第17話

それからの二週間は恋歌と共に過ごす日々だった。

修行を手伝って貰ったり、街を散策したり、くだらない会話に耽ったり。

何気ない時間が楽しかった。

恋歌の相槌は「あぅ」と呻くようだ。

決して変という訳ではないが、もっと聞きたくて口数が多くなってしまう。

偶の任務が辛い。彼女と別れなければならない。

天ノ御柱結界内部にはない。しかし星禍は起こる。

その頻度は黒化エリアと比べると遙かに少ないが、予断は許されない。

例の不穏な星禍も調査が難航している。

星祓隊は多忙だ。それこそ百道にまでお鉢が回る程に。

それでも生涯で一番穏やかな日々を過ごした。

一度、恋歌の要望で入江に足を運んだ。

巨人の手に隠されたような入江。

外界から入江を切り取る断崖は、遙か先の沖で狭い隙間を残して途切れ、その岩間から水平線が見える。

陽光を受け煌びやかな水光を浮かべる海面は夜の如く深く、底は寒そうだ。

事実として底は深い。

この入江が現存しているのはからだ。

「ここがなんだよね」

「ああ、ここでお前を見つけた」

入江に戦いの痕跡は残っていなかった。

「そっか」

恋歌は海風に紅髪を預けた。

髪を抑えるその指が繊細で、痛々しい程だ。

「屋敷に戻ろう。日焼けしてしまう」

「そうだね。それにこれからのことも考えないと」

この時の俺は、恋歌が居なくなってしまうなんて思いも寄らなかったんだ。


アザミは呉服売りをしているそうだ。

そのため時雨邸の面々は品の良さそうな物を着ていることが多い。

恋歌もその例に溺れずなのだが。

「おはよぉ~」

「おはよう、恋歌。随分と寝ぼすけだな、ん?その服は──」

のそのそと昼過ぎに起きてきた恋歌はシャツとクリーム色のベスト、紺地のスカート、初めて出会ったあの服装であった。

洗面台を経由してきたのか身嗜みは整えられているが、寝癖が隠しきれていない。

寝起き10分といった所か。ふらふらと歩いてきたと思えば、縁側に座り、うつろうつろと船を漕ぐ。

「いい朝だねぇ」

「いやもう昼過ぎなのだが」

「う〜ん。昨夜のゲーム大会に参加したんだけど白熱しちゃって。ふぁぁ~、夜更かししちゃった」

恋歌はすっかり時雨邸に溶け込んでいるようで、ついには夜の遊戯にまで参加するになっていた。

時雨邸名物、夜の遊戯。

昨夜百道は任務があって参加できなかったが、随分と白熱したようだ。

そのため恋歌は寝不足のよう。

「一体何時に寝たんだ」

「うーん、あんまり覚えてないけど、多分二時くらい、かな」

「それは凄いな」

「うん。皆強くて苦戦しちゃった」

百道も初日に参加したが、あれは今思い出しても恐怖体験である。

できるならもう二度と味わいたくない。恋歌もその洗礼を受けたのだろう。

「あの獲物を狙う眼孔。恐ろしかっただろう」

「う、うん?けど楽しかったよ?皆真剣でやり甲斐あったし。最後、夜見ちゃんと一騎打ちになったんだけど、中々勝てなくてびっくりした」

恋歌はあっけらかんと言う。

「まさか、か、勝ったのか?」

「勝ったけど」

「あの夜見に?」

「うん」

「‥‥アンタ、意外にタフだよな」

「そうかな?」

今の話といい、時雨の時といい、何というか、恋歌は肝が据わっているというか全く臆す様子がない。忍耐が凄いのだ。

「で、その格好は?出かけるのか?」

恋歌の服装は、余所行きの装いだ。

「うん、今日ね。夜見ちゃんたちとアザミさんのお店に行くんだ。部屋着とか、お外服とか買いに。他にも色々」

なるほど。

時雨の母、アザミさんの働く呉服屋は南都でも有名な老舗である。

聞く話ではかつて帝王の衣装を見繕った事もあるそうだ。

美人な恋歌にふさわしいだろう。似合う、絶対に。

