野生児と三角模様の黒豹(二)

「はあ、はあ……」


 数分後、走り疲れたリリウムは太い木の幹に手をついて項垂れた。

 そのそばでは息一つ乱さずケロッとしている少年・キキが、ばてているリリウムの様子を不思議そうに観察していた。


(なんなんだコイツ……もしかして新種の猿なんじゃねぇのか?)


 肩で息をしながら、リリウムは腰布一枚の野生児を半眼で睨む。

 そして長いため息をつき、腕を組んでキキに向き合った。


「あのなあ、俺は仕事しにきてんだ。邪魔すんな」

「シゴト?」

「そうだ、俺は花を探しにきてんの」

「花? 花、いっぱいある」

「いや、どれでもいいってわけじゃなくて――」


 そこまで言って、リリウムはふと閃いた。

 この少年が迷子かどうかはわからない。しかしこの辺りで生活しているなら、目当ての花を知っているのではないか。


「……お前、イリューリアの花を知ってるか?」


 キキが眉を寄せて首を傾げる。知らないらしい。


「だよなあ……」


 一縷の望みがあっさりとついえて、リリウムはがっくりと肩を落とした。


 さて、どうしたものか。


 その時、リリウムは背後に迫る獣の気配に気がついた。しまった、と慌てて振り返りながら、オリハルコンのナイフをポケットから取り出す。

 生身の人間の体は、堅牢な壁で囲まれた人間の領域テリトリーの外ではあまりに脆弱だ。リリウムにとって、先生から渡されたナイフと毒草の抽出液だけが己を守る牙だった。

 しかも運が悪いことに、今は人間の子供まで一緒にいる――が、そこでふと思い至る。


(コイツをおとりにすれば逃げられるんじゃ……?)


 身に迫る危険に気づかずにきょとんとしている少年を、リリウムはちらりと見遣る。


 大嫌いな、人間。


(人間の子供が猛獣に食い殺されようと、知ったことか)


 弱肉強食は自然の摂理だ。こんな密林で迷子になる方が悪いのだ。

 リリウムは頭ではそう思いながら、キキを置いて逃げる覚悟がなかなか決まらなかった。キキは相変わらず、無垢な目をこちらに向けている。


 そうこうしているうちに、落ち葉を踏む音が迫る。

 もう逃げきれないと悟ったリリウムが正面を睨み、ナイフを構えた。――と、その時。キキの花が咲いたような明るい声が、リリウムの後頭部を直撃した。


「トライ!」


「……は?」


 唖然とするリリウムの横をキキが駆け抜ける。そしてあろうことか、目の前に現れた立派な黒豹くろひょうに抱きついた。

 額に逆三角形の白い模様ををもつ黒豹は、じゃれつくキキを鼻で押し上げる。そして金色の目をリリウムに向けて、口を開いた。


「キキ、勝手に川の方へ行くなと言っただろう。……して、この人間は誰だ?」


「……は?」


 確かに聞こえた低く渋い声。リリウムの手からナイフがぽろりと滑り落ちる。

 そして黒豹の上に少年が跨るという異様な光景をぽかんと見つめながら、わなわなと唇を震わせた。


「な……なんで黒豹が喋ってんだ……!?」




◇◇◇




「ここが我々の寝床だ」


 トライと呼ばれた黒豹と少年キキに案内されたのは、黒豹の巣だった。巣の外でじゃれあっていた三匹の子豹たちとその母親と思しき豹が、リリウムという珍客の訪問に動きを止める。しかしトライがゴロゴロと喉を鳴らし仲間と身体を擦り合わせると、子豹たちは警戒心を解いたのか再びじゃれあい始めた。その輪にキキも入って一緒に遊んでいる。


