野生児と三角模様の黒豹(三)

 いつの間にか、キキは黒豹の子供たちと団子のように丸まって眠ってしまった。

 自分は豹たちの一員なのだと言わんばかりの寝姿に、リリウムは複雑な心境を隠せない。


 何をもって、人間というのか。


 彼を人間と言い張るのなら、自分だって同じじゃないのか。


(俺は人間じゃない)


 かつて自分を――同胞たちをもてあそんだ挙句滅ぼした人間などと一緒にされたくない。

 今は仕事のために人間の姿をしているだけ。ただそれだけだ。


 しかし、枯れて命尽きるはずだった自分を救ってくれたのも、人間だった。


『やっぱり、リリウムは人の姿になっても綺麗だね』


 そう言って、黒い髪を撫でてくれた先生。



 岩の上に座ってキキの寝顔を見つめながら、リリウムはそんなことをぐるぐると考えていた。

 そこに狩りを終えてきたらしい黒真珠豹ブラックパール・パンサーのトライがやってきて、前脚を舐めながら訊ねた。


「ところで、お前は何をしにジャングルに来たのだ? 確か植物採集をしているとか言っていたな?」

「ああ……そうだった。あんた、イリューリアという花を知らないか?」

「知っている」


 トライのあっさりとした回答に、リリウムは目を丸くして飛びついた。


「本当か!? どこにある?」

「どこと言われても、目印がないな……。イリューリアが咲くのは夜だ。夜になったら案内してやろう」

「あ、ああ……」


 大きな目をぱちくりさせるリリウムを、トライが訝しげに睨む。


「なんだ、案内はいらないのか?」

「いや、すげぇ助かるけど……礼は? 大したもん持ってねぇぞ」

「礼などいらん」

「はあ……」


(変な黒豹……。こんなに人間臭い野生動物見たことねぇ。むしろ人間通り越して仏じゃねぇか?)


 毛繕いを再開し、気持ちよさそうに目を細めるトライを、今度はリリウムが半眼で見つめるのだった。



◇◇◇



 ねっとりとした闇が絡みつく、ジャングルの夜。


 イリューリアの花へと向かうリリウムとトライに、当然キキもついてきた。夜の散策に興味津々らしく、トライの背に乗って揺られながら、辺りをキョロキョロ見回している。


 夜になってもジャングルに静寂は訪れない。夜行性の鳥の鳴き声、虫の羽音、肉食動物の気配。しかし黒豹のトライは堂々と密林を分け入っていく。おそらくこの周辺では彼が最も大型の肉食獣であり、彼を襲うものはいないのだろう。

 さしずめジャングルの王とでもいうべきか。それだけの貫禄を、この黒豹は持っている。


 ランタンを携えたリリウムが、トライとキキの後ろを歩くこと三十分。突然、トライが立ち止まり、前足で前方を指した。


「この先だ。少し窪んだ辺りに咲いている」

「ああ、わかった。……?」


 お座り状態のトライと、その背中にピッタリとくっついているキキ。キキが先程まで見せていた好奇の目は鳴りを潜め、なんとも言えない複雑な表情をしている。


「お前らは行かないのか?」

「ああ、お前一人で行ってくるといい」

「お、おう……?」


 仕方なくリリウムはランタンで周辺を照らしながら歩みを進める。

 そしてその花は、すぐに見つかった。


「お、これだ。噂に違わずでけぇな……って、くさ!! くっさぁぁぁぁぁ!!!」


 リリウムの絶叫が、月夜のジャングルにこだまする。


 当然、知識としては知っていた。

 イリューリア――熱帯雨林に分布する世界最大の花で、茎も葉も、根すら持たない完全寄生植物。肉厚で、白い斑点のある赤い花弁が特徴。開花すると独特の臭気を放ち虫を集める、と。

 名前の意味は『夢現ゆめうつつ』。花が咲く期間が非常に短く、見つけにくいことからそんな花言葉がついたらしいが――この匂いは軽く意識が飛びそうだ。由来、そっちじゃないのか。