時間を超えて、苦しい思いをしてきた恋歌だ。ずっと孤独立ったはずだ。

だから、そのご褒美という訳ではないが、恋歌には良い服を着て欲しいと思う。

何か買ってやりたい。ついでに、その服を着て、一緒に街を歩きたい。許されるだろうか。

百道は慎重を期して訊いた。

「金は大丈夫なのか?足りないのなら──」

「ううん、それは大丈夫。実はアザミさんに誘われてお店のお手伝い──つまりアルバイトしてて、だから実はお金持ちだよ、私」

アザミさんか、と百道は納得する。

珍妙な組み合わせかと思いきや、二人は姉妹のように仲睦まじい。

恋歌はアザミに懐き、アザミは恋歌を可愛がっている。

酔った勢いで養子にしてしまうほどだ。

「しかしいつの間に。それなら教えてくれたって良かっただろ」

「ごめん。けど私この世界で生きて行くって決めたから。だから百道さんに頼りっぱなしじゃダメだって思って」

隠し事をされたようで、若干寂しい気持ちになった。

子供臭い自覚はあるが正直拗ねている。

「‥‥服とか縫えるのか?」

「ううん。お針子は無理。けどお金の計算は慣れてたから、お会計」

恋歌が腕をまくし立てて目を丸くした。

「あ、そろそろ時間だ、急がないと!」

それから慌ただしく立ち上がり、「ごめんね、百道さん、私もう行くね」

「そ、そうか。気をつけて」

「うん!」

「なあ恋歌!やっぱり俺もついて行ってもいいか?」

南都では失業者や浮浪者らの盗賊行為や身売りが頻発する。

「南都の繁華街は治安が良いという訳ではない。俺がいれば男避けくらいにはなるだろう」

邪な感情がない訳ではないが、殆ど親切心からだった。

夜見らが同伴するからと言って安全と言うわけではない。寧ろかえって危険が増す。

しかし恋歌は躊躇いなく「百道さんは来ちゃダメ!」と両断。

「えっ‥‥ダメ!?」

「うん、絶対にダメ!絶対来ないで!!」

そして慌ただしく玄関へ消えていくのだ。

大槌で後頭部を殴られたような衝撃だった。

「ああそうだ、百道さん、明日予定開けておいてね!」

そう言い残す恋歌の声も、今は右から左である。

百道は自失呆然である。

恋歌が出かけた後の百道は正気が抜けたようであった。

気がつけば学び舎に居て、、はたまた山の広場だ。

終日「恋歌に‥‥拒絶‥‥そんな、馬鹿な」と繰り返していたらしい。

そして今は何故か例の入江に居て、夕焼けを見上げていた。

唐突に我に返った。

時計を見る。時刻は夕食を大幅に過ぎる時間になっていた。

「え、ぅ、うぇっ!?ま、まずいっ!?」

──絶対に怒られる。

猛ダッシュで帰宅し、時雨邸の門を叩いた。

あの日以来時雨邸の食卓には百道の食事も並ぶ。アザミのご厚意である。

「遅くなった」

出迎えの月美は普段通りだった。

「あ、百道君お疲れ様。それに大変そうだね。任務でもあった?」

「いや、そういう訳ではないんだが」

「けど夜見が非常に怒ってるから今度からは事前に連絡くれると助かるよ」

とほほと笑う月美の表情には気苦労が滲んでいた。

百道は火急で手洗いを済ませて、居間に滑り込む。

そこにはアザミと夜見と恋歌が座っていた。

食卓には料亭の如く品数の食事が並べられていた。皆、冷めないように漆色の蓋がされている。時雨の姿は見えない。

「遅くなってしまい、申し訳ない」

「お帰りなさい」

アザミが会釈する。

「大丈夫ですよ。何か特筆すべき用事があったのでしょう?」

アザミが温かく出迎えてくれる。が、夜見は氷点下の視線だ。

「にしても、遅い」

「す、すまない」

「はぁ、まあいいわ」

お許しが下ったので百道は食卓に上がろうとしたのだが、夜見がぴくりと柳眉を釣り上げ「ちょっと待って」と制した。

え?と首を傾げるが、夜見の有無を言わさぬ眼光に、影縫いの如く結い止められてしまう。

