第2話

 一時間眠っては覚醒し、また一時間眠っては目が覚め――茅が断続的な睡眠を繰り返していると、居間の方から物音がした。東が出勤の準備をしているのだろう。そう思うと、このまま布団の中で寝返りを打ち続ける気にはなれなかった。茅は鉛のような体を無理矢理起こして、這いずるように布団から出る。

 おぼつかない足取りで居間へと向かえば、東が制服に着替えている最中であった。引き戸の隙間から顔を覗かせる茅に気づき、東は少しだけ目を見開く。それから東は小さく笑って、「おはよう」と言った。


「おはよう」

「何だ、今日は随分と早く起きたんだな」

「うん……それにしても、こうして見るとお巡りさんみたいだね」

「みたい、じゃなくて、本当にそうなんだって」


 東は苦笑しながらも旭日章の付いた紺色の上着に袖を通す。茅には制服を着た友人が別人のように思えて仕方がなかった。東との時間は、彼と一度離れた高校生の頃でずっと止まっている。目の前に東がいるにもかかわらず彼の顔を思い浮かべると、今の姿ではなく高校生の頃の姿を思い出してしまう。あの頃からすでに十年以上も経っているというのに。


「何か食べるか?」

「……ううん。食欲ないから」

「そうか。まあ無理にとは言わないが、今日は市役所に行かなきゃいけないんだろ。何も食べずに行くとぶっ倒れるぞ」

「あっ、そうか。今日、面談の日だった」

「何だ、それで早起きしたんじゃなかったのか」

「東くんが準備してる音が聞こえたから、たまには見送ろうと思って……」


 茅が口をもごもごさせながらそう言うと、突然東に頭をわしわしと撫でられる。長い前髪越しに見る東の顔は、どこか満足げであった。


「起こして悪かった」

「いや……僕が勝手に起きただけだし」

「昨日は眠れたのか?」

「……うん、まあ」

「そうか。面談、送ってやれなくて悪いな。今日は千鶴ちづるさんの所にも寄るつもりなんだろ」

「うん。冬用のアウターとかブランケットとか持っていかないと。来週からもっと冷え込むみたいだし」

「面談は行ってやれないけど、千鶴さんの所に荷物を持っていくくらいなら俺がやるよ」

「いいよ。直接会って渡したいから。祖母ばあちゃんの加減も気になるし」


 茅は小さく笑ってみせたが、実際のところ全身が気怠くて、とてもではないが出かけられるような気分ではなかった。けれども、そのような素振りを東に見せるわけにはいかない。辛いと言えば、東は酷く心配するだろう。それが茅にとっては、何よりも堪えるのである。


「水屋にレトルトのお粥とかスープとか置いといたから、食べられそうなら食べとけよ」


 黒のウインドブレーカーを着込んだ東が、飾り気のないリュックを背負う。


「うん。ありがとう」

「帰りはいつもどおり明日の朝になるから、何かあったら連絡してくれ。できるだけ携帯は確認するようにしておくから」

「大丈夫だよ。こっちのことより、仕事の方を頑張って」

「ん。まあ、ぼちぼち頑張ってくるよ。じゃあ、行ってくる」


 茅は東の後を追うようにして玄関に向かった。玄関扉の曇りガラスから朝の光が降り注ぐ。東が引き戸を開けると、冷たい空気が茅の頬を突き刺した。しばらく家の中に引きこもっているうちに、秋はすっかり過ぎ去ってしまったようだった。


「いってらっしゃい」

「うん。いってきます」


 茅が手を振ると、東も小さく手を振り返す。東の背中が薄灰色の外に消えてもなお、茅は玄関に立ち尽くしていた。車からエンジン音が鳴り、やがてそれは遠くに去っていく。

 東がいなくなった途端、茅の体は機能を停止したように動かなくなった。茅は時折考える。人は他人ひとがいるから、人間でいられるのだと。

 茅が人に留まっていられるのは、ひとえに東が傍にいるからである。茅には身寄りがいない。友人と呼べる存在も東一人である。もし東がいなければ、一年前に死んでいただろう。それが幸せなことなのか、不幸せなことなのか、今の茅にはよく分からなかったが。


 茅は重い体を引きずるようにして居間へと戻った。時計の針は午前八時を指し示している。午前中には面談のために職場へ赴かなければならなかった。その後は介護施設に入居している祖母のもとを訪ねなければならない。

 茅は居間のソファに寝転がってぼんやりと周囲を眺める。東にはああ言われたものの、食事を口にする気にはなれなかった。もう随分とまともに食事をしていない。食べたいという感情が湧いてこないのである。それでも食べなければ東に心配されてしまうので、お粥やスープを無理矢理胃に流し込んでいる。そのときは決まって胃がむかむかして吐き気もするが、心配されるよりはずっと良かった。


 ふと時計を見れば、すでに三十分が経とうとしていた。茅はずるずると起き上がり、洗面所に向かう。鏡の前には青白い顔をした不気味な男が立っていた。

 前髪が濡れるのも気にせず顔を洗う。水は痛いほど冷たいはずなのに、ずっと浴びられるような気もした。髪も袖もびしゃびしゃに濡らしたまま、タオルを手に取り乱雑に顔を拭く。

 茅はもう一度鏡の中の自分を見つめた。空っぽの表情をした自分が立っている。果たしてこうなる前、自分はどのような顔をして生きていたのだろうか。茅には最早それが分からなかった。


 ズボンのポケットが震える感覚がして、茅はポケットからスマートフォンを取り出した。画面には上司である仁科にしなからのメッセージが表示されている。


「おはようございます。今日の面談は来られそうですか?」


 その文面に茅は深いため息をついた。一年前に休職して以降、茅は一ヶ月に一度、面談という名目で職場から呼出を受けていた。正直なところ、精神を病むきっかけになった一つでもある職場に行きたくはない。

 とはいえ、行かないという選択肢はなかった。ただでさえ、急に仕事を休んだことで周囲に迷惑をかけている。そのうえ面談まで断るなんてことはできない。いや、もとより仕事なんてできていなかった。志しの高い職員でもなかったのだから、欠けたところで誰にも何とも思われていないかもしれない。このままいっそ仕事を辞めた方が周りのためになるのではないか。自分なんていなければ——。


 スマートフォンが再び震える。「体調が悪ければ今度でも大丈夫ですから無理しないでね」と、仁科からのメッセージが届いていた。茅はあの眼鏡をかけた温和で小柄な女性を思い出す。母が生きていれば、ちょうど彼女と同じくらいの年齢だっただろう。

 茅の指は無意識に「大丈夫です」とメッセージを打ち返していた。何も大丈夫ではないが、これ以上誰にも迷惑をかけたくない。ただその一心だった。

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怪物パラノイア 田中瞳子 @tanaka_11035

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