「ハア!? ちょっ、こんなに臭いとか聞いてねぇ……! おいお前ら、だましたな!!」


「騙してない」

「なましてない」


 先ほどから一歩も動かぬ位置で、前脚で器用に鼻を押さえるトライと指でしっかり鼻を摘むキキが、わめくリリウムを見つめていた。





「死ぬかと思った……」


 イリューリアの花を背負っていた本になんとか収め、リリウムはぐったりと項垂れた。


「どうやったらその本にあの花が収まるのだ? 匂いもしないぞ」


 地面の上に置かれたハードカバーの本を、トライが鼻をくんくんと動かして嗅ぐ。キキも不思議そうに指でつついている。本にしては大きいとはいえ、イリューリアの花の大きさとその厚みがなかったことのように綴じられるのは、誰がどう見ても奇怪だった。


「俺が作った本じゃねぇから仕組みは知らん」


 リリウムはこめかみを押さえながら投げやりに答える。強烈な腐敗臭が鼻の奥に残っている気がした。



 無事に採集を終えたリリウムたちは、黒豹の巣穴へと帰路を辿る。夜も更け、キキはトライの背中で眠ってしまった。それでも落下せずに背中で揺られているのは、トライもキキも慣れているからだろう。

 それだけの時間をこの一人と一匹が共に過ごしてきたということは、今日出会ったばかりのリリウムですら感じ取れた。


「……キキを人間の村に返さないのか?」


 後ろを歩くリリウムが訊ねる。


「返そうとしたんだが、キキが嫌だと言った。私と一緒にジャングルで暮らしたいと」

「おい、それでいいのか? 今は子供だからいいかもしれないが、将来、後悔するかもしれないぜ」

「かもしれない、を並べても仕方のないことだ。困ったらその時考えればいい」


 リリウムは感嘆を通り越して唖然とする。呆れて物も言えなかった。


(なんつう達観した豹だ……。人間はよくわからんが、豹もさっぱりだ)



 時折り、鬱蒼とした木々の隙間から月の光が降り注ぐ。発光するように艶めくトライの黒い毛皮は、まさに黒真珠豹という名に相応しい。月光を浴びるその姿は神々しくさえある。ただの動物を超えた、なにか別の生き物のような――。


「……なあ、あんたが人語を喋れるの、人と暮らしてたからって理由じゃ説明がつかねぇよな」

「そうだな」

「あんた……魔獣モンスター化してんじゃねぇの?」


 落ち葉を踏みしめていたトライの足が、ピタリと止まる。


 この世界で最も謎とされるもの――それは魔獣と呼ばれる、魔力を持つ猛獣たちの生態である。中には一般的な動物と大差なく、群れを作り繁殖するものもいる。しかしドラゴンや龍亀ロングイといった大型の魔獣であればあるほど、どのように繁殖し生息しているのか謎に包まれている。脆弱な人間では調査もままならないのだ。

 長く生き、太陽と月の光を浴び続け、魔力を蓄積した動物が魔獣と化す――そんな仮説を、リリウムは書物で読んだことがあった。


「……さあな、私も知らん」

「おい、知らんて……」


 リリウムは呆れて肩をすくめたが、トライは気にすることはないと言わんばかりにフンと鼻を鳴らした。


「なあに、私になにかあった時はこの子がなんとかしてくれるさ」


 そう言ってトライはキキが落ちないよう、再びゆっくりと歩き出すのだった。




◇◇◇



 リリウムが持ち帰ったイリューリアの花は、先生の植物庫の中で最も大きなガラスケースに収められている。今のところ、イリューリアを超える大きさの花は見つかっていない。

 ガラスケースから匂いが漏れることはない。しかし花を復元する際、作業担当であるヒマリが顔をくしゃくしゃにしていたのを、リリウムは入り口からこっそり見ていた。そして後でくどくどと小言を言われた。


 たまに植物庫をふらりと散策する度に、リリウムはじめじめと蒸し暑かったジャングルに思いを馳せる。

 あの少年は大人になっただろうか。

 人間の集落に戻ったのか、それとも今も黒豹の巣穴で暮らしているのか。

 あの口の達者な黒豹はどうしているだろう。


 自分は今も、花だろうか。


「……くだらねぇ」


 ボソリと呟いて、リリウムは禍々しい巨大な花に背を向けた。

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