光と影(五)

 藪に隠された、市街地を隔てる壁の抜け穴を潜る。

 旧市街の石畳の街路は血に汚れ、王宮から離れた住宅街にも死体が転がっていた。中には鎧をつけておらず、豪奢な服に身を包んだ恰幅のいい男の死体もあった。


(貴族も皆殺しにするつもりなのか……)


 オルオーレンは胃のあたりに不快感を感じながら、魔術師街と呼ばれる区域へと急いだ。剣戟けんげきの響きと魔法の気配は遠い。戦場はいまや王宮周辺に集中しているようだ。

 閑散としていたはずの魔術師街にも火の手は回っていた。さらに道の真ん中で、ローブを纏った魔法使いらしき男が胸から血を流して絶命していた。


(……この国に残っていた魔法使いは皆、国王の愚臣扱いということか)


 火を避け、血濡れた道を駆け抜け、外観の荒れた大きな邸宅の裏に回る。裏口のドアノブを回せば、鍵は開いていた。


「レスター!」


 オルオーレンのよく通る声がひと気のない邸宅にこだました。

 返事はない。

 すでに逃げた後なのか、それとも。


 一瞬、このまま引き返すという選択肢が浮かぶ。しかし、オルオーレンはリビングへと繋がる廊下を進んだ。

 そっと押し開けたドアの軋む音が、無音のリビングに反響する。


「レスター?」


 最後の希望を口にしながら、見つけたくないものを探す。床には何も無かった。野草の欠片も毛布も蝋燭も、誰かが生活していた気配すら。

 立ち尽くすオルオーレンがため息をついたその時、微かな衣擦れの音が耳朶に触れた。


「オル先生……?」


 大きな本棚の陰から覗いたのは、薄暗い部屋の中でもはっきりとわかる赤い髪と青い瞳だった。恐怖で満たされていた目に、みるみるうちに涙が溜まっていく。

 飛び出したレスターは顔をくしゃくしゃに歪めてオルオーレンに抱きついた。


「先生っ……先生……!!」

「レスター、無事かい!? よかった……」

「俺、薬屋で雇ってもらえることになったんです。それで夜遅くまで薬草の勉強をしてたら、朝、外の騒ぎで目が覚めて……近くで、悲鳴が……」


 必死で説明するレスターの体はガタガタと音がしそうなほどに震えていた。


「そうか……すごいじゃないか。頑張っていたんだね」


 嗚咽を上げる背中を筋張った手が優しく撫でる。レスターが泣き止んだところで、オルオーレンは落ち着いた声音で諭すように語りかけた。


「王都を出よう。この家にも火の手が回るかもしれない。とにかく今の王都はきみには危険すぎる」


 レスターは頷くと、抱えていたリュックサックを背中に担いだ。そしてオルオーレンが見守る中、家族との思い出が詰まった生家に無言で別れを告げた。




◇◇◇




 二人が王都から離れた丘に辿り着いた時には、既に日が暮れていた。

 難を逃れた民が別の街へ向かうために列を成しているのが見える。その一方で、王都の外の草原には焚き火の灯りもちらほらと灯っていた。


「レスター、大丈夫かい?」

「はい……まさか城壁から飛び降りることになるとは思いませんでしたけど……」

「ははは、びっくりさせてごめんね」


 抜け道を使って旧市街から脱出した後、オルオーレンはレスターと共に城壁の監視塔を駆け上がった。そしてレスターの体を抱え上げ、城壁の外へと飛び降りたのだ。

 王都の混乱に負けないほどの悲鳴が響き渡ったのは言うまでもない。


「オル先生こそ、着地した時に怪我はなかったんですか?」

「ん? なんともないよ」


 レスターは何食わぬ顔で夕食の準備を始める青年を呆然と見つめた。二週間共に過ごして随分と知り合った気になっていたが、パンやら毛布やらがポンポン出てくる巾着袋といい、肩に乗った鳴かない白猫といい、この旅人にはあまりにも謎が多い。