黒真珠豹ブラックパール・パンサーのオスは子育てしないんじゃなかったか……?」

「ほう、詳しいな。ちなみにこいつは私の妻ではなく娘だ。この子らは私の孫」

「は?」

「子育てというものは大変だからな。手伝っている」


 書物で読んだ豹の生態からかけ離れた暮らしぶりに、開いた口が塞がらなくなる。リリウムは酷い頭痛に頭を抱えた。


「つーかさ、あんたが人語を喋れる理由をまだ聞いてないんだが」

「ああ、そのことか。私はかつて人間に飼われていた。サーカスというやつでな、見せ物として芸をするのが仕事だった」


 随分と重たいことをさらりと言ってのけられ、リリウムは言葉に詰まる。

 黒真珠豹――その名の通り光沢のある黒い毛並みが美しい彼らは、毛皮が高値で取引されるという。


「……なんで人間に捕まったんだ」

「普通に狩人に狙われて、母親が撃たれて死んだ。まだ子供だった私はそのまま捕えられて売られた。それだけのことだ」


 普通に。それだけのこと。

 トライがなんの感慨もなく言葉を並べるのに対し、リリウムの胸の内には暗い感情が渦巻いていた。


「なんでそんなにけろっとしてるんだ……? 人間を、憎んでいないのか?」

「そうだな……母親が撃たれた時の記憶はおぼろげだからな。サーカス団での暮らしは、まあ悪くはなかった。狩りをしなくても食事は出たし、人間の営みを見るのは面白かった」


 リリウムには到底理解できない感想だった。それを察したのか、トライは話を続ける。


「私の世話役だった男が面白い奴でな。なぜか知らんが自分の寝床でなく私の檻の中で寝るんだ。しかも私にもたれかかってな。人間の頭は重くて敵わんが、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。その後サーカス団が解散することになって、男は私をわざわざ生まれ故郷に帰してくれた。戦う術などろくに持たない男が壁の外に出るなんて、無謀にも程があるがな……。無事に国に帰れたかどうかは知らん」


 宝石のような毛並みを持つ黒豹は遠くを見つめながら淡々と、しかしほんの少しの哀愁を漂わせて語る。

 リリウムは苦りきった表情で唇を噛んだ。


「……人間がそんなことするはずない」

「まあ、普通はそうだろうな。ただ、人間にも色々いるということだ」


 その言葉に、リリウムは自分の中で膨らんでいた黒い感情がほんの少しだけ萎むのを自覚する。

 脳裏をよぎるのは、先生の金色の髪。

 自分が唯一拒絶しない人間。器と居場所と仕事を与えてくれた人。


 トライは黙り込んだリリウムを黙って見つめていたが、やがてフンフンと鼻を鳴らした。


「……お前は妙な人間だな。人間の匂いがほとんどしない」

「俺は人間じゃねぇ」


 間髪入れず言い切ったリリウムに、トライは訝しげに首を傾げる。


「どう見ても人間だが」

「人間じゃねぇ、そういう器だってだけだ。植物採集するには人間の体の方が便利なんだよ。俺は元は花だ。魂を持った花だったってだけだ」

「……元は花でも、今は人間ではないのか?」

「違う! 俺は人間じゃねぇ!」


 カッと頭に血が昇ったリリウムが大声でがなりたてる。しかしトライは金色の瞳をまっすぐリリウムに向けたまま離さない。


「キキをどう思う?」


 藪から棒に訊かれ、トライを睨んでいたリリウムはキキへとためらいがちに目を遣る。キキはまだ黒豹の子供たちとじゃれあっていた。


「あの子は人間だと思うか?」

「はあ? 当たり前だろ、どう見ても人間だ」

「キキは赤ん坊の時にこのジャングルに捨てられていた。私が拾って育ててきたのだ。それ以来、キキは豹たちと一緒にずっとこの森で暮らしている。あの子は自分がニンゲンという種族だということは知っている。だが同時に、黒豹の子供たちと同じだとも思っている。人間の村に戻る気はなく、ずっとジャングルで暮らすつもりらしい。それでもあの子は人間か?」

「それは……」


 リリウムは言葉に詰まった。


 自分と何が違うというのだろう。


 ふと、弟の姿が脳裏をよぎった。

 緑かかった白い髪に若草色の瞳を持つ、いけ好かない優男。

 あいつは人間の国を旅しながら花を集めている。人語を話し、人間と関わり、人間の作った料理に舌鼓を打つ。時に人助けもするらしい。


 あいつだったら、トライの問いにどう答えるだろう。

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