第15話

目が覚めるとそこは見知らぬ天井だった。

辺りは仄暗く、若干蒸し暑い。

窓際の風鈴と虫の音が涼しげな導を奏でている。

頬を撫でる夜風に、百道は目を細めた。

──ここは?俺は、一体。

穏やかな声音に百道は起き上がり、周囲を見渡す。

どうやらここは時雨邸縁側の隣の一室らしい。

徐々に百道の脳裏に記憶が蘇ってゆく。

「そうだ」

ひょんなことで時雨と決闘することになった百道は、大敗を記した。

激昂した時雨に殺されかけた所で、夜見と月美に助けられたのを覚えている。

血だらけの白シャツを捲れば、包帯の巻かれた痛々しい身体が露見する。

この様子だと、治療までさせてしまったらしい。

どうせあの二人のことだ。謝りさえすれば許してくれるのだろうが、そう言う問題ではない。

本当、自分が情けなくて嫌になる。

百道はずれ下がったタオルを握った。

「あ、目が覚めたんだ。タオル変えますね」

「ん、ああ。すまな‥‥い」

手のタオルが奪われて、振り返った百道は石像の如く固まった。

濡れタオルを絞る人物は、月美でも夜見でもなかった。

正確には二人も同室している。だが、百道を射とめて放さぬのはまた別の人物。

透き通る白磁の肌に蒼穹を閉じ込めたような瞳。

紅蓮の髪は三つ編みに結われている。

記憶がより鮮明に思い起こされる。

窮地に追い込まれた百道を救ってくれたのは、月美でも夜見でもなかった。

そこに腰を折っている、恋歌だった。

「‥‥あの、えっと。本当に大丈夫ですか?」

濡れた瞳とぶつかり、百道は息を呑む。

「れんっ」

恋歌は、やや前のめり気味に、鼻先がつきそうな程顔を寄せて百道の様子を伺っている。

百道は思わず背中を仰け反らせた。

彼女は訳も分かっておらず小首を傾げている。

淑女たるもの気軽るに近寄るな、と内心毒づいた。

彼女の白皙の美貌からの上目遣いは大変心臓に悪いのだ。

「俺は大丈夫だ。すまない。迷惑をかけた」

「本当にですか?怪我はかなり酷かったんです。大丈夫の一言で完結できる問題ではないはず。あ、そうだ」

更にすり寄るように、前髪を持ち上げた恋歌が額を近づけてくる。

恐らく熱を測るつもりなのだろうが百道としては気が気でない。

腕に何かふにゃりと感触が当たって居た堪れないのだ。

「だ、大丈夫だ、熱はない!それよりも、少しだけ、離れてくれると助かる」

「?」

「あ、当たっているのだ!」

そこでようやく状況を理解したらしい。

恋歌は顔を赤め、素早く後退する。それはそれで離れすぎなのではという距離の取り方だ。

「し、失礼しました。はしたなかったです」、と相も変わらず純心な恋歌である。

「‥‥いや。此方こそ済まない。それよりももう外に出ても大丈夫なのか?」

恋歌は「その節は、ご迷惑をお掛けしました」と慇懃に頭を下げる。

「そんなことはいい。本当に大丈夫か?無理はしていないか?」

恋歌は頷いた。口元に笑みを湛えて。

「うん。本当に大丈夫。お陰様で」

その笑みは溢れるようなもので、百道は言葉を失った。

代わりに恋歌の手を握りしめる。

「えっ!?」

間際で、空気を伝播する熱と吐息の音。

生の恋歌がこの部屋にいて、目の前にいる。

自らの意志で外に出てきている。

それが百道にとっては嬉しくてたまらなかった。

だから握る手を強めた。

ぼしゅん、と音が聞こえた気がしたが、今の百道に手を緩めるだけのゆとりはない。

「よかった‥‥本当に、良かった。自分の意志で部屋を出てきたのか?」

「え。う、うん。たまたま静かだったからお風呂を借りようと外に‥‥」

「それで、俺を見つけて助けてくれたのか?」

コクコクと恥ずかしそうに頷く恋歌は、恥ずかしそうに顔を伏せてしまった。

「だが、もうあんな無茶は止してくれ。心臓に悪い」

すると恋歌が顔を吊り上げた。

まるで飼い主に不平を示す雀のような態度で、むん、と眉を八の字にしている。

「それは多分私の台詞です」

すると恋歌の背後から咳払いが聞こえた。

「本当よ。誰がどの口で言ってんの」

