I’m home.(二)
これは、夢だ。
そうわかっているのに、僕は起きることができない。
僕を見つめる嬉しそうな顔。
活気あふれる人の営み。走り回る子供の歓声。井戸端会議の嬉々とした会話。ジョウロから降り注ぐ水滴が、陽射しを受けてキラキラと輝いている。
――幸せだった。少なくとも、そう感じさせる景色だった。
やがて立ち込める、暗い雲。
狂い始めた人々の悲鳴や暴力。
罵声と共に僕は片っ端から引っこ抜かれ、焼かれていった。
その炎はやがて街を、国を包んでいく。
これは、僕が花だった頃の記憶。
正確に言えば、オルオーレンという
僕はオルオーレンという花の最後の一輪だった。
最後の一輪には魂が宿る――そんな
しかし魂が宿ったところでなんになるのだろう。
偶然生き残っただけの僕は種子を残すことも叶わず、孤独に枯れるのを待つ他なかった。
そのはずだった。
「きみは、最後の一輪なんだね」
突然降ってきた、慈愛に満ちた声。
僕を見下ろすそれは、まるで――。
◇◇◇
「……ル、オル」
あの時と同じ声が、僕を呼ぶ。
肩を揺すられて、僕はようやく古い夢から解放された。
うっすら開いた視界に、ぼんやりと金色の髪が映り込む。
まるで、太陽だ。
あの時もそう思った。
「先生……」
長いまつ毛に縁取られた紺碧の双眸が、心配そうに僕を見つめていた。
「大丈夫かい? うなされていたけれど、また花だった頃の夢を見たのかな?」
先生が首を傾げると、降り注ぐ陽射しのように真っ直ぐな金色の髪が流れた。
「最後に先生と会えましたから、そんなに悪いものじゃないですよ」
僕がそう言って笑うと、先生もふっと相好を崩した。
「そうかい……。ところでオル、肩がはだけているよ。直しなさい」
僕は起き上がって服の襟ぐりを引っ張り上げる。見上げれば天窓から濁りのない青空が覗いていた。
そして白いシーツに覆われた部屋を見回し、はたと視線を止める。
「先生、若干一名、全裸で転がっている奴がいますけど」
「リリウムのあれはいつものことだよ。なんで脱いじゃうんだろうね。あの子は両性花(※一つの花に雄しべと雌しべの両方が備わっている花)だから性別はどっちでもよかったんだけど、男にしておいてよかった気がするよ」
僕はつい納得しかけて、それから眉を寄せた。
「んん、上だけなら……? どちらにしても人前で全裸はアウトですよ」
「あの子が脱いじゃうのは寝てる時だけだし、人間の住む領域には近づかないから大した問題にはならないと思うけどね」
そんな僕らの会話なんて、本人には全く聞こえていないのだろう。まだ深い眠りの中にいる兄を残し、先生と僕は
◇◇◇
僕は顔を洗って着替えてから、先生の部屋に向かった。
一面ガラス張りのサンルームのような一画には、丈の低い草と色とりどりの小花が咲き乱れている。先生は座面の高い椅子の上で、柔らかな陽射しを受けながら分厚い本をめくっていた。
その神々しい姿は、女神と形容したくなる。
実際、先生は人類の中で最も神に近い存在だろう。天才的な学者であり、崇高な魔法使いである先生は、一見妙齢の女性ながら人間の寿命を遥かに超えて生きている。
僕の肩に乗っていた猫が飛び降りて、先生の膝の上に乗った。
「新しい体は問題なさそうだね」
「ええ。あの時はすみませんでした、体を作り直させてしまって」
「気にしなくていいよ。猫の方が無事で良かった。きみの
僕と同じ色の猫が先生を見上げて「にゃあ」と鳴いた。
厳密には猫ではない。ソルドール・キャット――遥か昔に【魂の器】として作り出された、猫に似た魔法生物。生成技術はすでに失われており、現在は復元に成功した先生しか作り出すことができない。
僕の魂は先生の膝の上にいるソルドール・キャットの中にある。だから猫が無事であれば、先生特製の人間の体は作り直せる。ただ、人間の体は構造が複雑で、ほいほい作れるものではないらしい。
