第9話
とは言え、というやつだった。
学び舎の学生は、九割以上が寮生活を営んでいる。
百道もその一人だ。
男子寮は女子禁制。
つまりはそういうことである。
行幸というべきか、時雨は一割側の人間だった。
「チッ、めんどくせぇ。ほんと使えねぇ野郎だな。テメェはよ」
と、悪態ずく時雨は、過去類を見ないほど顔を渋めていた。
それから百道らは浜から逃げるように山へ迂回、なるべく人目を避け時雨家を目指した。
浜で発見した少女は、気絶してしまっていたので百道が背負って運ぶことになった。
衰弱により痩せ細った少女は死人と見紛うようであり、百道は途中何度も確認した。
温もりや匂いや感触やらを堪能したわけではない。断じて違う。
その道中の山道で、月美とこんな会話をした。
「なぁ、前から気になっていたんだが、脚かどこか悪いのか?」
前方の月美が振り返った。
「え?」
全体的に白い少女、月美。
彼女はその人目を引く容姿もさながら、勉学も美を飾り、学び舎でもかなり有名な部類である。だがそれとは別の角度でも注目を集めていた。
「もしかしてこの杖のこと?」
百道は頷く。
「ああ。破壊力の少ない装具は稀有だからな。少し気になってたんだ。勿論、差し支えなければ、だが」
装具とは概ね、幻装の媒体となる器を指す。
百道だったら大太刀、夜見だったら刀と、武器を選択するのが通例だ。
しかし月美の場合は杖なのだ。それも、錫杖とかでもなくただの木杖。
月美は苦笑を浮かべた。
「そうだよね。けど、この子が一番手に馴染んでて、使いやすいから」
「なるほどな。その説明を受けて納得がいった」
こと幻装において、器となる装具は、武器として優秀さが求められがちだ。
だが、身に馴染んでいるかどうかも重要な要素なのである。
「脚は悪くないんだ。ほら、跳んだり跳ねたり、雨君のお世話だって出来るし」
「そうか‥‥ん?あの男の世話?お前は従者か何かなのか?」
「うん、そうだよ?私と夜見は、お世話掛です」
さも当然な月美に、百道は呆気にとられた。
「そうなのか。てっきり幼馴染か何かだと思っていた」
「幼馴染でもあります。けど、少し複雑な出会い方をしたので、訳あって、今はまだお世話掛として雨くんの身の回りのお手伝いをしています」
「そうなのか。となるとあの噂も本当ということか?」
「ん?えっと、あの噂ってどの噂?」
月美の瞳が人参を見つけた兎のように丸まり、「とても気になります」と食い気味に尋ねてくる。
百道は若干たじろぎつつ、
「あ、あぁ。お前たち三人が同居している、という根も葉も無い噂だ」
すると月美は「ああ、そういう噂」と頬を掻いた。
そしてあっさりと認める。
「はい、一緒に住んでます。正確には、雨君のお義母さんを含めて四人暮らし、かな。というか、噂になっちゃってたんだ」
「学生は皆、一様に噂好きだからな」
「‥‥別に噂にするような面白い話じゃないのに。本当に」
「いや、かなり大事だと思うぞ?『男女七歳にして席を同じゅうせず』というだろう。それも年頃の男女が同じ屋根の下だなんて、噂にもなるだろう」
同年代の、それも異性同士が同居しているとなるとそれなりの事態だ。
普通ならばありえない話である。
きっとその背景には、込み入った事情があるに違いない。だが、それを加味したとしても、兄弟でもない男女が同じ家に暮らすというのは如何なものか。
百道の指摘に、月美は苦笑を交えつつ、神妙な表情で呟いた。
「けど、同じ屋根の下、ではないかな。非常に残念ながらまだ」
「そうなのか?」
「うん。雨君はしっかり屋さんだから」
なんだか凄いことを聞いた気もしたが、月美は何事もないようにしているので気のせいだろう。
月美が胸の辺りで拳を握り締め、息巻いた。
