605号室の妖精

戸成よう子

第1話

 bar 青は、浩平が生まれて初めて常連になった店だ。そして、初めてバーテンダー見習いとして雇われた店でもある。元常連が、どうしてバイトの身になったかというと、それは浩平の学生という身分のせいだ。経済的にバーに通い詰めるなどということは厳しく、とはいえどうしても夜ごとこの店を訪れたかったので、どうしたらいいか、とマスターに相談したところ、じゃあここで働けば、という返事だったのだ。

 翌日から、浩平はbar 青の店員になった。無論、バーテンダーとしての仕事などできず、できることといえば店内の雑務くらいだ。それでも、しっかりやってくれればそれなりに給料を出す、というマスターの言葉を当てにして、せいぜい仕事に精を出すことにした。

 酒飲みなのに、バーでの仕事が務まるのか、という周囲の疑問の声もなくはなかった。しかし、そもそも浩平は大酒飲みというわけではなかった。好きは好きだが、一定量以上飲むことはあまりない。むしろ、バーの雰囲気に惹かれて入り浸っていたクチだ。

 bar 青は表通りにあるわけでもなく、グルメサイトで星を多くつけられているわけでもない。つまりは一見の客が押し掛けて来るような店ではないのだ。いつも程々に空いていて、常連の客で賑わう時もあれば、そうでない時もある。そういった、いい具合に寛げる場所なのだ。

 その夜も、宵の口はかなり暇で、そのうち常連やそうでない客がちらほらやって来て店の雰囲気が盛り上がりだした。浩平はグラスを洗ったり、テーブル客の接客をしたりしながら、その会話に加わっていた。誰かが、最近インテリアに凝ってるんだと話し始め、そこからこの店の内装に話が飛び、あれやこれやと軽口が行き交っているところだった。

「窓辺が寂しいよなぁ。駅前の店なんて、この季節はどこもクリスマスの飾りつけだぜ。ラッカーでサンタの絵を描いたりしてさ」

 そう言う石川を、マスターの青本幸也が睨む。「いやいや、似合わんでしょう、うちには」

 ちなみに、店名がマスターの苗字から取られていることは言うまでもない。

「そうですかねぇ。だとしても、もっとこう、女性を呼び込む努力というものを」

「餅屋君、女性、女性ってね、君はそればっかりじゃないの」

 石川は四十代、餅屋は三十代の男性客で、おそらくどちらも独身だ。

 まあ、女性はこんな裏通りの店にはなかなか来ないよな、とグラスを拭きながら浩平は考えた。

 その時だ。ドアが開いて、客が店内に入って来た。

 いらっしゃいませ、とマスターが声をかける。そちらを振り向いた常連二人が、おおっ、と小さく声を上げた。というのも、その客がまったくの新規とおぼしい、女性の一人客だったからだ。

 常連二人がそちらを見ないように努めながら、気配に神経を尖らせていると、女性はその雰囲気を感じ取ったのか、周囲を見回した末に彼らのいるカウンター席へ近づいた。

「ここ、いいですか」

 マスターも浩平も、愛想よく頷いた。「どうそ。おかけください」

 女性はお辞儀してスツールに座り、スクリュー・ドライバーを頼んだ。

 その間も、常連の二人はやや声を落として会話の続きをしてたが、少し離れたところに座った女性客を意識しているのは明らかだった。

「はい、スクリュー・ドライバー」

 女性は飲み物を受け取ると、ちらっと横のおじさんたちに視線を送った。

 年齢は三十歳近くだろうか。長い髪とくっきりした目鼻立ちの顔。会社勤めの帰りとおぼしいモノトーンのスーツに身を包み、クールな雰囲気を漂わせているが、同時にどこか人好きのする雰囲気も兼ね備えている。彼女はやや声を張り上げて、こう言った。

