第19話
屋根に吊された提灯が煌々と輝き、絢爛とした繁華街人で溢れ、洪水のよう。
赤煉瓦の並木道には出店が立ち並び、香具師が世話しなく声を上げ、大変繁盛している様子。
その夕方は、南都の至る所が豪華絢爛のお祭り騒ぎであった。
そんな普段と一風変った南都の繁華街に、年頃の男女が並んでいた。
片方は長身の坊主頭で隊服姿、もう片方は光背溢れん紅蓮の織り姫。
二人は逸れぬように緩く指を絡め、坊主頭が重ねられた指に顔を赤らめつつも率先して人の群れを掻き分けている。
世間一般で言う、
少女が蒼穹を輝かせながら出店の一つに指を差した。
「リンゴ飴だよ、百道さん!」
言うや否、「食べよう食べよう」と引っ張る。
「分かった、分かったから、ちょっと待ってくれ恋歌」
リンゴ飴に齧りついた少女が「美味しいね」と笑う。
同じくらい赤い唇が艶やかで、坊主頭は居たたまれなさに視線を泳がせた。
高潔な彼女にそんな劣情を向けてしまう自分は、やはりあの男の言う通りの猿なのだろう。そんな邪な己に辟易して、坊主頭はリンゴ飴に噛み付いた。
憂さ晴らしが見え見えだ。
「わ、豪快!」と戯ける少女は思春期真っ只中の少年の内事情など知るよしもない。
「けど急にどうしたの?」と小首を傾げる。
「いいや。何でも無い。心底自分が嫌いになっただけだ」
「なんで!?」
そんな調子で、男女は祭り囃子に消えてゆくのだ。
※
大祓祭は街単位の壮大な祭りだ。
繁華街だけに留まらず、河川敷を境界線に、南都全域で行われる。
そしてその中心は、土地神が眠るとされる大きな神社、朱雀神社だ。
朱雀を祀る神社の本殿では巫女が舞を披露し、神社の境内は剽軽な祭囃子が響き渡り、出店で溢れている。
本殿への参拝を済ませた百道らは、しばらく広大な境内を散策していた。
「こんばんわ。お二人とも」
聞き覚えのある声に振り返るとアザミと夜見だった。
二人は面──射的の景品と思わしき──を半かぶりにしている。
夜見は狐、アザミは天狗面である。
「二人とも、浴衣すっごく似合ってる!大人っぽい!」
恋歌が声を弾ませ駆け寄った。
「大人ですもの」とアザミが胸を張る。
「どうも。そっちも似合ってる。浴衣、朱にして正解ね」
夜見が指を絡める二人を見て頬笑んだ。
「それに、楽しめているようで何より」
「うん、お陰様だよ」
「お安いご用」
百道はアザミに訊く。
「その面細工はどうされたんですか?」
「これですか?」アザミは得意げだ。「これは、私は普段頭巾で顔を隠してて浮いちゃうから、お二人が気を遣ってくださったんです」
「お二人?」
「そう言えば月美ちゃんは?」と恋歌が小首を傾げた。
夜見が顎をしゃくってみせる。
その方には流れを堰き止めたような人溜りが出来ていて、その中心には見知った黒髪がある。
「時雨か?」
隊服姿の時雨はぐぬぬと唸りつつ、身を乗り出し銃の照準を合わせている。
その横にはお行儀の良い声援を上げる少女もいた。
全体的に白い少女、月美である。
彼女の横顔には兎の面が取り付けられていた。
此方に気がついた月美が駆け寄ってきた。
「あ、恋歌ちゃん。こんばんは。いいなリンゴ飴」
「でしょ?百道さんがかってくれたんだ。月美ちゃんもそのお面可愛い」
「いいでしょう!雨君が取ってくれたんです」
「あの男が、か?」
驚愕する百道に、夜見が財布を見せびらかしつつ肩を竦めた。
「大枚叩いてね」
その様子からして財布は一家共有なのだろう。
時雨の腰に両手の指じゃ足りないくらいの面が括られている。
再三たる挑戦の形跡だった。
「いいのか、アレ?」
「まぁ、馬鹿だから」