「オル先生は何者なんですか……?」

「花を集めているだけの、ただの旅人だよ」


 オルオーレンはそう言って、チーズを乗せた一切れのパンを差し出した。小さな焚き火の暖色の光が白い髪と片眼鏡モノクルに反射している。

 朝から何も食べていなかったレスターは礼を言って素直にパンを受け取った。齧るたびに目頭が熱くなる。


 変わり果てた故郷の姿。家に戻ることはもうないのだろう。夜の帳が下りた王都の空は、未だに炎で赤く照らされていた。


「城が燃えているんでしょうか」

「多分ね」

「……国はどうなってしまうんでしょうか」

「さあねぇ。ただ、ずっと王政を敷いてきた国をがらりと変えようとしているんだから、それなりの痛みは伴うだろうね」

「もう、魔法使いの国ではなくなってしまうのでしょうか」

「そうだね……魔法使いの高い地位は、魔法使いでもあった王家が築いたものなんだろう? 当然、今まで通りとはいかないだろうね」


 オルオーレンはパンを齧りながら、この国を回って見聞きしたことを思い返した。魔法の研究で名を馳せたこの国も、貧富の差、特に王都と農村の暮らしの差は激しかった。魔法の恩恵を受けているのは王都や大都市などの一部だけで、農村部では魔法使いの話題を聞くことすらほとんどなかった。

 光と影のコントラストの強さが、今こうして白い花を掲げた国を焼いている。強すぎる光も時に植物を枯らすことをオルオーレンは思い出した。




「さて、これからどうしようね」


 夕食を終えてオルオーレンが話を切り出すと、お茶を飲んでいたレスターは表情を曇らせてうつむいた。その頃には王都から漏れる喧騒も静かになり、虫の合唱がまるで今日の出来事が夢だと言わんばかりののどかさを醸し出していた。


「この国に頼れる人はいないんだっけ?」

「……叔父がいましたけど、他国に亡命するという手紙を祖父母が受け取ったきりです。連絡先もわかりません」

「どこの国に行ったかはわかる?」

「いえ、わからないです。ただ、叔父も魔法使いなのでこの周辺の国だとは思います。おそらく、魔法四大国のどれかじゃないかと」


 魔法使いが多く住む北西諸国の中でも特に有名な四つの国が魔法四大国と呼ばれている。このカサンブール王国もそのうちの一つだが、それも過去の栄光となってしまうかもしれない。


「魔法四大国で一番近いのはトルステラ王国かな」

「そうですね……」


 レスターの声が尻すぼみになるのも無理はなかった。彼は魔法使いの素質があるとはいえ、身を守るような魔法は使えない。魔法を習い始めたところで国王の圧政が始まり、魔法学校も事実上の廃校となってしまったのだ。

 丸腰の子供が一人で国外に出ることは、凶暴な魔獣モンスターが比較的少ないこの地域でも自殺行為に近い。他国に移住するために国境壁の関所へ向かう集団もあるようなので、混ぜてもらうことができればどこかの国に辿り着けるだろうか。

 それでも、叔父に再会できる見込みは全くない。結局はひとりぼっちで家もない。この先の不安が重くのしかかり、うつむくレスターのこうべが下がっていく。

 重苦しい沈黙を破ったのは、オルオーレンだった。


「行ってみようか、一緒に」


「えっ……」


 顔を上げたレスターを、焚き火の灯りを反射した橄欖石ペリドットの瞳が見つめていた。


「いいんですか……?」

「ちょうどこの国を回り終わって、次の国へ向かうところだったんだ」

「あ……ありがとうございます……!」


 レスターは勢いよく頭を下げたが、そのままなかなか顔を上げようとしなかった。肩が震えているのは独りではない安堵からなのか、故郷を離れる寂しさからなのか。オルオーレンは長いこと旅をしながら人間を見てきたが、涙というものは未だによくわからない物の一つだった。


 人間らしく笑うことはできても、泣き方はわからない。


 オルオーレンは黒で満たされた空を見上げた。月のない闇の中に無数の光の粒が帯を成していた。

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