「お側にいていいご許可が貰えるよう、私も頑張らないと」
百道はさっぱり分からぬが、月美も何かに葛藤し、
「そうだな。あの男に認められるよう、お互い、頑張らないとな」
すると、月美の瞳が狼と出会した兎の如く丸くなり、急激に熱を失った視線でももちを見据えた。
「えっと、百道君に雨君は譲れませんので」
「え?」
どうにも百道は返答を間違えてしまったらしい。
百道が自分が何を言われているのかさえ理解せぬうちに、月美は時雨らの方へと去ってしまう。
「‥‥やはり女性との会話は難しい」
山道を越えてしばらくした頃、先頭を歩いていた時雨が足を止めた。
その眼前に聳えるのは、一目で豪邸と分かる屋敷だ。
深い堀に高い垣根、河川を跨ぎ伸びる渡橋。門の傍から顔を覗かす竹林でさえ雅びに霞んで見える。
その外観はさながら由緒正しい旅館のようであり、世間一般で言う家とは明らかに違った風情がある。
その威容さを感じ取った百道は即座に首を横にした。
「千年ぶりの逸材と言えど、立ち場は同じ学生。こんな豪邸に住める金も権威もない」
しかし、百道の予想に反し、時雨は件の門を押し開けた。
「ただいま」と一言添えると、中へ消えてしまう。
百道は開いた口を閉じるのに苦労した。
ちなみにこの館は──この時の百道に知るよしもないが──借家である。
百道はそこまで気を落とす必要もなかったのだ。
「こっちよ」
暗然と佇む百道を手招きし、女性陣二人は屋敷の裏手に回り込んだ。
案内された先には小ぢんまりとした印象の門が潜んでいる。
竹藪に囲まれ、石畳が敷かれた、ひっそりと薄暗い印象の門。
先ほどの大門を陽とするならばここは陰。
「これは?」
「裏門です」
「それは分かるが、何故わざわざ裏に回る必要がある?」
「私達は一応雇われの身なので」
そう自慢げに指を振る月美に、「それもあるけど」と夜見が補足を加える。
「なけなしのカモフラージュよ。変な噂とかがつかないように、ね」
どれも要領の得ぬ話であるため、百道は曖昧に頷いた。
門を潜れば、その先には露地を彷彿とさせる風景が広がっていた。
竹藪に築山。その脇には苔むした岩まである。
足場の石畳は勝手口まで伸びているようだ。
石畳の道を進み、笹の暖簾を掻き分ければ、老舗旅館の庭園さながらの豪奢な庭に辿り着いた。
そこには庭池があって、石橋があり、広大な母屋と道場がある。
最奥には酒を貯蔵するような印象の蔵も見え、百道の口はもはや塞がらない。
一見質素な境内だが、漆の光沢を纏う木々と濡羽の瓦が古風な風情を醸し、全体としての印象を引き締めている。
「まるで老舗旅館だな。まぁ、俺は老舗旅館など知らないのだが」
絶賛家計が火の車の百道は、こういったお金をかけた風情とは無縁の人種。
居心地がいいのやら悪いのやら、不思議な心地である。
「安心なさい、私もよ。どうせ、この世界の老舗旅館なんて碌でもないだろうし。それに、驚くのはまだ早いわ」
焚き付けるように夜見が言う。
「この家にある物殆どが、全部このクオリティ」
「‥‥末恐ろしいな」
呆然と立ち尽くす百道は、月美と夜見が互いを見つめ合っている様子に気がついた。
痛くない沈黙。
二人の間に会話はなく、視線だけの意思疎通。
色術の中には、声を発さず意思を伝える、伝心の術理がある。
恐らくその類だろう。
言葉がなくとも伝わる。
伝心系統の術理──意識の送受信には、高度かつ緻密な幻力操作が求められる上、術者の間に強い結びつきが必要である。
そう思うと、百道の心は熱を失ってゆく。
ややあって、夜見が顎をしゃくり、
「ま、だいたいこんな所よね」
月美が頷いた。
「じゃあ、夜見。百道君の案内はお任せします。私は、お庭の水やりしてから入るね」
