8 魔法使いが消えた国 ― カサンブール王国

光と影(一)

 煉瓦れんが色の美しい王都に足を踏み入れたオルオーレンが真っ先に感じたのは、どこかひりついた不穏な空気だった。

 緑かかった白い髪に若草色の目、そして背中に担いだ大きな本。他の国では好奇の目で見られがちな風貌の旅人だが、すれ違う人々は皆一様にオルオーレンと目を合わせようとしない。余計なものに触れてはいけない――そんな暗黙の了解が、足早に行き交う人々の丸めた背中に垣間見える。


「うーん、もしかしてよろしくないタイミングで来ちゃったかなぁ」


 オルオーレンは独り言をこぼしつつ、ひとまず王都を散策することにした。




 この世界で最も広大な大陸・リザレー大陸の北西部は、住みやすい環境ゆえに早くから文明が発展した地だ。そして魔法という奇跡の技を使役できる人間――すなわち魔法使いが多く暮らしている地域でもある。

 もしも大陸の南東部を中心に広く信仰されているセレヴィス教の宣教師が北西諸国を訪れたら、きっと仰天するだろう。彼らは魔法を悪魔の力とみなすからだ。しかし、城壁で国土を囲った外にはドラゴンや魔獣モンスターが生息しているこの世界で、魔法を使えない宣教師が北西の果てに辿り着くことはないに等しい。

 逆にいえば、魔獣に対抗できる力を持つ魔法使いたちが暮らすこの地方だけは、国家間の人の往来が盛んである。

 中でもこのカサンブール王国は強大な王の権力の下、魔法の研究が盛んに行われてきた国の一つであった――はずなのだが。


(魔法使いらしき人が全然いない……)


 貴族階級である魔法使いはステータスとして家紋が入った裾の長いローブを好んで身につけるという話だが、そのような格好は全く見かけない。

 それどころか、オルオーレンは王都の新市街を一時間ほど歩いただけで憲兵に五回も職務質問され、その度に入国証明書と使を確認された。


 ここは本当に歴史ある魔法使いの国だろうか。


(魔法使いの邸宅は旧市街に集中しているのか……。庶民が暮らす新市街には足を運ばないのかな)


 地図を開きながら、オルオーレンは市街地を隔てる高い壁沿いを歩く。やがて旧市街に続く門の前に辿り着いた。

 黒鉄の門の向こうには、王宮前広場まで続く大通りが真っ直ぐに伸びている。しかし高級店が並ぶその通りさえ閑散としているのが遠目にも見て取れた。


 門の両脇に立つ憲兵の怪訝な視線に気付かぬふりをして、オルオーレンは門の上を見上げた。


 そこはカサンブール王国の国旗が掲げられていた。深い青の布地に、王家を象徴する純白の花が強いコントラストで描かれている。反り返った大きな六枚の花弁を広げ、長い花蕊かずい(雄しべと雌しべの総称)を力強く伸ばした、気品溢れる大輪の白いリリウム――セントリリウムの花が、曇天の下でも眩い輝きを放っていた。



◇◇◇



 旧市街に続く門を後にして、オルオーレンは宿を探すことにした。どのみち寝泊まりする場所は必要だし、宿の中であれば憲兵がうろつく街中では聞けない話にもありつけるだろうと考えたのだ。