同刻、パンッと乾いた銃声がお囃子の律を裂いた。
コルク弾が的に着弾し、周囲の観客が「おおぉ!」と歓声を上げる。
だが残念、面が倒れることはなく、「クソが!」時雨が悔しそうに舌打ちした。
時雨の狙う面は、どうやら特別倒れにくいように配置されているらしい。
その面は金烏の面、ではなくその横の鴉面。
濡羽色の、不吉の象徴である。
「鴉、好きなのかな」と恋歌が小首を傾げた。
「俺にもあの男のこだわりは本当に分からない。鴉面など、どちらかと言うと嫌厭される面だろう?」
百道は夜見の方を見ると、「馬鹿だからよ」とまたも夜見は肩を竦めた。
「雨くんはね、鴉が大好きなんです!」
笑顔で答えた月美が「私に任せてくれたら、一発で取ってあげられるのに」と眉を八の字にする。
アザミが口を尖らせた。
「甘やかしすぎはダメですよ、月美ちゃん」
「そうよ、馬鹿が六でなしになる」
「そんなもの?」
「そんなもんよ」
しかし時雨の表情は真剣ではあるが、剣呑ではない。
まるで、
自然と百道の口角が緩んだ。
「きっと、ただの男の意地だろう」
恋歌の視線もまた、屋台の方に釘付けだった。
欲しい玩具を見つけた子供のように興味津々である。
「取ってやろうか?」と百道が訊けば、「やった」と瞳を輝かせるのだった。
※
取ってやると息巻いたはいいものの、百道は射的のコルク銃に苦戦。
元より剣士だ、飛び道具は専門外という。
奮闘の末何とか面自体は獲得できたが、予想以上の出費である。
と言うのに、大枚叩いて手に入れた面は望まぬ品だ。
百道としては非常に不服である。
「本当にそれでいいのか?」
恋歌は「これでいいんです」とお淑やかに笑う。
「しかし鴉だぞ」
百道の弾は彼女の所望した朱雀の面の、その隣に置かれた鴉の面に吸い込まれるように着弾、不運にも倒してしまったのだ。奇しくもそれは、時雨が熱望した面でもあった。
ちなみに時雨は未だ射的をしている。
百道に狙いの面を横取りされ、闘争心に火がついたようだ。
獅子奮迅するその活躍に、会場は熱気に包まれていた。その白熱ぶりに、夜見とアザミは呆れていた。「愚息ですみません」とアザミさんの謝罪が痛い。
月美の「王子様みたい」という呟きには耳を疑った。どうにも彼女の感性はよく分からない。
「恋歌には赤がよく似合うから、是非とも朱雀の面を取ってやりたかったのだが‥‥だが、まだ予算はある」
「もう、これがいいんです!あんまりしつこいと怒りますよっ」
そうプリプリと怒る恋歌は実は食欲旺盛だ。次は焼きそばに目をつけたらしい。
「百道さん、あれ!食べますよっ」
と、人混みを掻き分けズイズイと奥へ進んで行ってしまう。
恋歌は時折強引というか、豪快だ。見た目はそんなでもないのに、逞しい。
「って、お、おいっ、ちょっと待てって!」
遠慮なしに遠ざかるその華奢な背を追うように、百道は祭りの更に最奥部へ斬り込んでいった。
その背後に迫る無数の影に気づくこともなく。
※
金魚掬いに型抜きと。
それからも祭りを楽しんだ。
絢爛に飾られた繁華街の並木道は煌びやか。街並みはどこかの絵巻物の幻想空間のようで、二人の心を俗界から遊離させる。並ぶ出店や小気味良い笛の祭り拍子は、心身に染み渡るようだ。
百道も、途中からは胸のしこりを忘れて、縁日に夢中だった。
「うん、大丈夫」と弱々しく頷いた。
「ちょっとだけ人に酔っちゃったみたい」
「そうか。この、人混みでは無理もないな」
「それなら百道さんも疲れてるよね。だってここ、全然知らない景色だし。運んでくれたんでしょ?前みたい──にっ!?」
恋歌が濡れた瞳で覗き込んできた。