やれやれと呆れ声の主は、恋歌の奥に座る人物。

「よ、夜見!?そ、それに月美も、一体いつの間に‥‥?」

「ずっとよ、ずっと、アンタが目覚めた時から」

「うん、二人の世界に没入してたから声かけ辛くて。非常にごめんね」

そういえばこの部屋には彼女らもいたのだったと目覚めた時の事を思い出す。

あの時は恋歌の存在に驚いてそれどころでは無かった。

夜見がわざとらしく肩を竦めた。

「言っとくけどアンタ。瀕死だったのよ。たく、何をどうしたら模擬戦でそんな大怪我ができるのよ。庭も悲惨だし」

ぼやく夜見を目尻に、我が身へ視線を落としてみるとこれが酷い。

腹部や頭部、腕に肩にと、幾重もの包帯が巻かれていた。

月美が傷を指差した。

「その怪我、恋歌ちゃんが治してくれたんですよ」

「え?」

ふと恋歌の方を見れば、顔を俯かせてた彼女がいた。

束ねた髪の隙間に覗く耳が、リンゴのように赤く染まっている。

恋歌は恥じらいを拭うように首を振る。

「そんな大したことはしてない。咄嗟に力を使っただけで」

「治癒術理が使えるのか?」

「え、うん。私、実家が神職だから。その関係で。でも本格的な治療は月美さんで、私は応急処置をしただけだから」

誤魔化すように早口になる恋歌がいじらしく、百道の理性の支柱が、ぐらりと傾いた。

「だから私は‥‥って、百道さん?何笑ってるんです?」

恋歌が蒼穹の瞳をジトリと据わらせた。

「いや、何でも無い。アンタのおかげで助かったよ」

「だから、私は何もしていなくて──」

「それでも。アンタがいなかったらきっと危なかった。助けてくれてありがとう」

恋歌は困ったように、僅かに頬を緩ませ微苦笑。

「それならお互い様ですね。私も百道さんに救われましたから」

此度は心臓が潰れると思う程の衝撃だった。

初めて出会った時の恋歌とは印象が違いすぎる。

「えっと、百道さん?」

「‥‥アンタ。本当に、恋歌、だよな?」

恋歌はこくりと頷く。

「朱雀、恋歌と申します」

「いや、そうじゃなくて。いいや、そうでもないのか。なら、もし嫌じゃなかったら、名前を呼び捨てで呼んでもいいか」

真っ直ぐに見つめると、蒼穹の瞳とぶつかった。

恋歌が期待するように瞳を揺らす。

「ふふ、じゃあ、私も百道さんって呼んでも良いですか?」

「よろしく頼む」

「よろしく頼むって、名前を呼ぶだけなのに?」

「む。それもそうか」

「ふふふ。変なの。やっぱり百道さんって変わってる」

そう笑い、恋歌は目を伏せた。

きゅっ、と桜色の唇を結び、もじもじと恥ずかしそうに、

「ねぇ、百道さん。助けてくれて、ありがとう」

またも凄まじい破壊力だ。

百道という人間の根幹を担う核が破裂してしまったかのようだ。

百道の心臓が激しく高鳴る。

ああ、あぁこれは、これは本格的に困った。

もし後ろでクスクスと笑っている二人組が居なければきっと彼女を抱きしめていただろう。

「おいお前たち、さっきから煩い──ぞっ!?ぐぅ‥‥」

百道は声を荒げると同時に、倒れ込んだ。

唐突に、猛烈な吐き気に見舞われたのだ。

意志に反して身体が震え、その場に伏してしまう。

恋歌が声を上げた。

「百道さんっ!?いきなり抱きつかないでっ!」

夜見が立ち上がった。「ちょっ、アンタ何いきなり盛りだしてんのよ!?」

「わ、百道君大胆。とっても‥‥!」月美は嬉しそうだ。

「ふっ、うっぷ‥‥」

「えぇ!?急にどどうしたの!?」

意識が徐々に遠のいてゆく。

耳元では恋歌のしどろもどろした悲鳴が断続的に聞こえる。

か細い悲鳴に顔を上げれば、すぐ傍に恋歌のご尊顔があった。

柔らかそうな血色の唇と蒼穹の瞳を閉じ込める長い睫毛。

何かふにゃりと柔らかなものに触れた気もするが今はそれどころの事態ではない。

夜見か誰かに襟首を引っ張り上げられ、百道は我にかえる。

「あ、ぐぁ‥‥いきなり、はぁ、はぁ。す、まない」

「えっ、う、うん。私は大丈夫だけど。百道さん大丈夫?身体すごく熱かったけど」

「だ、おえっ‥‥大丈夫だ‥‥」

「本当に!?」

「あぁ」