「ここ食事処。で、その格好は何?」

「え?」

見ると、衣服は煤汚れていて靴下は泥汚れが酷い。

こう言っては何だが、きっと匂いも酷いもののだろう。

「前言撤回。アンタは先にお風呂」

そうだ。

百道は恋歌に拒絶されたショックのあまり、断絶呪幻の負荷を最大にした状態で南都を駆けずり回っていたのである。

恋歌が口元を隠しクスリと笑った。しかしそれでは口元を隠している意味がない。

「遅かったら知らないわよ」

百道は直ぐさま回れ右して風呂場に直行する。

「全くこれだから男子共は」という呟きを後ろ背に聞き、百道は速攻で風呂を上がることを決意した。


脱衣所を出ると、どういうわけか時雨と鉢合わせた。

「なんだ。テメェも風呂場に押し込まれた質かぁ?」

紅地に白抜きで「女」と書かれた暖簾をたくし上げ、白い浴衣の寝間着に身を包んだ時雨が姿を現す。

「ん?」

なんと。時雨が出てきたのは女湯からである。

「な!?き、貴様何故女湯から!?」

再度確認したが間違いない。

彼の漆黒の髪は拭き残し、頬をほんのりと上気させている。うっかり女性と見紛いそうな美貌だ。もしや、時雨とは女だったのか。

いいや違う。紛らわしい容姿だが奴は立派な男性である事は確認済みだ。

「まさか、覗きか!?」

「はぁ?阿呆か。んな面倒なことしねぇよ」

時雨は耳に指を突っ込みながら気怠げに返した。

「つーかそもそも、ここに女湯も男湯もねぇよ」

「な、だがこの暖簾が」

「そりゃ形式上っつう話な」

百道は頭を抱えた。

時雨は常識にとらわれぬ放埒な男だ。だがそれにしても無茶苦茶が過ぎる。

第一そんな話、ここの女性陣(「雨君なら別に、非常に‥‥!」とか言いそうな奴は除く)が黙っていないだろう。恋歌と鉢合わせになったらどうするつもりなのだ。

「巫山戯るな。そんな屁理屈がまかり通るはずがない」

「何にそんなキレてっか知らねぇが。アイツらが使って風呂が沸いてんだ。湯船が二つありゃ沸いてる方に浸かるのが普通だろう」

「だが、例えば、脱衣所に霰もない姿の二人がいたとして‥‥貴様は!」

次の瞬間、鼻が曲がるのではないかと思うほどの衝撃が顔面に打ち込まれた。

「なに想像してやがるエロ猿が。普通風呂入る前に確認取るだろ。脱衣所に鍵あるし」

「それもそうなのだが」

だが、それを抜きにしたとしても。

「貴様異性と同じ湯に浸かるなんて、恥ずかしくはないのか?」

うら若き、それも血のつながりのない女性の残り湯に浸るなんて行為は果たして本当に普通の感覚なのだろうか。いいや、やはり一般的な感覚ではない。

「はん、本性を出しやがったなエロ猿が」時雨は肩を竦めた。「んなモン一々気にしてられっか。たかが風呂だ。兄弟姉妹がいる家とやってることは同じだろう」

確かに。百道の家は女性陣が先に入浴を済ませ、百道らはその後に続いた。

時雨の主張は理解できる。

「それは家族だからだ。貴様の行動は、不健全で非常識だ。血の繋がりのある家族と違って、お前達に血のつながりはない。違うか?」

時雨が後ろ頭を掻いた。

「血が繋がってるからって家族とは限んねぇぞ?」

妙に引っかかりを覚える言い方だった。

「だが女性には色々とあるんだ。気をつけた方が良い。本当に」

「はん。知ったような口ききやがって」

「経験則だ」

百道はかつて、姉にこっぴどく叱られた事があった。

理由は未だに分かっていないが。

「つーかなんでテメェが突っかかってくんだ。そもそも風呂の件に関しては、夜見が使えったんだ」

百道は再び頭を抱えた。

ここの女性陣営には純粋無垢の月美がいた。彼女ならば「え?お風呂?雨君ならいいよ?」とさも当然に言うだろう。想像に易い。

月美めと百道は内心で毒づいた。

──ん?