「だって、時々ボーとしているから」
「そ、そんなことはない」
すると顔を紅潮させた恋歌が上目遣いで手を握った。
「‥‥ねぇ百道さん。私、すごく楽しい。この時間が、一生続けばいいって思う。けど、
もしかしたら思い過ごしかもしれないんだけど、少し付き合ってくれな──いっ!?」
卒然に、恋歌の周囲で僅かに黒い火花が散った。
「おい、大丈夫か?」
恋歌は、辛そうに右胸を押さえつつ、
「あれ?おかしいな。なんだろ。一瞬眩暈が、それに、何、この景色‥‥まさか、そんな。ねぇ百道さん、もしかし──ぐがっ!?」
言葉を切るように、再び、恋歌の周囲に黒い火花が散った。
雷に打たれたように体制を崩す彼女を、百道は抱き止める。
「恋歌っ、一体、何がっ!?」
朦朧とする恋歌を激しく揺らすが、しかしいくら呼びかけても梨の礫だ。
座った瞳は虚に夜空を眺めていた。
「百道、さん‥‥私、もしかして」
か細く紡がれた朧げな言葉が、蓋をしていた疑心を揺すり起こす。
百道は、恐る恐る声をかける。
「恋、歌?」
「そんなことって」
そう呟いた所で、恋歌は腕の中で意識を失った。
「くっ、一体どうしたというのだっ」
恋歌について、百道なりの推測は用意していた。
かつて彼女は何かしらに巻き込まれて星禍に取り込まれた。
その過程で記憶を失った。そう考えれば辻褄は合う。
だから彼女は、人類に仇なす者ではない。
百道は己にそう言い聞かせる。数々の矛盾に目を背けて。
「‥‥全部、終わっちゃったんだ」
その声に、百道は弾かれたように振り返る。
呆然と空を見上げる恋歌がいた。
「恋歌、目が覚めたの、か?いきなりたって大丈夫なのか?」
焦る百道に、恋歌は首を振る。
「お願い、百道さん。私を、朱雀神社の本殿に連れて行って」
※
土地神・朱雀を祀る神社には本殿とは別にもう一つ祭壇がある。
その場所は入り組んだ山の奥にある。
そこは本殿とは打って変わった鬱蒼とした雰囲気の、さながら廃れた古社だ。
人気も無ければ手入れのされた様子も無い。
茂った不健康な下草と歪んだ木々に囲まれたその空間は、神域というよりは寧ろ異形の住まう霊界のようである。
百道はその雰囲気に気圧されつつ、恋歌を降ろした。
「本当にここでいいのか」
「うん、ありがとう」
恋歌は弱く頷き、背中から降りる。
現在の本殿を表とするならばここは裏。
誰も立ち寄らぬ場所である。南都に長い百道でも訪れるのは初めてだ。
恋歌はそんな誰も立ち寄らないような場所を、滔々と案内した。
そして色褪せた鳥居を潜り抜け、迷いない足取りで境内に踏み入れる。
恋歌は、参道と思わしき石畳を歩く。
その姿が妙に様になっていた。
百道も追うように鳥居を潜り、小屋と見間違えるほど小さな社の前へ赴く。
本殿と思わしき所の床は経年劣化が酷く、既に殆ど枯れ木だ。
祭壇の左右に置かれた苔むした石像は艶やかな猛禽類だっただろう。
そんな像を恋歌は撫でた。
「まだ、残ってたんだ」
苦虫をすり潰したような、そんな呟き。
「ここに、来た事があるのか?」
「うん、来たことあるよ。何度も」
そう呟く恋歌は、今にも消えそうだった。
「ああ、ああ、あぁ‥‥やっぱり。そういうことか」
「恋歌?お前、急にどうした‥‥」
恋歌は答えず、ヨロヨロと拝殿の方へ赴いた。
手水舎や絵馬かけ所らが既に朽ちたこの場所で、唯一生き残っている建造物だ。
百道も追う。
何かに取付かれたような歩調に、動揺に揺れる後ろ姿。
思えば呻いた辺りから様子がおかしかった。
恋歌が拝殿の手前の石段で立ち止まる。
