第45話 シュレディンガーのヤモリ

 俺は夢を見る。

 一匹の蚕蛾になって羽ばたく夢だ。

 白鯨の背中から飛び立った。

 しかし、いくら羽ばたいてもカイコは飛べない。

 当然海に落ちた。翅をいくら羽ばたかせてもクルクルと水面を旋回することしかできない。

 ぐるぐると同じところを回っている。

 時計の針のように。

 いつかこの遠心力で飛べる日がやってくるのだろうか。

 やがて俺は岸辺に打ち上げられた。

 波打ち際で突如、唇に触れるフワフワとした感触。

 シルクのような舌触り。ストローのような歯触り。

 俺は久方ぶりに息ができた。

 生きるために息をする。

 酸素を吸う。

 二酸化炭素を吐く。

 焦点を結ぶと目の前に宇宙人が立っていた。その手のひらの中に俺はいた。


 果たして、俺は宇宙人がカイコになる夢を見ていたのか、はたまたカイコが宇宙人になる夢を見ていたのか、そのどちらなのだろうか?


 俺は夢から醒める。

 アルビノゴジラの横隔膜のような天井が見えた。

 消毒液のにおいが安全ピンで突くように鼻を刺す。窓から射し込む太陽光。その向こう側からセミの大合唱が聞こえる。

 広い個室。冷房。花瓶。清潔な白いベッドに俺は寝ていた。

 ここはおそらく病院だろう。

 足下に妙な重さを感じた。そちらを見るとパンダのような子猫が丸くなって寝ていた。

 俺は子猫を起こさないように上半身を起こす。

 ベッドの隣にはパイプ椅子に座る老人がいた。杖を突きながら船を漕いでいる。ストレートヘアーは白髪だが妙に若々しい。シワもシミも少ない。丸眼鏡が老眼鏡になっている。丈のあった白衣を着用しており小綺麗な身なりだった。

 俺の気配に気づいたのか、老人の乗る船が転覆した。

 目蓋を開けた老人は俺を見て目をしばたたかせた。

 突然立ちあがる。その動作に驚いたパンダ猫は飛び上がって逃げた。


「もういいのかね?」

「……まあな」


 今度は逆に俺は老人に問い返す。


「博士こそ、空飛ぶ車椅子はどうした?」

「何を言っておるのかね? 杖を持ってはいるがまだまだ僕は健脚だよ」


 博士はきょとん顔だった。


「なまじ足腰が悪かったとしても車椅子など時代遅れ。高性能義足を使えば良いではないかね」

「ふーん。認知症で足が悪いのを忘れたってわけでもなさそうだな」

「認知症? そんなもの薬ひとつで治るだろうに」


 どうやら俺の知っている世界とは様相が違うようだ。


「今はいつだ? ……って、博士にはいつも訊いてる気がするな」


 俺は自嘲的に笑った。

 これではまるで俺が認知症である。

 そしていつも博士は答えてくれるんだ。


「2094年の9月1日だが……意識は明瞭かね?」

「クリアだぜ。思いのほかな」


 9月1日ということは事故に遭って2週間ほど経過している。

 俺は体を動かしてみるが異常はない。

 左腕の義手も問題なく動作した。


「そんなグロテスクな義手になってしまうとは……」


 博士は同情するように言った。


「誰がそんな義手を装着したのか、顔を拝みたいくらいだね」

「目の前にいるけどな」

「僕?」


 認知症で忘れたわけではなく本当に記憶にない様子の博士。

 それもそのはずで。


「違う世界線の博士だからな」

「ふむ。つまりきみは違う世界線のヤモリということかね?」

「そうだけど……」

「うむ。記憶障害が見られるね」

「ちげえよ」


 なんだか話が噛み合わねえな。


「博士も70年前に見ただろ? レインボーブリッジで、この俺を」


 そこで博士は思い出したかのようにポンと手を叩いた。


「あーあのときのヤモリがきみか。そうか。ここで来たかね」


 博士はあごに手を当てて考える。

 そして独りごちた。


「この世界線の僕はタイムマシンを造っていない。だから孫はいつどうやって過去に行くのだろうと思っていたが、まさか向こうからやって来るとはね」

「造ってないのか……タイムマシン?」

「うむ。必要なかったからね。それに争いの火種になることは火を見るよりも明らかだ」


 つまりこの世界線の博士はアンドロイド庁に拉致されてもおらず、タイムマシン開発を強制さ

れることもなかったのか。

 だから車椅子でもない、と。


「博士の認識ではどうなってるんだ?」

「僕の認識としては8月16日、きみは大型トレーラーと交通事故に遭った。海浜公園の砂浜に打ち上げられていたところを発見される。そして白有里しろあり大病院に担ぎ込まれた。医師によって左腕に義手を着けられ、記憶障害になった――と、認識しているが」

