第26話 最後の夜

 8月31日。

 夕飯のあと俺はばっちゃんに腕を引かれて連行された。

 そこは寝室だった。

 照明は豆電球のみである。


「ねえイエモリ、一緒に寝らん?」

「なんでだよ」

「寝るまででよかけん」


 俺は逡巡する。

 しかし、ばっちゃんの頼みを断れるわけがなかった。


「……わかったよ」


 俺は布団の隣の畳に寝そべる。

 ばっちゃんと一緒に寝るなんていつぶりだろう。

 たしか蚊帳を張らないと眠れない体質なんだったっけ。未来じゃ蚊なんてほとんどいないのに毎夜張っていた。ある種の結界だったのかもしれない。

 俺はその結界の内部にいる。


「お姫様ベッドみたくてかわいかやろ」

「天蓋じゃなくて蚊帳だけどな」

「それは言わん約束とよ」


 それから唐突にばっちゃんは切り出した。


「ねえイエモリ、この飛鳥神社ば出て行くと?」

「えっ……?」


 俺は咄嗟のことに返答に窮してしまう。


「答えんでよか。そうやろうと思ったっちゃん」


 なんだかなぁ。

 やっぱりばっちゃんに隠し事なんざできねえか。

 するとばっちゃんはこちらに寝返りを打ちながらこんなことを言う。


「そんならさ、ひとつだけお願いしてよか?」

「なんだよ?」

「うちと付き合って――とか言わんけんさ」

「なんだ、びっくりさせんなよ」


 心臓が口から飛び出るかと思ったぜ。


「そんかし、思い出ばちょうだいよ」

「思い出?」


 ばっちゃんは唇を噛みしめてから静かに口を開く。


「キスしてほしかぁ」

「バカ言うな!」

「静かにせんね。誰かに聞かれるよ?」

「うるせえよ……!」


 いくらおばあちゃんっ子といってもさすがに少女時代のばっちゃんと接吻するわけにはいかない。

 ……って、なんだ、この文章は。

 もはや意味がわからない。

 ばっちゃん、まだ小五だよな。

 やっぱり女の子はませてるんだな。

 我がばっちゃんながらちょっと心配になるぜ。

 なぜ俺がばっちゃんの将来を心配しなきゃいけないんだ。

 普通、逆だろ。


「なんで……俺なんだよ」

「初恋やけん」


 まさかばっちゃんの初恋がまごだったとは……。


「うちのこと三日三晩寝ずに看病してくれたとやろ」

「そんなの当たりめえだろ」


 家族なんだから。

 俺が複雑な思いによって黙っていると、ばっちゃんは叱るように言う。


「けつの穴のちいさか男やね」

「悪かったな」

「じゃあもうよかけん、代わりにあんたの時間ばくれん?」

「時間?」

「懐中時計もっとったやろ。あれ、くれん?」

「でも、これは……」


 一時的にばっちゃんから預かってるものだ。

 しかし目の前にいるのはまさしく俺のばっちゃんである。


「これ、壊れてるぞ。時計の針も動かねえし」

「別によかよ。やけん、うちと付き合うか懐中時計ば渡すか、ふたつにひとつ選びんしゃい」


 実質選択肢はひとつしかなかった。

 ばっちゃんの気持ちに応える代わりに俺は金色の懐中時計を渡す。


「よかと?」

「ああ」


 信じられねえと思うが、それはあんたのものなんだぜ。


「そいじゃあ、今度イエモリに逢ったときに返すけん」

「ああ」


 逢うのはあんたの息子の妻が子供を産んだときだけどな。

 さらにいえば返すのはあんたの葬式だぜ。


「あれ? この懐中時計の針、動いとるとばってん」

「え? そんなわけ……」


 俺がばっちゃんの手に収まっている懐中時計をのぞき込むと、たしかに秒針がくるくると回っていた。まさか止まっていたばっちゃんの時間がまた動き出したとでもいうのだろうか。

 70年の時を超えて。

 ばっちゃんは竜頭を巻いてうっとりと懐中時計を眺める。

 そして問いかける。


「ねえイエモリ、この世でいっちゃん尊いことってなんやと思う?」

「平和な未来とか?」

「月並みやね」

「うるせえよ。ならなんだってんだ?」

「うちは家族仲の良かことだと思うと。家族仲が良かったらすべての問題は解決するんじゃなかろうかって思うとよ」

「大きく出たな」

「ばってん、いじめとかの犯罪者の多くは家庭環境が悪かやん?」

「でも家庭環境が悪くてもいい奴はいるし、家庭環境がいくら良くても悪い奴もいるぜ? だからけっきょく俺は手前次第だと思うけどな」

「それは幸せな家庭出身者の発想やね」

「俺は父親と揉めて勘当されてるけどな」

「そっか。ごめんっちゃ」

「気にすんな」


 最終的に家を出て行くって決めたのは俺だしな。


「それに一口に家族っていっても千差万別だし、元を辿れば人類みな家族だ」

「うん。そんなら、なしてこがん苦しかと?」


 11歳の少女には重いほどの悲痛な叫びだった。


「うちは幸せな家族がほしかぁ」

「作れるだろ。ヒバカリちゃんなら、絶対に」


 そうでなければ俺はここにはいない。


「ありがとう。うちに子供ができたらヤモリって名前つけるけん」

「……それはやめてくれ」

「なして?」

「だって」


 そうなると俺の父親の名前がヤモリになっちまう。

 じゃあ俺の名前は何になるってんだ?

 ヤモリジュニアか?


「わかったっちゃん。孫につけさすけん。男の子だったら」


 冗談っぽくばっちゃんは言った。

 ん?

 ってことは……。


 俺の名付け親はばっちゃんであり、俺自身だったってわけかい?


 マッチポンプというか、うまく言葉にできねえけどなんか嬉しくねえや。

 気づけば、ばっちゃんは懐中時計を胸に抱きながら催眠術にかかるように眠ってしまった。

 寝息を立てるばっちゃんを起こさないように俺はゴロゴロと横転して蚊帳の外に這い出る。

 最後に改めてその寝顔を見た。

 それは葬式のときに見たものと同様に穏やかなものだった。

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