「ねえ百道さん。このお祭りの名前って、大祓祭だったよね。それは逸話になぞったお祭りで、通称魔女狩り祭。御神輿の名前が天舞い神輿で、もしかしてあのお神輿の通る大通りの名前は神輪大道かな?」
「あ、ああ‥‥そう、だが、それがどうし──恋歌?」
駆け寄る百道に、恋歌が首を翻した。
「百道さん。私って変?」
「い、いや、今は様子がおかしいが、普段は全然そんなことない」
「そう、ならよかった。ねえ、確かお祭りは今年で何回目って言ってたっけ。一二年に一回、だもんね」
「九十回目だと聞いたが、それがどうした?」
恋歌は額に手を当て、何かをかみつぶした。
「なら、千年も昔か」
そう呟く恋歌から、強い哀愁を感じた。
「私馬鹿だ、全部そのまま残ってた。なのに私、皆が残した物、皆の形跡、生きた証、何一つ分かってなかった」
「れ、恋歌、さっきから一体、何をっ!?」
恋歌は答えず拝殿へ赴く。
恋歌はギシギシと鳴る向拝をよじ登り、祭壇の方へ赴いた。
その背が神に身を捧げる巫女のように見え、胸騒ぎがした。
「恋歌っ、ちょっと待て!一体どうしたんだ!?話してくれっ」
百道も追うように、中へ入る。
拝殿は酷い有様だった。
恐らく長い歳月の中、空き巣にでも荒らされたのだろう。
恋歌は正面に佇み、作為的な半壊が施された仏像を見下ろしている。
「百道さん。よかったら、花火、しない?多分、残ってるはずだよ」
「花火?」
「うん。線香花火なんだ」
「それは‥‥?」
恋歌は何も言わず、落ちていた木箱を拾い上げ、まるで宝物のように開いた。
しかし、蓋に手をかけた途端、留め具がぼろりと壊れ、中身が露呈する。
「あれ?おかしいな、空っぽだ」
恋歌は、箱を地面に捨てるように転がした。
百道が慌てて拾うが、箱の中には煤汚れのような変色があるだけで、何も入っていなかった。空箱だったようだ。
恋歌が呟く。
「終わったら、皆でしようって、せっかく準備したのにな。スーパー、閉まってて大変だったんだけどなぁ」
乾いた焦燥に、漂う悲壮。
意識的か無意識なのか。彼女の周囲の幻力が、濁った色の波風を立て始める。
「れん‥‥一体どうした?さっきから様子が」
手を伸して振り向かせれば、その華奢な身体は震えていた。
「皆、もう居ない。私、一人ぼっちで、死ぬのは、嫌だな」
蒼穹の双眸は陰りの涙を湛え、目元には病的なほど深い隈が刻まれている。
百道は今にも泣き出してしまいそうな彼女の手を握る。
それは少年が踏み出した最初の勇気だった。
「俺が、いる。一人にはしない」
「百道さんが?」
「ああ。だから、泣くな」
けど、と恋歌が遠い眼差しを向ける。
「私を殺さないといけないのに?」
出し抜けの言葉に、百道は思わず呆気に取られる。
「殺す?恋歌を?」
訳も分からず戸惑う百道に、恋歌は囁くように言う。
「私、全部思い出したんだ。私は土地神を管理する特別な血縁。土地神の加護を継承する巫女として育てられた。だから私の中には土地神がいます。本来、この土地を守るべき神様、朱雀が」
土地神・朱雀。
この南都の象徴である。
「何を、だって、朱雀は、千年も行方を眩ませていた土地神だ。それが今更」
「多分、私のせい。私と一緒に居てくれたからだと思う」
「そんな馬鹿な話が」
「──あるんだよ」
遮るような鋭い口調だった。恋歌は懺悔を始めるように続けた。
「そしてもう一体。私の中には、朱雀とは別の怪物が巣くっている。百道さん。今から大切な話をします。あの日、キニキスの夜、私は馬頭丸に憑かれてしまった。仕留めたと油断していたんです。
「馬頭丸?」