「了解。ということだから、アンタ、着いてきて」
肩越しにこちらを一瞥した夜見はくるりと踵を翻し、早足で歩き始める。
石畳の先の母屋へと向かい、結界を施錠して玄関を開けた。
引き戸式の凹凸ガラスがカラカラと音をならし、立派な石張りの足場が覗く。
框を跨げば、古き良き風情の香りが鼻腔を過ぎ去る。
「靴は脱いで。土と埃と虫を払ってから上がって」
「靴を脱ぐのか?珍しいな」
「まぁね。この辺りは比較的安全だから」
それは文化と言うよりも習慣に近いだろう。
一重に天ノ御柱結界内部といってもその安全度は疎らだ。
都心部──安区は安全な土地だ。
神獣の加護により幻脈が安定しており、星禍の危険が皆無なのである。
対し、灰色区域と呼ばれる地域は、土地神の加護が弱く、幻脈が非常に不安定であり、その地区の住民らは常に星禍の危険と隣り合わせの生活を強いられている。
無論、幾重もの術理的予防措置が講じられてはいるが、そのどれも命の確証に繋がる程の代物ではない。
そんな環境に身を置く民が靴を脱がなくないのは当然の帰結であり、寧ろ靴を脱ぐ文化というのは、そういった危険のない事の証明とも言える。
──もっと強くならねば。
百道の中に、決意めいた感情が湧き立ち始める。
夜見が振り返り、百道をまじまじと見つめると、鼻をつまむ動作と共に苦言を呈した。
「アンタはまずお風呂ね。臭いし汚いし」
己を顧れば、ボロ雑巾のような衣服に気がついた。
煤と泥と血と汗とに塗れた体は兵器的である。
「あ、あぁ、辱い。だがいいのか?」
「寧ろ、その格好でうろつかれる方が迷惑」
「す、すまない」
「はぁ。別にいいわ。それよりも、れんか、だったかしら?その娘は一旦こっちで預かっておく。身体検査とか諸々、勝手に扱うけどいいわよね?」
百道は頷く。
「ならとっととお風呂入って」
ひったくるように
「脱いだ衣類は洗濯籠へ。着替えは脱衣所にあるからお好きにどうぞ。あとシャワー設備一式、幻力式だから」
その方には、紺地に白抜きで『男』と書かれた暖簾が垂れ下がっている。
そう言い残し、少女を奪い去った夜見は何処かへと去っていってしまった。
残された百道は、仕方なく暖簾を潜り、脱衣所の中へ。
隊服を脱ぎ捨て、凹凸ガラスの戸を開ける。
入室と同時に鼻腔を仄かな檜の香りが掠めた。
洗い場が三つに、大きな檜の湯船。ツルツルとした石張りの足場。
開放的な印象の浴場である。
「俺の自室よりも広いかもな。ありがたく使わせて貰おう」
洗い場──シャンプーから洗顔剤まで備わった完璧なシャワー設備──で百道は取り付けの幻石に手を翳した。
忽ち、頭上にお湯が降りかかる。
そのえもいわれぬ感触に、百道は恍惚と目を細めた。
お湯が肌で弾け、血行を促進させ、肩こり等を改善。総身の毛穴の奥まで浄化するのが分かる。
この水温と水圧の絶妙な加減、まさに匠の技である。
幻力式シャワー。
幻石を媒介に、幻力をお湯に変換しているのである。
完備されていたバス用品で汗と汚れをくまなく流せば、身の隅々は愚か、血に塗れた心まで祓われてしまいそう。
一通り沐浴を終えた百道は立ち上がり、呟いた。
「しまった。俺としたことが、完全に失念していた」
視線の先にはお湯が不在の物寂しい浴槽がある。
「そういえば、夜見がお湯は自分で張って的なことを言っていたな。さて、どうしたものか‥‥」
百道は空の浴槽と睨み合う。
「檜湯など滅多には入れぬ代物だ。せっかくならば堪能したいのだが。しかし、幻力が足りるかどうか」
幻力式湯沸器は、幻力をお湯に変換する機構だ。
浴槽は広い。
万全の状態ならば兎も角、戦闘で疲弊した状態の今だ。
百道は断腸の思いで踵を返す。
「シャワーに感動して、無駄に浪費した俺が悪い。今回は諦めよう」
