金の斧

ゴカンジョ

善人お断り

 初めての店に入るのには、ちょっと勇気がいる。まして、その扉にこんなことが書いてあったなら。


「善人お断り」


 くすんだ青緑のスチールドアに張り出された注意書きからは、客に独自ルールを強制する面倒な飲食店とはまた違う、「やっかいな思想」が感じられる。錆びの浮かんだ扉には張り紙と、鋳物の数字を直接ドアに溶接した「301」という部屋番号以外、表札も店の看板も出ていなかった。インターホンもなかった。この店のオーナーに「客を歓迎しよう」という気は全くないようだ。


 繁華街から外れた、日中でも陽の差さぬ狭い路地裏にある、古びた雑居ビル。その三階に、祖母に教わった雑貨店「金の斧」はあった。雑貨店と言いながら、店に来る客はオーナーの人相占いを目当てにした、バブル時代から付き合いのある資産家ばかりだという。店の情報はネット上に一切掲載しておらず、ホームページやSNSアカウントがないのはもちろん、検索プラットフォームの地図機能やデータベース系の大規模クチコミサイトにもなかった。真偽は不明だが、いわゆる「ダークウェブ」にも情報がないらしい。そんな店のある路地裏なのだから、防犯カメラも当然設置していないだろう。こんなところで暴漢にでも襲われでもしたら、事件は解決することなく迷宮入りするに違いない。


 僕はドアをノックしてみる。「ゴンゴン」という鈍い音が、薄暗い廊下に不気味に響いた。しばらく待ってもドアは閉まったままだった。休業日ではないはずだが、室内から物音は一切聞こえない。それどころかこのビル全体に、人の気配が感じられない。まるで廃墟にでも迷いこんだみたいだ。


(今日はやめとこうか)


 僕は思わず逡巡したが、すぐに祖母の言葉を思い出す。


 私の遺産が欲しいと、本当に欲しいと思うのなら、「金の斧」という店に行ってみなさい――。


 この店のオーナーに、遺産を相続するにふさわしい人間だと認められたら、僕は十億円を優に超えるという祖母の莫大な遺産を手にすることができるのだ。祖母はまだ健在だったが、本人はすでに死期が近いことを悟っているらしい。最近は遺産をどうすべきかの話をよくしていた。しかしいったいなぜ、無関係な人間に相続人として認めてもらう必要があるのか。その理由を祖母は言わなかった。


(ともかくここで尻込みしてられるか)


 僕はドアノブに手を伸ばしゆっくり引いてみる。カギはかかっておらず、少しだけドアが開いた。僕は深く息を吐いてから、えいやと店に入った。


「いらっしゃい」


 グレースーツを着て白髪を丁寧な七三に整えた老年男性が、正面奥のカウンターに座ったまま不機嫌そうなだみ声を出した。シャードーストライプの入った艶のあるスーツは見るからに高級で、白ワイシャツに小紋タイを合わせた姿は、気品漂う英国紳士のようにも思える。


 が、眉をひそめ睨みつけるように僕を凝視するシワだらけの表情は、紳士的どころかあきらかに敵対的だった。店内には僕と彼の二人しかいない。おそらく彼が店主なのだろう。僕は緊張を隠せないまま、震えた声で「あの、僕は――」と話しかける。


「中村さんとこのお孫さんだろ。二番目の、大学生の」


 店主は苛立たしそうに僕の言葉を遮った。そして続けざまに「あんたには無理だね。帰りな」と吐き捨てた。店主はこれ以上の会話は無駄だとでもいうように、カウンターに置いていた紙たばこに手を伸ばすと、僕から顔をそむけるようにして火をつける。


「いやちょっと待ってください! まだ用件も伝えてないのにそんないきなり――」


「あんたからは欲望が見えない」


「はい?」


「あんたからは、欲望が、見えない」


 店主はそっぽを向いたまま、出来の悪い子供に言い聞かせるかのような口調で、同じセリフを繰り返した。


「欲望って……。いやそんなの、僕だって当然いろいろありますし――」


「中村さんの遺産を相続するだけの器量がないって言ってるんだよ」


 店主は苛立たし気に火をつけたばかりのたばこを灰皿に押し付け凄んだ。初対面だというのにいきなりけんか腰で、おまけに器量がないとまで言われたものだから、さすがに僕も腹が立った。それまで入り口付近でずっと立ち止まっていた僕は、足早に店主のいるカウンター前まで近づく。


「人相占いがお得意だそうですが、一瞬顔を見ただけで、器量がないだのなんだの言われ『はいそうですか』と引き下がるほど、僕もお人よしではありません」


 どうにかして今日ここで、相続人として認めてもらわなければ。一昨年に両親が交通事故で亡くなって以来、祖母の遺産を相続できる親族は、兄・僕・妹の三人だけ。祖母は僕らの内一人に、遺産のすべてを譲ると明言していた。そしてこの店の情報を知っているのは、現時点で僕だけだ。


「条件があるなら教えてください。祖母からは、あなたに認めてもらえれば相続人になれると聞いています」


 僕はカウンターにバンっと両手をつき、店主と顔を突き合わせる。すると店主はうんざりしたようなため息をつきながら、「金の斧と銀の斧の昔話、知ってるだろ」と言ってきた。