 新市街の裏通りを歩いていたオルオーレンが、宿の看板を探すために上を向いた時だった。汚れたフードを被った子供が突然、背後からかするようにぶつかった。


「おっと」


 走り去ろうとした子供の腕を、オルオーレンの手がすかさず掴んだ。


「なっ……なんだよ! 離せ!」

「僕のコートのポケットからったものを返してください」


 ぎくりと身を強張らせた少年はオルオーレンの手を振り解いて逃げようとする。しかし、細い腕を掴む大きな手はびくともしなかった。


「返してくれれば見逃しますから」

「そんなの嘘だ! どうせ憲兵に突き出すくせに!」

「きみが奪ったのはシシカブトから抽出した毒液です。触れるだけで死にますよ」

「えぇっ!?」


 動揺した少年が紫色の液体が入った小瓶を慌てて放り投げる。オルオーレンは少年の腕を掴んだ手とは反対の手で小瓶を的確にキャッチした。


「おっとっと。猛毒なんですから優しく扱ってください」

「な、なんでそんなものが……」

「僕は旅人ですから自衛くらいしますよ。反対のポケットに入っていたネムリカノコの液ならいい夢が見られたのに、残念でしたね」


 少年はあんぐりと口を開け、二の句が継げないようだった。オルオーレンは何食わぬ顔で劇薬の入った小瓶をポケットに仕舞う。


「ところできみは、なぜスリを?」


 少年の目元はフードで見えないが、カサカサに荒れた唇を噛むのが見えた。


「だって……そうでもしなきゃ、食べるものがないから……」

「……そうですか」


 オルオーレンはうつむく少年から目を逸らし、辺りを見回してため息をついた。

 新市街を散策した時から気がついてはいたのだ。いくらここが庶民の暮らす地区とはいえ、魔法で栄えた王国の都とは思えないほど荒れている。スラム街でもないのに路上で浮浪者が寝転んでいて、ゴミも散乱している。それなのに憲兵たちは我関せずといった態度だ。

 光と影はどの国にもある。しかしこの国の光は一体どこにあるのだろうか。


「……本当に、憲兵に突き出さない……んですか?」


 沈黙に耐えかねた少年が恐る恐る顔を上げた。スリらしい粗雑な雰囲気は影を潜め、説教に怯えて縮こまる子供の姿がそこにあった。


「きみはぶつかった時に僕のポケットから落ちた薬を拾って返してくれました。それがなにか?」


 しれっと答えた旅人に、少年はまたも開いた口が塞がらない。

 何食わぬ顔をしていたオルオーレンだったが、ふと少年の白く痩せこけた頬に気づくと、目を逸らすように背を向けた。


「それじゃ、僕はこれで」

「あっ、待って!」


 少年は咄嗟にオルオーレンの袖を掴み、ごくりと固唾を飲んで慎重に口を開いた。


「あなたは薬師なんですか?」

「いいえ? 僕は花を集めているだけの旅人です」

「花……? あの、詳しいんですか? その辺に生えてる草とかキノコとか……」

「ええ、それなりには」


 すると少年は突然、縋るようにオルオーレンの両腕を掴んだ。その拍子に被っていたフードがはらりと剥がれる。


「お願いです! 俺に食べられる野草を教えてください! 草でもキノコでも、木の皮でもいいから……!」


 必死に訴える少年の赤い髪はボサボサで伸びきっている。しかしその前髪から覗く瞳は、空のような澄んだ青色をしていた。

 オルオーレンは返答に窮した。困っている人を助けるのは難しいことではない。しかしそれは気まぐれに手を差し伸べた一回に限った話だ。旅人であるオルオーレンが面倒を見続けることはできないし、それにきっと彼のような子は他にもいるのだろう。


 ――お前は無責任に人間に関わりすぎなんだよ。


 元々は黒いリリウムの花であった兄の、蔑むような赤紫の目が脳裏を掠める。


 オルオーレンはそっと少年の肩に手を置き、痩せた体を引き離した。少年は答えを悟ったのか、絶望に打ちひしがれた青い目はまるで色を失ったようだった。


「……水はありますか?」

「えっ?」


 一転、目をぱちくりさせる少年を、憂いを帯びた若草色の瞳が見つめていた。


「み、水ならなんとか」

「では、今夜はこのパンを水と一緒によく噛んでゆっくりと食べてください」


 オルオーレンは肩に掛けた革製の巾着袋から、硬く黒いパンを一切れ取り出した。少年は戸惑いがちにそれを受け取った。


「あ、ありがとう……」


 オルオーレンはそのまま何も言わずに少年に背を向け、その場を離れた。赤毛の少年はパンを大事そうに持ったまま、旅人の背中を見えなくなるまでじっと見つめていた。

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