湯水の如くはよく言ったものだと、頷いたその時。
浴場のガラス戸が勢いよく開閉された。
ガラガラ!と音ともに、腰にタオルを巻いた時雨が現れる。
「時雨‥‥」
時雨は無言で百道の脇をすり抜けて、湯張り用の幻石に手を翳した。
途端、滝のように熱湯が噴き出した。
時雨の膨大な幻力が湯水に化け、瞬く間に浴槽が溢れる。
「たく。お湯くらい自分で用意しろよ」
時雨は、「出血大サービスだ。感謝しろよな」と薄く笑み、洗い場へ去っていった。
百道は呆気にとられる。
まさかあの威丈高に
「時雨、お前‥‥!」
湯気立つ湯船に、思わず感謝の言葉が飛び出しそうになった百道だが、踏みとどまった。
自分を丸坊主にひん剥いた男になど、感謝したくない。
恨みと性分が綱引きを始め、百道は悔しそうに相好を崩す。
百道は渋々、湯面に足を入れる。
「屈辱だ」
湯は腹立たしいほど適温で、納得がいかなかった。
程なくして体に泡を残した時雨が現れ、のしりと浴槽に身を浸した。
よほどの湯心地だったのか、「おぉ‥‥」と毒気の抜けた声を発する。
百道にとっては意外だった。
あの傍若無人な俺様系にそんな側面があったと、関心さえ覚えるほどだ。
「あぁん?テメェ、何じろじろ見てんだよ」
「いや、なんでもない‥‥」
湯船に浸かる二人にそれ以上の会話はない。
普段から散々歪みあっているのだ。今更会話など不要なのである。
二人の間にあるのは、鹿おどしのような沈黙と、積年の恨みのみなのである。
──まさかこの男と風呂を共にするとは。
百道の位置からでも時雨の心地よさそうな相好は見えていた。
蜃気楼の如く揺れる湯気の隙間から覗く、華奢な肩と白い顔。
湯気を纏うその姿は、どこか少女のようなあどけなさと繊細さを醸している。
そんな風貌に似合わぬ雄々しい傷の数々。それらは彼が戦場を駆けずり回った証であり、百道の心を執拗に揺すぶっていた。
──こんな男でも、一応、同じ人なのだな。
不意に、時雨が呟いた。
「‥‥たく。嫌味なほど似てんな」
「‥‥何か言ったか?」
「いや、何でもねぇよ。ただ、ムカつくって言っただけだ」
「そうか、ならば俺も一つ訊いていいか?」
「あん?」と時雨は顔を顰める。「別にいいけど」
「時雨、お前は
「んなもん、どうだっていいだろうが」
「いや、以前から気になっていたんだ」
──大賢者。
正確には九曜の大賢者と称される、土地神に認められた九人の階級であり称号である。
ちなみに百道や時雨は賢者だ。星祓隊の階級で言えば大賢者に次ぐ地位となる。
「お前なら今のままでも十分やっていけるだろう。いや、既に九曜の大賢者に選ばれていたっておかしくない」
時雨には、千年ぶりの逸材と評される程の巨大な才能がある。
その実力は弱冠十六歳にして完成しており、群衆からの信頼も厚い。
既に土地神の加護を賜っていても不思議ではないのである。
「俺は大賢者になりたい。いいや、ならねばならない。この腐った世界を変えるために、その力が必要なんだ!」
時雨がゆっくりと口を開いた。
「テメェは、時舟って名を知っているか?」
「藪から棒になんだ」
「断っとくがちんけなタマじゃねぇぞ。尺だが偉人だ」
百道は首を振った。
「すまないが知らない名だ」
「だろうな。俺はそいつを追っている。あの二人や星祓隊には、それを手伝わせている。そんだけだ。だから、星滅隊も隠居野郎も関係ねぇ。俺のすることは全部、個人的な理由だ」
時雨はザバっと水音を立てて湯から上がる。
小馬鹿にしたように肩を聳やかし、百道を見下したように笑う。
「つーかよ。他人様問いただす前にテメェの振りを顧みろや」
「なっ!?」
「今日のテメェ、何一つ役にも立ってなかったな。その様で本当に俺を超えれるのかよ?寝言は寝て言え、猿野郎」
