第五通 カベチョロ郵便局
第44話 えり、おか
旅行は行きよりも帰りのほうが速く感じる。
どうやらそれは時間旅行にも適用されるらしい。
俺は二回目だからなのか亀酔いも感じることはなかった。
あるいはカメシマ2000型ではなく3000型だからなのかもしれない。
ともあれ、時計の海を渡り2094年に帰ってきた――と、思う。
そのはずだ。
グニャリと歪んだ背景が輪郭を持ち始める。透明な甲羅の外に世界が再構成された。
白亜の主塔。白鯨の体内のような吊り橋。
見覚えがある。
レインボーブリッジだ。
しかし、俺がいた2094年にはレインボーブリッジは崩落していたはずだ。
なぜある?
しかも底抜けに空が青い。塩雪も降っていない。
カモメなんぞ飛んじゃってらあ。
「本当にここは2094年なのか?」
「イエス。現在、2094年8月16日午前9時00分」
計器を読み取りながらソルティライトは答えた。
「ただし変わっている。世界線が」
たしかに俺の知っているレインボーブリッジとは違っている点があった。
それは2024年にはなかった超大型塩時計である。砂時計のようなくびれをレインボーブリッジが円を描いて一周してから対岸に伸びている。しかもその先は白い蜂の巣のようなソルト区に繋がっていた。
俺は青い獅子舞を脱いでカメシマを降りた。
晴れ渡る紺碧の空に朝日が昇る。海面にはキラキラと陽光が乱反射する。
青い空は青いままだった。アブラゼミを追いかけて食べようとするカモメが飛んでいる。
俺がそれを猫のように目で追っていると路肩にひとりの老婆が立っていた。
黒い雨合羽のフードを目深に被っている。寂れたビニール傘は差しておらず、署名活動も行っていない。
唐突に老婆は口を開く。
「橋を直してくれてありがとう。死んだトカゲの目をしたお兄ちゃん」
「誰が死んだトカゲの目だ!」
俺は反射的に口走ってしまったが、俺をその名で呼ぶのはひとりしかいない。
「あんたは……」
俺が老婆に尋ねようとした――次の瞬間、突如ふたつのまったく同じ叫び声が上がった。
「「あぶないしゃめ!」」
その声以外ほとんど音は聞こえなかった。
エンジン音も排気音もタイヤの音も風切り音も。
俺が気づいたときには大型トレーラーが迫っていた。
でも考えてみればそうだ。
この世界線のレインボーブリッジは崩落していない。どころか修復されたために今も現役で車が高速道路を猛スピードで走っているのだ。
しかしトレーラーが走行しているのは右車線であり、俺やカメシマがいるのは左車線だった。
一瞬、博士を轢き殺そうとしたシロヤギがフラッシュバックするが大型トレーラーの運転席には誰も乗っていなかった。自動運転である。
俺がこのとき、自動運転だと思って油断したことは否めない。
右車線の大型トレーラーの前にアブラゼミを追うカモメが飛び出した――その次の瞬間、大型トレーラーの衝突回避センサーが働いた。大型トレーラーは左車線にハンドルを切る。
そしてなんと俺たちのいる車線に突っ込んできたではないか。
これはもしかしたら人間が運転していたら防げた事故なのかもしれない。
でも、この事故以上の恩恵を人民は受けているので受け入れるべきなのだろう。
俺も当事者じゃなかったらきっとそう思ったはずだ。
「――ッ!」
大型トレーラーとカメシマ3000が激突した。
カメシマの触覚サイドミラーが折れて、ヒレが吹っ飛ぶ。ガラスの甲羅が木っ端微塵に砕け散った。さらにそれだけではない。大型トレーラーは欄干壁を突き破り、大破したカメシマごと俺たちは東京湾に投げ出されてしまった。
衝突の直前、俺の前に白い影がエアバッグとなったが運命はたいして変わらない。
俺は自由落下しながら空を見上げる。セミがどこかに飛んでいった。カモメから逃げ切れたようだ。その際に俺は顔面におしっこをひっかけられた。
まったく踏んだり蹴ったりだぜ。
トレーラーの頭だけが高速道路から顔を出してぶら下がっていた。
皮肉なものだ。
レインボーブリッジが修復されたおかげで着陸できたが、そのせいで交通事故にも遭ってしまった。
そこでふと俺は思い出した。
桜の木の下で拾った死海手紙に書かれていた日付と座標を。
死海手紙が予言していたのはこのことだったのか。
気づいたと同時に俺は東京湾に落ちた。
つめたっ。
落水した衝撃で肺の中の酸素ぜんぶ出ちまったぞ、おい。
どうすんだ、俺?
まず息ができない。
目も開けられない。
カナヅチとか関係なく、これは死ぬ。
トレーラーに撥ねられたあとに吊り橋から海にヂャボンだぞ?
これじゃ何のために未来に帰ってきたのかわからねーじゃねえか。
死ぬためにってか?
ふざけんな!
こういうときって目を開けていいものかどうかもわからん。
フィクションじゃ海に落ちたとき普通に目を開けている気がする。
でも海水が目に染みないのだろうか?
ダメだ。
もう思考する脳の酸素もなくなってきた。
自分が目を開けているのか閉じているのかもわからない。
そういえば前にもこんなことあったな。
子供の頃、溺れて俺は泳げなくなったんだ。
あのとき、俺は目を開けていなかったか?
たしかそこで目撃したんだ、白い天使を。
そして、その天使が俺を助けてくれたんだ。
「ガボコッ!」
俺は正真正銘、最後の一息を吐き出した。
深海1万メートルのような真っ暗闇。
そのなかで俺は一筋の光を見た気がした。
それはまるで蜘蛛の糸のようで、絞首台の縄のようでもあった。
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