ある時刻t_0から何マイクロ秒で反応できるか

島尾

しょうご時計

 私は遅刻野郎である。今日も、遅刻しなかったもののギリギリで仕事場に着いた。

 一方でしょうご君という人は、決められた時刻に必ず動く。たとえ話の途中でも、その時刻が到来すれば簡単に話を切って目的を果たす。私は寂しい感じがするものの、彼の時間依存度を相当理解しているので止めはしない。なぜならば彼は待合室からバス停へ出発する際、必ず5分前にそうすると定めており、寸分の狂いもなく(あるいはそれを目指して)秒単位の時計を見ている。人々にとって最も重要なことというのは、人が100いれば100違うものである。しかし「違う」ということの誤差範囲は、出力される行動それ自体にまで支配的になるものではない。普通、5分前の時刻になったとしても、話を区切りの良いところまで継続させて4分あるいは3分前の時刻に待合を出ることは大ごとではない。しかししょうご君にとっては、大多数のもつ1秒の感覚を10分くらいに長大に感じている気がする。よって1分すなわち60秒もの時間差は、彼に大きな負荷を与えることになるだろう。真に時間を第一と考える彼は、行動が一般とは異なるものとなる。

 私はどうだろうか、ということを考えないわけにはいかないだろう。私は確かに時刻を正確に把握している。しかし狂いなく動くことがかなり苦手だ。その原因の一つは、時刻という一個の指標に従順となることを嫌うからである。5分前が来ても、120秒という架空の猶予時間を頭の中で定義し、実時間軸に挿入する。その結果5分前は3分前になる。そうして3分前が来たら、先ほどと同じ比率の架空時間をまたしても挿入する。3×2/7を計算すると、約50秒である。さて、そうやって同じ比率を維持することが私に可能かを考えると、時間という物理的に操作不能な敵に支配されたくないと思う者が、過去の自分の勝手な意思で決められた比率に従うか……とても無理な話である。そうやって私は、時刻をしっかり認識しているがゆえに遅刻を引き起こすという、救いようがなさそうな状態にある。これを根本から解決するのは不可能に近いと考える。しょうご君が秒単位で時刻に従うのをやめさせるのと同じくらい困難だろう。私の頭は時刻や時間を一番大事どころか、千番よりもはるかに下に位置付けされた優先度にしているということがこの文章を書いていて分かった。ということは、正確な時刻を見ることをやめればどうだろうと思いつく。最も簡易な方法は、鳥の如く日が上れば起き上がって、昆虫の如く餌を食み、犬猫のように排泄物を出して、類人猿の初期の醜い猿モドキのごとく歯ブラシで歯を磨き、ようやく平安時代の農民のごとく外用の衣服を身につけて、そして第二次世界大戦後の戦禍の残る昭和の堅物男のように金属のドアノブをひねり、個性を失ったように東へ西へ歩く者どもの中に紛れて自分は北または南に歩いてゆくのがよいかもしれない。北と南に、最寄りの地下鉄駅があるからだ。この一連の動作の中には、一度も時計という地球の公転周期を元にした虚しい基本単位を取り入れない。時間に従うのが嫌な者が考えた案である。ならば実際にこれが効果を及ぼすか否かをこの身で確かめる必要がある。これは自分と時間を「試料」にした実験だろう。しかも時間という「試料」は、用意したそばから捨てるという不可解なものである。


 時間というものが絶対的でないことは過去の多くの科学者によって証明されている。また、時刻というのも火星の公転周期を基にすればたちまち絶対性の皆無なことが分かる。しかし日本や世界は「時間を守れ」と言うので、その浅はかさを横目で見つつ、見かけ上守っているように企てようかと思う。そうして、しょうご君が定刻からどれくらいずれて到着したかを記録して、第二の実験結果を得ようと目論むこともできる。

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ある時刻t_0から何マイクロ秒で反応できるか 島尾 @shimaoshimao

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