「一二天使の一体、メズスと名乗った星霊の本名。そして、今私の中で暴れ回っている正体。馬頭丸は今も私の身体を乗っ取ろうとしている。朱雀が押さえ込んでくれているけど、それも時間の問題」
恋歌の告白に、百道は必死に首を振った。
「いいやそんな、そんなはずはない。奴は、あの時確実に殺した!」
「それも私のせいだね。私の力を使ってアイツは生き延びた。そして、今日まで私の中で羽を休めていたの」
「一体どうして、星座紋共々粉々にした。生きているはずが」
「核を私の心臓に移したんだと思います。朱雀を継承した私の身体は不滅。だから、今の私は人間だけど、星禍でもあるんです」
「なっ、そ、んな‥‥」
メズスは生きている。駆除しなければならない。
だがそれは恋歌を殺す事と同義になる。
「星禍は余す事なく駆除する、ですよね?」
恋歌は両腕を広げてみせた。
笑みを湛え、まるで抱擁するような格好で、
「百道さん、心臓です。その大太刀で心臓を貫けば、殺す事ができる。多分大手柄です」
「アンタは‥‥恋歌はそれでいいのか?」
「うん」
「線香花火、しなくてもいいのか?」
恋歌は悲しそうに笑った。
「いいんです。元はと言えば私が招いたことですから。それに、嫌なんだ。皆が残したものを壊すのだけは絶対に嫌なの。間もなく私は乗っ取られてしまう。だから、そうなる前に、百道さんの手で終わらせて。百道さんなら、私は本望です」
その言葉に、怒髪天を突く怒りが噴火し、
「巫山戯るな!」
突発的だった。
百道は居ても起っても居られず、その華奢な身体を強引に抱き寄せる。
「俺は、嫌だ」
恋歌は胸の中で息を吐いた。
「ももち、さん?」
「逃げよう。この街から出て、別の街に移ろう。どこでもいい。結界の外だっていい。そうすれば周囲は星獣だらけで、スラムは汚いし、衣食住を確保するのも困難だろうが、俺がなんとかする!」
「例え街から逃げても、結局‥‥」
「大丈夫だ。俺が守る。俺が強くなって守り抜くから。だから、殺すなんて、そんな悲しい事を言わないでくれ」
「それは、頼もしいね」
恋歌のか細い手が胸板辺りを触った。それから明確に押し返した。
百道は馬鹿だが、恋歌は百道ほど馬鹿じゃないのだ。
「けど、もう限界なんです」
見れば、恋歌の顔には相当の汗の玉が浮かばれていた。
顔色は蒼白で、四肢は震えを隠せていない。
赤地の浴衣は汗ばんでいる。
「私が記憶を取り戻した瞬間から馬頭丸は暴れ出した。今度こそ復活する。アイツが力を取り戻して完全体になったら、それこそ手がつけられないっ」
ならば、祭り囃子での一件は、もしやメズスの浸食によるものだったのだろうか。
恋歌はふらつきつつ、右胸に手を当てた。
「ここです。ここに。私の意識がある間に、早くっ」
百道は咄嗟に背の大太刀を抜くが、項垂れるように大太刀は滑り落ち、床に刺さる。
「無理だ。そんなこと出来るかはずないだろ、恋歌を殺せるわけないだろっ!」
そんな百道を見て恋歌は、髪を乱しつつも笑んだ。
「もう、駄々っ子」
その微笑を、百道は知っていた。
いつ見たかはわからない。
恋歌は大太刀を軽々と拾い上げた。
その豪腕は、幻力による強化によるものだろう。
大太刀を、己の右胸に突き刺すべく構え、
「じゃあね。百道さん」
大太刀が恋歌の胸に突き刺さるその寸前。
瘴気が顕現した。
恋歌の身体から、滝のように瘴気が噴き出す。
「ぐっ」
その風圧に、百道は吹き飛ばされ、背中から壁に突き刺さった。
「恋歌ぁっ!」
這いつくばるも百道は、手を伸ばした。
手を伸ばすその光景にも既視感があった。
「あっ‥‥ぐぅ‥‥」
恋歌が苦悶の表情を浮かべた。
見れば、発疹のような呪印が、顔や四肢といった恋歌の総身を蝕んでいた。