そう言い残すと、時雨は満足したのだろう。脱衣所へと消えて踵を返した。
時雨の言うことは全て正しい。
不死鳥の
百道は
去り行く華奢な裸体に、百道は何も言い返せず、無力に歯噛みするだけだった。
※
「百道君、お湯は如何でしたか?」
脱衣所を出ると、月美に声をかけられた。
「あ、ああ。感謝する」
月美は夏らしい薄着をしていた。降ろされた淡い白髪は水気を帯び、頬は若干紅潮している。風呂上がりなのだろう。
特段露出が激しいわけではないのだが、どうにも目に毒である。
「あれ?百道君?どうして顔を逸らすの?」
「いや、これは、その」
「うん?」
月美は、百道の脳内を知るよしもなく、不思議そうだ。
「って、あれ?雨君と一緒じゃないの?雨くん、お風呂に入るって言ってたけど」
「あぁ。あの男なら、先に上がった」
「え、百道君をほったらかしにして?」
「待つ素振りはなかったな」
すると月美は頬を膨らませ、
「まったく雨君ったら。お風呂上がりにお部屋の案内するようお願いしてたのに」
と、ご立腹の様子だ。
百道も同意を示す。
「確かに案内は必要だろう。こんな老舗旅館のような豪邸に野放しにされては、流石の俺も困ってしまう」
「そうだよね。雨くんには後できちんとお灸を据えておきます」
それから月美は神妙な面持ちで話題を変えた。
「それでね、れんかちゃんの話なんだけど」
「そうだった。あの娘は、その後どうだ?」
「うん。衰弱してるけど、栄養失調が原因だから、しばらく安静にしてれば大丈夫だと思うよ。それに、危惧していた可能性も殆ど無いと思う」
「つまり、あの娘は人類に無害、ということか?」
「断言はできないけど、変化した星禍という可能性は、限りなくゼロかと」
それを聞いて、百道は胸を撫で下ろした。
月美は医療術理や医学にも精通しているときく。
そんな彼女の太鼓判は、百道としても心強い。
「よかった‥‥ひとまずは安心だな」
しかし月美は憂うように続ける。
「ううん。それが、そうも言えなくて。あの娘、もしかしたら記憶を失ってるのかも知れない」
百道の瞳が大きく見開く。
──記憶喪失。
月美から告げられた事実は、百道にとって予想の範疇であり、しかし、そうでないことを願っていた。
「‥‥そうか。迷惑をかけたな」
「ううん、全然。あの時、助けてあげたいって思ったのは私達もだから。少しでも落ち着いて貰いたかったんだけど、中々難しいね。頼りなくて申し訳ないです」
申し訳なさげに苦笑する月美に、百道は首を振る。
「いいや、辱い。お前たちがいてくれて助かったよ。やはり、あの暴れ馬のような男を御す者は逞しいな」
「伊達に雨君のお世話はしてないからね」
「手の掛る主人を持つと大変だ。それで、彼女は今どこに?」
「廊下を真っ直ぐ進んだ突き当たりの角部屋で休んでもらっています。とてもじゃないけど話せるような状況じゃなかったから。部屋はしばらくお貸ししますので」
「何から何まですまない。代りと言っては何だが、何か俺に出来ることがあれば言ってくれ。買い出し掃除、何でも何度でも構わない」
「大判振る舞いだね。だけど、今のところは特に‥‥」
「ならば借りということだな。必ず返す」
「うん。なら、その時は甘えさせてもらいます」
それから月美は、さも当然のように続けた。
「それでなんだけど、百道君も食べていくよね?晩御飯」
「へ?」と百道から素っ頓狂な声が漏れ出る。
「い、いいのか?い、いや、しかし。それは、俺としてはありがたいが‥‥やはり俺は遠慮する。迷惑だろうしな」
「ううん、五人分も六人分も変わりないし、もう準備も始めちゃった。それに、百道君が居てくれたら、
微笑む月美。
百道は黙考の末に頷いた。
「ならばありがたく──」
