど幸せなのか、私は生まれて初めて知ったと言える。
ただ、彼女さえいればそれでよかった。
――何も要らない、誰も要らない、菜々子こそが私の世界の全て……。菜々子こそが、私の人生なのだ。
愛を深めるにつれ、私の心と頭は出会ったとき以上に菜々子で占められていった。同時に、渇いた毎日が変わったのを感じる。つまらない仕事には、"菜々子を幸せにするため”という大きなやりがいが生まれ、やる気のなかった家事さえも、"菜々子と気持ちよく過ごすため"と思えば楽しくなり、私の毎日は潤った。冷たく灰色な生活を送っていた私に、菜々子は色を与えてくれたのだ。
菜々子と結ばれてから、会社ではよく「雰囲気が明るくなった」と言われた。私は自覚がなかったが、笑顔が多くなり、優しくなり、以前より穏やかな表情になったらしい。やはり、心が満たされていると見た目にも変化が生まれるのだろうか。何か良いことがあったの? と聞かれたときは、誤魔化すのに必死だった。
周りに関係を隠しながら菜々子と過ごすうち、私の中にはある感情が生まれた。こんなに好きなのに、いつまでも隠れるようにして愛を深め合うのは嫌だ。この幸せな時間を確固たるものに、周囲から祝されるものにしたい……。
要するに、私と菜々子の関係を公にしたかったのだ。私は…………結婚しようと言った。君には何の不自由もかけない、命をかけて生涯大切に愛すると伝えた。
だが、菜々子は歯切れの悪い返答をするばかりだった。まさか断られるとは思っておらず、そのときはつい「私を愛していないのか?」と激しく問い詰めてしまった。菜々子は「違います」と言う。やるせなく悲しげな表情で。
理由を聞くと、どうしても勇気が持てないという旨を返された。
菜々子が気にすることは何もない、全て私に任せておけばいい、愛する者同士が結ばれないなんてそういうその中の方がおかしい……私は思いつく限りの言葉を使って彼女を説得した。黙って聞いていた菜々子は「少しの間、自分一人で考えさせてほしいです」と言い、私の元を去った。電話もメールも連絡がつかない日々が続いた。
悶々と過ごすことおよそ二週間。高級ホテルで会いたいという話になり、私は仕事が終わり次第飛ぶようにして彼女の元に向かった。ラウンジで向き合い待つこと数分…………彼女は首を縦に振ってくれた。その場で叫び出したくなるのを、必死に我慢する私がいた。喜びに打ち震える私を見て、菜々子は控えめに笑いながら一筋の涙を流す。
嬉し涙を流す彼女の美しい顔は、女神のように神々しく見えた。
深夜に帰宅した後も興奮は冷めやらず、静かな自宅で一人、勝利の美酒に酔いしれた。偶然、その日は私の誕生日でもあり、菜々子に初めて告白したときと同じように神に感謝した。最高の誕生日プレゼントをありがとう、と……。ワインを片手に持ち、菜々子と二人、愛し合う人生を全うすると誓った。
それから、私と菜々子は結婚に向けて準備を始めた。まずは住む場所を考えねばならない。お互いの状況を考えると、どこか遠くで暮らした方がよさそうだ。結ばれはしたが、私も菜々子も会社は辞めることになるだろう。今まで通りの暮らしを送るのは厳しい。
私たちを迎えるハードルは高いが、子どもは何人作ろうか……どこに住もうか……どんな家を借りようか……新しい未来を考えるたび期待に胸が膨らんだ。愛する菜々子もまた、私といる時間が何よりも大切だと言ってくれる。結ばれて嬉しい、不安や心配なんて少しもないと……。
――菜々子となら、誰もが羨む幸せな生活が送れるはずだ。私は本当の幸せを手に入れた。誰にも邪魔はさせない。
そう思えば、多少の苦難や困難は苦しみにさえ感じなかった。むしろ楽しくて嬉しく、家の間取りや家賃を見るだけでも笑い合った。困難を乗り越えた者は絆が強くなる。互いの未来が決まった安堵感や覚悟を決めた充実感などが源となり、私たちの関係は今まで以上に深くなった。とうてい人には言えないようなくさいセリフも、彼女の前では何の恥ずかしさもなく話せた。 菜々子もまた、私に熱烈な愛の言葉をかけてくれる。その度に、これでよかったのだと、私は強く感じたのだ。
諸々の準備は順調に進み、残すは一つだけとなった。届けを区役所の戸籍課に出すこと。その書類は今、菜々子の首の下にある。今となっては無用の長物だ。
全てはうまくいっていた。私と菜々子は死ぬまで愛し合い、ともに幸せな人生を送り、温かい家庭を築き、愛を誓い合ったまま一緒に死ぬのだと。
…………そう思っていた、今日までは。
私の背後から、もういいかしら? という妻の声が聞こえる。私が菜々子と逢瀬を重ねる間、妻はずっと気づかないフリをしていたようだ。終ぞ、この瞬間まで気づかなかった。何かを振り上げられる気配を背中で感じる。その何かが私にはわからない。
だが、これだけはわかる。
次の瞬間には、私も生首だけの存在となるのだろう。
――……この愛しい菜々子と同じように……。
私の妻 青空あかな @suosuo
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