「わたし、この辺りに来るの初めてなんですよね」

 へえ、遠くに住んでるの? と尋ねるマスターに、

「いいえ。引っ越してきたばっかりで。だから、こうして行きつけの店を開拓してるんですよ」

 それを聞いた常連二人が、この話題に飛びつかないはずがなかった。石川も餅屋も我先にとマスターと女性客の間に割って入り、この店はやめといたほうがいいよ、と言い立てた。

「えっ、そうなんですか?」と、女性はにやにやしている。

「何しろ、駅から遠いし」

「そうですよ。バーテンダーは素人だし」

 それ僕のことですよね、と浩平は控えめに口を挟んだ。

「今も、内装が地味すぎる、って話してたんです。女性目線ではどうです、この店?」

「うーん、さすがに地味じゃないとは言えないですね」と、女性は笑った。「嘘です。素敵だと思いますよ。でも、窓辺はちょっと寂しいかな」

 ほらね、とそれを聞いた石川が囃し立てた。「季節のイベントとも無縁だし。卓上クリスマス・ツリーすらないんですよ」

「何ですか、卓上クリスマス・ツリーって」と、マスターが苦笑いする。「うちは置かないですよ、そんなもの」

 石川が苦笑いしながら、「季節のイベントねえ。クリスマスのほかには何があるんでしょうね、今って」

「さあ。ブラック・フライデー、とか?」

 それへ女性が、「煤払い、とか」

 煤払い? 大掃除のことか? 変わったことを言う人だ、と浩平は感想を抱いた。

「冬は少ないですよね、イベントは。夏なら――」

 何か言いかけた餅屋を、マスターが止める。「ちょっとちょっと、餅屋さん」新規客の前では控えろ、という意味だろう。

 女性も、餅屋が何か言いかけたことに気づいていたようだが、無理に聞き出そうとはしなかった。

 その日は、一時間ほど会話して帰った彼女だが、その二日後にも現れた。どうやら、ここを”開拓”するのに相応しい店だと見做したらしい。

 名前は、一之江舞耶。年齢は秘密だそうだ。

 舞耶は、まいや、と読むのだという。それを聞いた時、マスターはふと思い出した、と言いたげにあることを口にした。

「そういえば、同じ名前のマンションがあるんですよ」

「同じ名前のマンション?」

 目を丸くする彼女へ、マスターは続けた。「うん。米谷、と書くんだけどね。米谷で、まいや、と読むんです」

「それどこです? 聞いたことがないな」石川が首を傾げながら尋ねる。

 近隣に住む彼でも知らないということは、かなりマイナーな地名か、もしくは地名ではないのだろう。

 と思っていると、マスターが説明した。

「ええと、西南町のほうですよ。あそこは昔、米谷という土地だったんです。合併だか何だかで、今じゃ地名そのものがなくなっちゃったらしいんですけどね」

「でも、マンション名は残ってるんですね」

「そういうこと」

「それ、聞いたことがありますよ」餅屋が口を開いた。「確かここで――」

 マスターがやんわりと目配せを送ったので、彼は口を閉ざした。

「ああ、ごめん。気のせいでした」

 何ですかそれ、と笑いながらも、舞耶の目は訝るような光をたたえていた。



 数日後、舞耶は来店するとカウンターに座り、たまたま他の常連がいなかったせいか、マスターと浩平を相手に自分について語りだした。

 舞耶は大学で日本文化学を学び、今はとある繊維メーカーで紋様の研究をしているのだという。へえ、じゃあ伝統文化に詳しいんですね、と言いながら、浩平は内心で、ああ、それで、と思い当たった。

 マスターもそのことを思い出したらしい。「それで、季節のイベントの話で煤払いと答えてたんですね」

「そうなんです」と、舞耶は肩をすくめる。「実は神道にも少し関心があって。この季節といえば煤払いかなぁ、と。煤払いって、大掃除のことだと思われがちだけど、それだけじゃなくて、神社によっては立派な行事なんですよ。一年の間に積もった埃を払うと同時に、鬼や邪も払う、という意味合いがあるんです」