「ダメだ」
背後から、語尾を被せるように、強い口調が飛んできた。
振り返ると、黒髪を湿らせた時雨が、不機嫌そうに渋面を浮かべている。
「いらねぇだろ、そんなもん。こんな猿、とっとと外に捨てりゃいいんだ。そんでもって馬に踏み潰されろ」
と、その言葉は普段よりも鋭く、殺気を孕んでいるようだ。
「雨くん‥‥って、あ!また髪の毛乾かしてない!」
「げっ‥‥!」
頬を膨らませる月美が、時雨に急接近した。
詰め寄るように、時雨の肩からタオルを引き抜くと、素早く時雨の髪を乾かし始める。
時雨は傍の椅子に座り込み、なされるがまま大人しく髪を拭かれている。
「もう、雨くんったら。髪の毛濡れたままだと風邪ひいちゃうよ?」
「あん?アホか、俺が風邪なんか引くかよ。んなことよか今は、この猿真似クソ野郎を追い出すことが先決だ」
「追い出すって、も~。そんな汚い言葉遣い、どこで覚えたの?」
「生憎生まれつきだ」
「ふーん。そんなこと言う雨君には、お仕置きが必要だよね。私決めました。雨くんのご飯減らしちゃうから」
月美の台詞に、時雨の黒曜の双眸が大きく見開かれる。
「はぁ?何でこの猿に飯をやらねぇと俺の飯が減るんだよ!?そもそも俺ん家の飯だぞ。誰に食わすかは俺の勝手だろ」
「でも料理するのは私達だよ?だったら、料理については私達に権利があると思います。それに、お当番だって代わって上げたし」
「‥‥本気か?」
「本気です」
譲る気のない頑なな月美の視線から逃れるように、時雨は立ち上がった。
「ソイツに食わすくらいなら飯抜きでいい」
その背に、月美はこれ以上ないほど澄ました顔で問いかける。
「えっと、本当に?今日のお夕飯、筍ご飯だよ?雨君の非常に大好物」
時雨は立ち止まり、振り返る。
相好を渋めた時雨の声質には、言及したくてもできないもどかしさが滲んでいた。
「‥‥好きにしろ」
「はい」
その光景に、百道は感心していた。
先生の話さえ碌に聞かない俺様系男児が、完全に手玉に取られているのだ。
それでいいのか、と問いただしたくもなる。が、一度鎮静化した火に油を注ぐほど百道も馬鹿ではない。
「そういうことだから雨くん。私はそろそろお夕飯の準備に戻らないとなので失礼します。それと百道君。嫌いなものとか食べれないものとかあったら、気兼ねなく教えてね」
月美はそう言い残すと、非常に軽やかな足取りで台所の暖簾の奥へ消えていった。
かと思いきや、暖簾の隙間からひょこりと顔を覗かせる。
「あ、そうだ。百道君。せっかくなら一つ、お願いしても良い?」
※
夏の夜。
頬を撫でる微風と鼓膜を揺する鈴虫。細い道の先を照らす壁掛けの石灯り。
百道は盆を手に、仄暗い回廊を歩いていた。
いや、右往左往と徘徊している。
廊下の突き当たりに見える蔓草模様の扉。この屋敷の最奥部。
その扉の向に、赤髪の少女は閉じ籠もっているらしい。
浜で発見した謎の少女──れんか。
彼女について、百道は何も知らない。
どこか浮世離れした匂いに、見慣れない容姿。
服装も、見た目こそ星祓隊の隊服に近い構造をしていたが、使われている繊維も縫い方も見知らぬものばかりだ。
それに、百道としては、彼女の発したセイサイに言及する台詞が気になる。
彼女がどう言う存在なのか、詳しく知ってゆく必要がある。
場合によっては誠司の元へ掛からなければならない。
星禍ではない、と分かっただけでも進展だろう。
ただ、今はそれどころではない。
彼女の衰弱は酷く、その上、記憶喪失の可能性すらあるのだ。
ならば、記憶を取り戻す手伝いがしたい。
それが百道の思いだった。
「となると、これがその手伝いの、第一歩というわけだ」
先ほどの月美の頼みは、彼女の元へ食事を運んで欲しい、との事だった。
