1・1 婚約破棄は突然に

「すまない! 婚約破棄させてもらう!」

 そう叫んでセストは勢いよく頭を下げた。ゴンッと床にぶつかった音がする。

 相当に痛そうな音だったけど、彼は土下座の姿勢をくずさない。


「ちょっと待って。来るなりそんなことを言われても、なにがなんだかわからないわ。とりあえず椅子にすわって」


 私は無理やり婚約者を立たせると椅子にすわらせて、自分は向かいに腰かけた。そのついでに控えている執事のアダルベルトを見ると、鉄仮面の彼が戸惑いの表情を浮かべていた。

 ということは、彼にとっても寝耳に水の話なのだ。


 うなだれているセストに気づかれないように、こっそりとため息をつく。婚約をして丸十年。挙式まであと半年というこの時期に、どうしてこんなことになっているのだろう。親が決めた縁組とはいえ、私たちは幼馴染で結婚に不満を持ったことはなかった。それとも、そう思っていたのは、私だけなの?


 三ヵ月ぶりに会えると喜んでいたのも?

 前回会ったときは、とても楽しい時間を過ごせたのに……。


 セストは久しぶりにオレフィーノ家にやって来たかと思うと、応接室に入るなり土下座して叫んだ。まったく意味がわからない。


「セスト。ちゃんとわかるように説明をして」

「ああ……」

 彼が顔を上げる。思いつめたような表情だ。

「実は、うちの財政が厳しい」

「うち? デマルコ伯爵家がということ?」

「そうだ。半年前に、おじい様が膨大な借金を残していたことが発覚してね」


 セストによると、おじい様であるデマルコ伯爵が亡くなった直後に、彼がとある新規事業に巨額な出資金を出していたことがわかったそうだ。しかもその事業は失敗していた。後を継いだお父様が奮闘したらしいけれど、出資金はまったく返って来なかったという。


「ミレーナのところも大変だろう? だから言えなかったんだ」と、申し訳なさそうなセスト。

 彼の言うとおり、うちもお父様が病に倒れたのを機に、財政状態が悪くなっている。都にあった別邸や、先祖伝来の家具や美術品すべては売り払った。それでも状況はあまり変わっていない。

 セストが私に隠していたのは当然ね。


「貧乏な家同士だから、結婚を取りやめるということ? でもそれなら、お互いに協力しあえばいいと思うの」

 セストが首を横に振る。

「違うんだ。僕は来週、新しい婚約をすることになった」

「すでに私と婚約しているのに?」

 うなずくセスト。

「どうやら相手のお嬢さんが、僕にひとめぼれしたらしい」

「なるほどね」


 セストは美男子だ。整った造作の顔は華やかな雰囲気があり、とても快活そうに見える。さらにはお日様の光を浴びて煌めく豪華な金髪と、夏の青空を切り取ったかのような青い瞳。ふた月前に都で見た氷結王子ことランベルト騎士団長様も美しかったけれど、彼とは系統が違う。


 だからセストは普段からあまたの女の子を魅了してきた。でも私という婚約者がいたから、すべて断っていたはずなのだけど――。


「とんでもなく魅力的な話でね」とセスト。「デマルコ家が失った出資金と同額の持参金を持ってくるというんだ」

「それは、すごいわね」

「知っているかな、豪商のザネッラ商会」

「急成長している業者ね」


 一般市民が起こした商会なのだけど、今の会長がかなりのやり手らしい。その売り上げは国内でもトップレベルに入るとか、叙爵されることを目指しているとか、そんな噂を聞いている。


「確かに私との結婚よりも魅力的ね」

 悲しいけれど。

 それに、私の結婚式には参列したいと言って、病と戦っているお父様にも、申し訳ない。

 しかも破談になれば、私はもう結婚できないだろう。当主が病床にあり、財政難の家と縁を結びたいなんていう酔狂な人がいるはずがない。 


 でも、こればかりは仕方ないわね。お金がないことがどれほど大変か、私もよくわかっているもの。


「いいわ。納得した。お父様には私から説明しておくわね」

「本当にすまない!」

 がばりと頭を下げるセスト。

「失礼します」と、アダルベルトが進み出てきた。「慰謝料はいかほどに」


 ああ、確かに。説明は受けたとはいえ、彼からの一方的な婚約破棄であることには変わりない。しかも来週新しい婚約をするだなんて、あまりに私に失礼だ。通常ならば、慰謝料が払われる事案だろう。だけどセストは、