「そんなに震えてるのに!?」

確かに現在進行形で寒い。というか身体中が震えている。

口に広がる渋味に耐えているのだ。しかし許して欲しいというのが心情である。

胃の中のものが喉元まで登りつめ全てぶちまけそうな感覚、つまりは吐き気。

それも急性で猛烈な。

「あの、もしかして百道さん、吐きそう?」

「あ、あぁ、実はそうなんだ‥‥す。まない。バケツだ。至急バケツをくれ」

彼女は背後に目を遣るが二人も首を横にした。

二人は分かりやすく──月美に関しては、畳が大変と──慌て始める。

恋歌が頬を掻いた。

「えっと、ない、みたいです」

「そうか」と百道は項垂れた。

「吐き気が限界だ。多分、すまない」

「え、あ、諦めないでください!」

「では、1分耐える。その間にバケツを頼む」

「は、はいっ!」

恋歌も、二人に付随する形でその場を去って行った。

視界の端に見えた健康的な生足が、吐き気を加速させたのは何故だろう。



タオル桶の水を捨てるという恋歌の機転のおかげで時雨邸の高級畳は難を免れ、百道も弁償を免れた。しかし桶の方はどうだろう。恐らく弁償だ。

しかし、そんなことがどうでもよくなる程、昨夜の体調は酷かった。

胃の内容物を全て吐き出しても嘔吐は止らず、真夏かつ厚手布団だというのに体の震えが止まらず、気がつけば朝方だった。

不思議なことに、目覚めはさっぱりしていた。

目が覚めた時、枕元に恋歌が突っ伏していたことにも驚いた。

彼女のあどけない寝顔に心を洗われた。

そして今は、恋歌と二人で縁側で揺れる竹林を眺めている。

時刻は昼下がり。

百道としては早速修行に掛かりたかったのだが女性陣(夜見除く)に猛烈な反対を受けてしまった。特に恋歌の怒りようと言えば半端がなかった。

「本当に起きてても大丈夫なの?」

隣の恋歌が心配そうに覗き込んでくる。

「ああ、身体は丈夫だ。それに、いつまでも寝ていてはあの男に笑われてしまう」

恋歌がジトッと瞳が据わらせた。

「言っておきますけど、暫く絶対安静ですからっ」

彼女のきつい柳眉に百道は渋々頷いた。

百道はあまり覚えていないのだが、恋歌は寝る間も惜しんで終始甲斐甲斐しく世話をしてくれたのだという。早くも頭が上がらない。

「分かっている」

「本当ですか?」

「ああ、暫く激しい修行は控えるよ」

「嘘、絶対隠れてするでしょ?百道さんのお話はいっつも修行の話だったんですから」

「そんなことはしない。誓う」

すると恋歌はふふっと笑った。

「‥‥何が可笑しい?」

「いや、そうじゃなくてね」

「そうじゃなくて?だったらなんだ?」

百道としては馬鹿にされた気分である。

「百道さんってなんだか逞しい印象だったのに、実際は大型犬みたいな人なんだなって思うと面白くって」

百道は思わず茶を吹き出した。

「お、大型犬、だと!?何故だ!?」

「う〜ん。なんでだろう」。

恋歌は可愛く「つい」と微笑むが、これは由々しき事態だ。

男以前に人として認知されていない。このままではまずい。

「お、俺は犬でもなければ可愛くもないぞ!俺は逞しく気高い星祓隊だぞ」

だが、そうは言いつつも昨夜の醜態の後だ。説得力は欠片もないだろう。

「ふふ、なにそれ」と恋歌は微笑む。

もはや起死回生の言葉は見当たらない。

万事休すである。そんな悲壮な百道に、恋歌は目に浮かべた涙を拭った。

「そんなことくらいわかってますよ。そうじゃなくて。私、看病くらいいくらでもするよ?って感じなのに、百道さんったら必死に挽回しようとするから」

また別の意味で心臓が高鳴った。

うん。ダメだ。これは愈々困った。

「‥‥釘を刺してきたのはそっちだろう」

「そういう話ではありません」

「ならばもう謝らないぞ」

「元々ちっとも謝る必要なんて無かったんです」

その日はそうやって二人して縁側から庭を眺めて過ごした。

「ならば修行に取りかかる」

「それはダメです」







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