百道の手の盆には、懐かしい味がしそうな蒸しパンが乗っている。
記憶の問題は時間が解決することもあるが、衰弱は火急だ。
何か口に入れなければならない。
だが無理強いはしなくていいとのお達しである。
「まぁ、無理に食べさせたところで吐いてしまっては元もこうもない」
他にも、毛布やタオル、生理用品を詰めた提げなどを持たされた。
こういった些細な気遣いは百道には難しい。
あの二人の女性ならではの気遣いには脱帽である。
──しかし、いや、だからなのか。
百道を苛んでいる悩みの種など、彼女らには理解の及ばぬ事だろう。
「どう声をかければいいのだ‥‥開口一番、切り出しから何も分からん‥‥」
項垂れるように呟く百道に、女性の戸を叩く経験などない。
ましてや塞ぎ込んだ女性という。難題も難題だ。もはや試練に等しい。
だが一度引き受けてしまった手前、簡単に引き下がるにもいかない。
気軽になんでも引き受けるべきじゃない。百道は己の軽率な行動を深く顧みる。
そうしてかれこれ数分以上の間、扉の前を右往左往しているという訳である。
しかしこれでは無駄に時間が過ぎるだけで、一向に状況は好転しない。
百道は、戸を叩いた。
こんこん。
返答はない。
固唾を飲むように佇むが、痛い静寂が過ぎ去る。
返事のない戸に首を竦めつつ、百道はノックを繰り返した。
されど梨の礫。
いい加減腹を括った百道は、慄く喉を叱咤し、舌下を引き締める。
「あ、え、えっと。浜で、お前を拾った者、だ。えっと、そのだな、なんだ。えっとな。ばんめ‥‥夕食を運んできた、つもりだ。だから、良かったら、食べてくれ‥‥」
緊張とそのた諸々で酷い籠りだ。
音声を最大限に和らげたのが裏目に出た。
「俺は、何か温かいめしをくっ、口に入れた方がいいと、思う‥‥のだが‥‥」
声量を上げるが、部屋の奥からの音沙汰はない。
衣擦れ一つ聞こえず、その静謐具合は、部屋を間違えたか?と疑心になってしまうほどである。
しかしそもそも角部屋である。間違えようもない。
これ以上続けても益体はなさそうだ。
百道は盆を手に、踵を返した。
予てよりしつこい男は嫌われるとも言うし、この辺りが引き際だろう。
ふと、脳裏に提言が過ぎる。
──例えば明日記憶喪失になったとする。
ここはどこで、自分は誰なのだろう、知り合いは居るのだろうか。仕事はなんだ。
自分はどこでどうやって何をする、何者なのだろう。
百道は冷や水に打たれたように顔を上げた。
そこは寒く、暗い、闇の中だ。
心細いだろうし、事態を理解し受け入れるのにも、気持ちの整理をつけるにも、時間を要すだろう。
それが今の彼女だ。
百道はその境遇を誰よりも知っている。
思い立つや否、百道は蔓草模様の部屋の前に舞い戻る。
腹の底に息を溜め、思いのままに叫ぶ。
「俺は百道という!!」
裂くような百道の大音声に、部屋の奥が震えた気がした。
「また明日も来る!嫌なら来るなと張り紙でも貼っておいてくれ‥‥!」
百道はそう言い残し、立ち去る。
少しは気が楽になっただろうか。もっと詳細に伝えておくべきだっただろうか。
彼女の荷物を減らすことはできただろうか。
確信はない。百道は基本的に己に自信がないのだ。
だが、きっと、これで大丈夫だ。
廊下を早足に進む足取りは、生真面目な百道にしては軽やかなものだった。
それに、万一の備えとして、部屋には結界が敷かれている、らしい。
夜見曰く、素性の知れぬ者を野放しにするほど間抜けてはいない、とのことだ。
流石抜かりないなと感心する、と同時に不安も募った。
──もし『来るな』の張り紙があったら俺はどうすればいいんだ?
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