「それは違う」


 俺は俺が体験してきた出来事を包み隠さず語った。


「きみがそういうのならそうなのだろう。きみ視点では」


 博士は淡白に言った。


「だが、書類上では交通事故の際きみはひとりだったということになっている」

「ふざけんじゃねえ」


 俺ひとりだけなら100パーセント死んでいた。

 轢かれた挙げ句に海に落ちたんだぞ。

 ただでさえカナヅチだしな、俺。


「これも歴史の強制力かよ」

「どういうことかね、ヤモリ?」

「70年前、ダンプカーに轢かれそうな博士を助けたことがあったろ?」

「あったね。つまり僕を助けたからフィードバックが起こってきみが轢かれた、と」

「やっぱり考えすぎか?」

「いいや、仮説としては面白い」


 博士はあの頃の少年のようにはにかんだ。


「だが、たとえきみがこの時代に来なくても、おそらくこの世界線のきみは交通事故に遭って左

腕と記憶をくしたのだろう」

「へえ。そういうふうに処理されんのか」


 辻褄合わせの帳尻合わせ。


「でも俺は世界線Aからこの世界線Bに来た。なら、この世界線Bに元からいた俺はどこに行ったんだ?」

「目の前にいるじゃないかね」

「だから俺は世界線Aの俺で――」

「同じだよ。きみはきみだ。結果は変わらない」

「?」

「言うなれば目の前のきみに習合したんだよ。神と仏のようにね」


 いまいちわかんねえな。


「じゃあ今タイムマシンで1年前に戻ったら、俺の記憶にない自分と会うことになるんじゃないのか?」

「いや、その心配はないね」

「なんでだ?」

「この世にタイムマシンなんてないからさ。だから自分に会うなんてことは起こりえない」

「そうなる……のか」


 時間の自動修復機能とでもいうべきか。

 うまいこと世界は回っている。

 つまりこれが正しい時間の流れというわけだ。


「じゃあ博士にとって俺は交通事故に遭ったショックでタイムトラベルする夢を見た孫ってことか?」

「そうとも言えるし言えない」

「どっちだよ」

「どっちも正しいというわけだ。タイムトラベルしてきたきみも交通事故に遭って記憶障害になったきみも同じきみだ。さながら胡蝶の夢のようにね」

「急に哲学かよ」


 今の俺は世界線Aの俺の夢を見てる世界線Bの俺の可能性もあるってことか。

 我ながら頭がおかしくなりそうだ。

 でも、そこに違いはない。

 二人の俺が等しく重なり合っている状態。


「俺は蝶なのか人間なのか……ってか?」

「きみはヤモリだろ?」


 博士にそう言われて、俺はつい破顔してしまう。


「あるいはシュレディンガーの猫かね。箱は何個もあるように見えても開けられるのは自分が選んで開けた箱の中身だけだ。まるで人生そのものじゃないかね?」


 含蓄のあることを言う博士。

 さすが歳を取っているだけはある。


「まさかもうすでに過去に行っていたとはね。この現象はタイムトラベルでもタイムリープでもない。新たな概念――タイムドリフトとでも名付けようか」

「要するに夢オチだろ?」

「違うね。きみと僕は実際70年前に会っているんだから。歴史がそれを証明している」


 結果だけ並べれば、タイムマシンは大破して俺は左腕と記憶を喪くす事故に遭った。そしてタイムトラベルをしてきたとのたまう忍壁家守という存在だけが残った。

 それがすべてだ。

 だがそう簡単に呑み込めるわけねえ。


 だって、俺は違う世界線の出来事を憶えてんだから。


 左腕を見る。

 水色にオレンジの斑点。気持ち悪いデザインだ。

 俺も最初はそう思っていた。


「手生え薬をつかえば元通りになるが、どうするね?」


 博士は悪気なくそう提案した。

 しかし、俺はそれを固辞する。


「いや、いいや」

「なぜだね?」

「忘れたくねえからさ」


 車椅子に乗った博士のことを。

 あの世界線の出来事がなかったわけがない。

 この左腕を授けてくれたもうひとりのじっちゃんがいたんだ。たしかに。


「何はともあれ、よかった。ヤモリが生きていてくれて。ほんとうにね」


 博士がそうまとめると広い病室の扉が開いた。

 そこに現れた二人の人物を見て俺は面喰らってしまった。

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