「え、夜見が!?」

「たく。ただでさえうちの姫さん怒らせて面倒くせぇって時なのによ。突っかかって来んな、ボケが」

言いたいことを吐ききって清々したのだろう。時雨は踵を返してしまった。

後に判明するのだがどうやら時雨も遅刻してきたそうだ。



百道と時雨の遅刻により、食事が始まったのは9時前。

普段より2時間ほど遅延した夕食は、日頃のアットホームな空気感はどこへやら、厳粛な雰囲気が漂っていた。

アザミは愚息に、夜見は男共に、大層お冠だったのだ。

目も合わせてくれない程だ。百道は終始、飯の味が分からなかった。

重苦しい空気を払拭すべく葛藤した月美と恋歌には頭が上がらない。

結局、食後の皿洗いで事なきを得たの、だが。

意外や意外。

傲慢の象徴たる時雨が率先して片付けに取りかかったのだ。てっきりサボるものかと思ったのだが、また知らぬ側面を見た。

皿を洗い場へと運び込み、早速水仕事に取りかかる。

時雨は食器洗いを、百道は現れた皿の水気を拭き取る役割分担だ。

時雨は手慣れた様子で流しに立った。

洗剤は最小、蛇口は最短、汚れを的確に落としていく。事前に油汚れを見極め、ペーパーで拭き取ったのには思わず感服してしまった。

「あん?なに見てんだよ」

視線に気がついた時雨は悪態をつく。

以前の百道ならばきっと悪態で返していただろう。

「いや、巧いな、と感心していた」

「こんなモン慣れだ、慣れ。んなん見ても面白くもねぇだろ」

「いや、自分の知らないものを知るのは、面白い」

すると時雨は渋面し、黙りこくってしまった。

僅かの沈黙が続く。

時雨は、苦い記憶を思い起こしているようだった。

しかしその間にも彼の手先は皿を洗っているのだから、やはり器用なのだろう。

ふと、時雨が「ほらよ」と皿を渡してきた。

その後、柄でも無い細い声で呟いた。

「昔よくあの二人に扱かれたからな」

「夜見と月美にか?」

「いんや。夜見と母ちゃんだ」

「なるほどな。確かに上達しそうだな」

「ああ上手くなる。だからお前も、あの口うるさい鶏ガラ女に扱かれればいいんだ。そうすりゃ多少、マシになる」

鶏ガラ女とは一体誰のことだ。

女というのだから女性のことだろう。百道の関わる女性と言えば、アザミさん、夜見と月美、そして。

「貴様、まさか恋歌のことを言っているのか?」

「それ以外、誰か居るんだよ」

「やはり貴様は最低だ」

「あんだよ。ガリブスのほうがいいか?」

時雨は失礼だが、しかし百道は思わず笑いそうになった。

「恋歌は鶏ガラじゃない。それに口うるさいで言えばあの──」

「あん?テメェそれ以上言うならぶっ殺すかんな」

どうやら時雨も自覚があるらしい。

「それは無理な話だ。何故なら俺は貴様を超える者だからな」

すると時雨が「はんっ」と鼻を鳴らした。

「その図太さにゃ尊敬するぜ。まだ自分の立場が理解できてねぇみたいだな」

「笑えばいい。だが、今は無理でも、いずれ必ず、超えてやる」

百道は真っ直ぐ、澄んだ視線を向けた。

「あっそ」と時雨は頭を振るのだった。









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