「……? 童話の、正直者は報われるっていう――」


「今、あんたの目の前には、遺産という名の『金の斧』がある」


 店主は再びカウンターの紙たばこに手を伸ばしながら続けた。


「それはもう莫大な価値のあるお宝だ。文字通り、くらいのな」


 そう言ってからたばこに火をつけた店主は、ゆっくり煙を吸い込むと、鼻から煙を出しながら僕の目をまっすぐ見てこう言った。


「その『金の斧』を手にするためなら、あんたは人を殺せるか?」


 予想していなかった展開に、僕は思わず面食らう。いや、鼻白んだといった方が正確か。「人間の本性」だのなんだのといった、バカバカしいほど陳腐な話になりそうだ。


「いや、いくら何でも話を単純化しすぎていませんか? そりゃ確かに、殺人の動機になりうる大金です。でもあまりにも話が極端で――」


「帰りな善人さん。あんたに『金の斧』を手にする器量はないよ」


 店主は嘲るように話を切り上げようとする。僕は再び「ちょっ、ちょっと待ってください!」と声を上げる。


「人を殺す覚悟があれば相続人として認めるってことですか? そんなのいくらなんでもバカげてる!」


「馬鹿げてなんかいない。あんた、単純すぎるっていったな? そうだよ、あきれるほど単純だ。一線を越えた金持ちの欲望っていうのはな。深い思慮なんざありゃしない。誰よりも金を稼ぐというシンプルな欲望。単純だからこそ、その欲望はゆるぎなく、強固だ。莫大な財を築くためなら、他人を容赦なくひねりつぶす。どんな嘘でも平気で吐くし、友人を裏切ることに良心の呵責を感じることもない。誰かの人生を台無しにして、絶望した相手が首をくくることになっても、たいして気にはしない。相手どころか、『自分の人生』ってやつすら、実はろくに考えちゃいない。ただひたすらに、使いきれぬ金を稼ぐことだけを考えている。金がすべてだ。と言っていい。だからこそ、金のためなら『馬鹿正直な善人』が躊躇する悪事でも、平気で踏み越える。その結果、人死にが出るとわかっていてもな。うちの客は、代々の土地持ちから一代の成金まで、ともかくけた外れの金持ちばかりだが、全員もれなく金の依存症だ」


 よどみなく「金持ちが金持ちである理由」を語る店主は、僕の目をじっと見たまま続ける。


「帰りな。あんたは『金の斧』が目の前に出されても、馬鹿正直に普通の斧を選ぶ『善人』だよ。普通の社会なら、それは美徳になるだろう。だが中村さんの遺産を相続するとなれば話は別だ。『金の斧』を手にするには、あきれるほどの野心、強い欲望が必要だ。泉の女神に平気で嘘を吐き、必要とあらば泉の女神を殺してでも宝を自分のものにしようと突き動かす欲望がな。あんたは、女神の前で小さな嘘くらいは吐けるかもしれん。例えば、私の前で『宝を手に入れるためなら人を殺せる』なんて啖呵を切るとかな。だが、所詮は口だけだ。あんたにそれ以上のことは到底できない。『善人』の面構えをしているからな。小金持ちレベルの器量だよ。そんなあんたが宝を手に入れたって、ほかの金依存症どもの食い物になるだけだ」


 どうやらこれが最後通告らしい。店主は短くなったたばこを手に取ると、僕から視線を外して険しい顔で煙を吸い込み、それからため息でもつくみたいに煙を吐き出した。僕はもちろん言い返したいことが山ほどあったが、これ以上店主と実りある会話ができるとも思えない。


「……今日のところは、帰ります」


 僕は儀礼的に頭を下げてから踵を返す。すると、僕がドアの手をかけ外に出ようとしたときに、店主がボソッと呟いた。


「一応、あんたの無事を願っとくよ。あんたの兄妹も、あんたと同じく『善人』であることをな」


 相変わらずひと気の感じられない路地裏に出た僕は、「金の斧」が入る雑居ビルの入り口付近で一人、これからどうすべきか思案した。


 あの爺さんに相続人として認めてもらうにはどうすればいいか。いや、それ以外の方法はないのか。そうなると、やはり祖母だろう。そもそもあんな偏屈な爺さんの許可が必要なんて話がおかしいのだ。人相占いだかなんだか知らないが、なぜ得体のしれない胡散臭い爺さんに認めてもらう必要があるのだ。祖母が僕に遺産を相続させると明言すれば、それで事足りるのだ。


 まあ確かに、と僕は思う。確かに、あの爺さんの言い分に興味深い点はあった。金の依存症。依存症だから、平気で一線を越えられる。金持ちといえど、自分で金を刷ることはできない。流通している金を、誰かから、必要以上に奪い取らなければ、莫大な資産は手に入らないだろう。金の依存症。人死にが出てもかまいはしない。あの爺さんの客は全員そうだという。ふと僕は思う。


 祖母もそうなのだろうか?


 ともかく祖母に会いに行こう。僕は顔を上げ駅に向かおうとする。と、突然背後から人が駆け寄ってくる音が聞こえた。僕は何事かと振り返る。


「え?」


 上下黒のジャージに黒のスニーカー、黒い目出し帽を被った何者かが、ラグビーのタックルでもするような低い姿勢で僕に勢いよく向かってきていた。その両手に、鋭利なナイフなしっかりと握りしめながら――。 (了)



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

金の斧 ゴカンジョ @katai_unko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

参加中のコンテスト・自主企画