高濃度の瘴気の煽りを受け、恋歌の幻力が黒化現象を来したのだ。
幻力の黒化現象、即ち星禍。
──幻力が急激に瘴気へと転じている‥‥このままでは恋歌はっ
「恋歌っ!!」
恋歌の手から大太刀が滑り落ちた。
朽ちた床に大太刀が突き刺さる音がし、それと同時、瘴気の噴出がピタリと止んだ。
半壊した拝殿内に、束の間の静寂が訪れる。
嵐の前の静けさ──前兆だった。
「瘴気の、放出が!?」
「百道さん‥‥ももち、さんっ!お願い、殺してっ!私が、私であるうちに──あぅ」
恋歌がそう懇願した刹那、叫び声が耳朶を打った。
「あっ、ぐっ、ぐぅうう‥‥がぁあああああ!!」
恋歌の叫びに呼応し、恋歌の全身から瘴気が吹き出し、皮膚を割いて黒い結晶が噴き出した。
まるで恋歌自体が星禍となったかのようだ。
彼女から吹き出した瘴気が渦巻き、のたうち、超高圧の波動となって拝殿を薙ぎ払う。
その光景を、百道は指を咥えて見ていた。
恋歌を中心にうねる瘴気の渦、壁や足場に刺さる黒い結晶。
黒い瘴気が踊る中心で、ぶるんっぶるんっと身体を痙攣させる恋歌は身体のあちこちに結晶を生やし、悲痛にのたうち回っている。
その光景に、
とてもじゃないが手が届くところにない。
百道の手は、あまりにも短すぎるのだ。
ああ。またなのか。また、見殺しにするのか。
思考が冷めてゆく。
百道の胸中でどこか諦観めいた感情が渦巻き始めていた。
とその時。
ごばっ!!と引き戸が強引に突破され、視界の端で月を映したような鈍色の輝きが煌めいた。
次の刹那、パチンッ!と張詰めたゴムが弾けたような音がして、瘴気の波動が止む。
静まる瘴気の中心部で、恋歌の身体が糸切れたように堕落した。
「れん、か?」
ぐちゃりと触りの悪い滴音。赤い粘性の液体が断続的に床板をぬらす。
覆面の集団が恋歌を滅多刺しにしていたのだ。
「貴様ら、何をして」
百道は唖然と呟いた。
白い修道着にフードを着込んだ覆面。彼らは太陽教という太陽を信仰する教徒達だ。
彼らの手には一様に銀槍が握られている。
退魔の霊木たる桃の木の霊槍だ。
銀槍は少女の手脚を紙きれ同然に切り落とし、急所を的確に突き刺している。
「ああ、偉大なる太陽神。我ら信徒に、愚者断罪の権を」
リーダー格が祈祷するように、槍を一閃させた。
恋歌の首が転げ落ちる。その時、恋歌という少女は明確な死を迎えたのだろう。
だが。うちに潜む怪物は死ななかった。
転がった恋歌の生首が薄く笑んだ、ように見えた。
首の切断面がぐじゅぐじゅと泡立ち始めた。
生首がひとりでに浮かび上がり、元在った場所へと舞い戻る。
首が接合する。
「ありえ、ない」教徒の一人が呟いた。
「今のは危なかったぞ」
別の命が笑う。
恋歌だった何かが、血塗られた唇で告げる。
「下賎め」
瞬間、轟っ!!と恋歌を中心に黒い瘴気が発狂した。
瘴気の波動が津波の如く質量を伴って向拝全体を吹き飛ばし、百道は悲鳴を上げる間もなく薙ぎ払われる。
地面をバウンドし、大木に衝突して動きを止めた。
ぴきりと何かが切れる音がして、形容しがたい痛みと熱に悶絶。
筋繊維が悲鳴を上げている。
それでも御の字のはずだ。百道は生きているのだから。
百道は立ち上がる。
百道の前に、紅蓮毛の少女が佇んでいた。
全身に瘴気の鎧を纏い、軽薄な笑みを浮かべて、見下している。
「久しいな、小僧」
声帯は恋歌だった。容姿も恋歌のものだ。
だが違う。
百道は叫ぶ。
「‥‥メズスッ!!」
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