「すまないが、払えない」と言った。

「どうしてですか」と無表情のまま詰め寄るアダルベルト。

「デマルコ家は本当に金銭の余裕がない」とセスト。「ナタリア――僕の新しい婚約者のことだ――の持参金は、彼女の許可がなければデマルコの人間は使えないことになっている。そして彼女は、僕がほかの女にお金を使うのは嫌だと言っている」

「人の婚約者を奪うのにですか?」


 セストは情けない顔をして、私に

「ごめんよ」と言った。

 でも情けない気持ちなのは、私のほうだ。仲の良かった婚約者を奪われ、謝罪の気持ちすら表せてもらえないなんて。


「わかりました。貴族調停庁に申し立てしましょう」とアダルベルトが言う。

 とたんにセストが青ざめた。

 貴族調停庁はその名前のとおり、貴族の揉めごとや事件の間に入ってくれる、簡易裁判所だ。


 この件を申し立てれば恐らくはセスト側が負け、婚約破棄の取り消しか、相応の慰謝料支払いを命じられるだろう。ちなみに調停庁の決定にそむけば、最悪、降爵になることもある。


「いやいや、待ってくれ! 僕だって払いたい気持ちはあるんだよ」

「ならば、お支払いください」とアダルベルト。「僭越ながら、ご家族とよく話し合うことをお勧めいたします」

「ミレーナ! 君はそんな薄情なことは言わないよな!」

 セストがすがりつくような目で私を見る。

「薄情なのは目先の金に目がくらみ、長年の婚約者に慰謝料も払わずに切り捨てようとしているセスト様にございます」


 アダルベルトがそう言って、セストを睨んだ。


「オレフィーノ家の現状では、ミレーナ様は次の婚約を結ぶことはできないでしょう。それぐらい、おわかりのはずですよね?」

 



 結局セストはアダルベルトの迫力に負けて、婚約解消用の書類だけ置いて帰って行った。私がサインをして役所に提出しなければ、婚約は継続のままだ。


 テーブルの上に残されたそれを、手に取る。破談の理由も、慰謝料についての言及も記されていない。彼に誠意がないのは明らかだった。


「サインをしてはいけませんよ」とアダルベルト。

「でも、彼と結婚してもきっと幸せにはなれないわ。デマルコ家でもひどい扱いを受けるでしょう?」

「ザネッラ家から慰謝料をもらえばいいのです」

「国内でトップレベルの商会なのよ? 揉めて領内の物品の流通に影響が出たら困るわ」


 開け放たれた扉から、エマが心配そうに顔をだした。


「エマ。ペンを持ってきて」

「お嬢様!」

「名誉を守るためには、戦わなければいけないのだろうけど……」


 長年仲良くしてきたと思っていた幼馴染からぞんざいな扱いを受けたことが、思いの外ショックみたいだ。


「とてもそんな気持ちになれないの。もうセストの顔も見たくない気分だわ」

 エマが差し出したペンを受け取り、サインする。

「アダルベルト。これをデマルコ家に送ってね。私のことは、叔父様たちに頼めばなんとかしてくれるかもしれないし」


 二か月ほどまえに会った、母の妹夫妻の顔を覆い浮かべる。爵位こそは男爵だけれど、うちよりはずっと裕福そうだった。


 徒歩で教会にやって来た私にとても驚いて、オレフィーノ家の財政がそこまで逼迫していると知らなくて、すまなかったと言ってくれたのだ。そして困ったことがあれば、いくらでも力になるよ、と。


 申し訳ないけれど、少しだけ、頼らせてもらおう。 

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