今、僕の精神は人間の体にリンクされているので、ソルドール・キャットは普通の猫のように振る舞うだけだ。
「人間の肉体に直接魂を埋め込む技術がもう少しで確立できそうなんだけど、そういうことがあると
「人間の体に、ですか? ソルドール・キャット以外に魂を埋め込んだのは、マリーの鳥が初めてでしたよね?」
「そう、作った鳥でうまくいったからね、研究が進んだんだ。とは言ってもあと十年くらいはかかるかな。やっぱり人間の体は難しいね」
先生はそう言って、膝の上でゴロゴロと甘える猫を愛おしそうに撫でる。
まるで、母親が我が子にそうするように。
僕は、先生をなんと呼ぶべきなのか未だに釈然としない。
枯れゆくはずだった僕を花の化身として生かしてくれたのだから、僕にとっては神様のような存在だ。それに不老の術を操るということは神仙と同義である。
だけど神様嫌いの先生は、神様なんて呼ばれたくはないだろう。
『母』と呼んでもいいのかもしれないけれど、それはなんとなく嫌だった。親子という関係の間にある見えない壁に、僕は抵抗があるのだろう。
僕が先生に抱く感情は、きっと恋慕に近い。
学者なのだから『教授』や『博士』でもいいのかもしれないけれど、結局マリーが呼んでいた『先生』という呼び名に落ち着いている。
「オル、どうかしたかい?」
先生が僕の本体を愛でる様子をぼんやり見ていた僕は、ハッと我に返った。
「いえ……なんでも」
僕は首を横に振ったものの、僅かな思慮の後、意を決してもう一度口を開いた。
「先生に訊きたいことがあるんです」
「何かな?」
「僕は……何者なんでしょうか」
ずっと訊きたかったことだった。
先生は顔を上げ、微笑んだまま僕の目をじっと見る。続きを待っているようだ。
「どんな器に入っても僕が花であることに変わりはないと、かつてはそう思っていました。だけど今は、人間の姿で旅をしている。人の言葉を発し、人と同じものを食べ、人として振る舞っている……。それでも、人ではないと言えるのでしょうか」
きっとリリウムはこんなことで悩んだりしないだろう。彼は根っからの人間嫌いで、同胞を滅ぼした人間を憎んでいる。彼は人間の体という器を、花を集めるための手段としか捉えていない。
でも、僕はどうだろう。
僕は決して人間が嫌いなわけではない。むしろ、どこか愛おしさすら感じる。それが純粋な愛情なのか、オルオーレンという花が持つ後ろめたさなのか、正直なところよくわからない。
かつてオルオーレンの花が咲き誇っていたあの国は、オルオーレンの花のせいで滅んだ。
「自分が何者か、か……。それはとても人間らしい悩みだね」
いつの間にか俯いていた僕が顔を上げると、先生は椅子の肘置きで頬杖をついて、どこか満足そうな笑みを浮かべうんうんと頷いた。
「オル、その答えは私が出していいのかい? 私は一つの解答を提示することはできる。でも、きみはそれでいいのかい?」
「…………」
問い返された僕は目をぱちくりさせ、それから必死で回答を探す。
先生はふふっと笑った。
「そうだな……それは先生からの宿題にしよう。旅を続けて、世界中の花を集め終わった時に、答えを聞かせておくれ」
「……わかりました」
訊いたのは僕の方なんだけどなぁ。
困った先生だと思いながら、僕もつい、ふふっと笑ってしまった。
「オル、帰って来たくなったらいつでも帰っておいで。旅は帰る場所があるから楽しいんだよ」
「……はい」
紺碧の双眸が細められ、金色の髪が揺れる。僕は先生の笑顔が好きだ。まるで陽だまりの中にいるようで、世界の中心はここなのだと根拠もなく信じられる。
先生の膝の上の猫が「にゃーん」と長く鳴いた。きっと僕の魂も、この温もりを感じているのだろう。
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