 マスターはそれを聞くと大きく頷いた。

「ああ、それ。似たようなのが、わたしの生まれ故郷にもありましたよ。笹で壁や天井を掃いて、お清めをする儀式でしたっけね」

「そうです。やり方は違えど、各地にあるんですよ」

 マスターは浩平を振り向くと説明口調で言った。「新年に向けてあちこち掃除しながら、お清めもして、年末に盛大に大祓をする、ということさ。煤払いはいわゆる大掃除の原型と言われるんだ」

「なんだ、マスターも詳しいんですね」

「いや、これは年の功だよ」

 などと和やかに話をしていたのだが、そこへ舞耶がふっと真顔を作りこう言った。

「ところで、この前言ってた、わたしと同じ名前のマンション、なんですけど」マスターと浩平の表情を覗き見るようにしながら、「なぜか、その話が気になって。もっと詳しく教えてくれませんか?」

「詳しい話、といっても――」マスターははぐらかそうとしたようだが、それは失敗した。

「誤魔化さないでくださいよ。あの時、餅屋さんがそのことを言いかけたのに、止めたじゃないですか。何か、訳があるんでしょう」

 意外な押しの強さでそう言われ、マスターは両手を上げた。

「わかった。わかりましたよ。いや、別に隠そうとしたわけじゃない。あまり馴染みのないお客さんには、ちょっときついかな、と思っただけで」

 そう言って、浩平のほうを見やり、「浩平君はこの話、知ってたっけ?」

「この話、って米谷っていうマンションの話ですか?」

「そう」

 その話は知らなかったので、浩平はそう答えた。

 すると、マスターは舞耶に向き直り、肩をすくめた。「じゃあ、二人に話すことにするよ。――その前に」

 と、言葉を切る。

「舞耶さん。うちね、ちょっと変わったバーなんですよ」

「変わった?」

「うん。ま、変わってる、ってほどじゃないかもしれないけど。あのね、ある趣味を持つお客が集まる店なんです」

「ある趣味、って何ですか? ワクワクしちゃう」口調はふざけているが、舞耶の表情は真剣だ。「教えてください、マスター」

「うちはね、怪談好きが集まるお店なんですよ」

 舞耶がぽかんと口を開けたので、マスターは首を振った。「やれやれ。こういうことになると思ったんだ。呆れたでしょ?」

 舞耶は口を閉じた。

「そんなことないです。ただ、ちょっと吃驚したから」そうして、何か思い当たったような顔をした。「それで、夏がどうの、って話してたんですね。夏といえば怪談、って言いかけてたんだ」

 そう、ここの常連はほとんどが―― 石川や餅屋を含め、重度の怪談好きだ。彼らは皆、何か面白い話はないか、と聞き耳を立てにこの店を訪れる。まあ、ここ最近は誰も新手の怪談を持ち込んでいないようだが。

 浩平自身、実を言うとかなりのホラー・マニアで、ここの雰囲気の良さ以上に、怪談話が目当てで通い詰めていたのだ。

「舞耶さんは、怪談は?」洋酒はイケるクチ? と聞くような調子で、マスターが尋ねる。

「ホラー映画は好きですよ。ゾンビものとかだったら、大好物。でも、怪談はあまり馴染みがないかな」

 じゃ、免疫はありそうだな、という意味だろう。マスターがこちらに目線を送った。

 舞耶が苦笑する。「わたしが怖気づく、と思ったんですか? よしてくださいよ。こちとら、裏通りで行きつけを開拓する女ですよ。まあまあ肝が据わってるんですから」

 それを聞いたマスターが笑みを浮かべた。

「いらぬ心配だったみたいですね。――じゃあ、お話ししましょう。ハイツ米谷で起きた出来事について」

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2024年12月27日 19:00

605号室の妖精 戸成よう子 @tonari0303

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