第20話

❀詰め腹を切らされる❀




 その夜、遅い時刻に帰宅した亭主は、螢介の報告に耳をかたむけたあと、ネコならば、放っておいてもかまわないと云う。



「でも、おれ、いちおう未成年なんですけど……」



 あんなグラマラスな女性と、ひとつ屋根の下で生活するなど、これまでにない経験である。ネコを家族の一員だと割り切ってしまうには、なかなかむずかしい体形に育っている。螢介が口ごもると、亭主は少し考えこみ、タクシーを呼ぼう、といった。


「タクシー? こんな時間に?」


「乗ってご覧。無事にもどってきたら、きみの問題は解決するよ」


「無事って、なんですか。そんなあやしいタクシー、乗りたくないですよ。ってか、こんな恰好かっこうで、いまからどこへ行くって?」


 螢介は風呂をすませて歯も磨き、パジャマ姿である。亭主にうながされて渋々ジャージに着がえると、車のエンジン音がきこえた。亭主が呼んだタクシーが到着したようだ。


「これをもっていきなさい。なにかあれば、みどり色の公衆電話を探すんだ。お金をいれなくても、ここへは通じるから、わたしに連絡してください」


 亭主がさしだしたものは、一枚の古い写真だった。現像写真は白黒仕上げにつき、写っている人物は彫りの深い老婆にしか見えない。……老婆とネコとおれと、なんの関係があるんだよ。まったくわからねぇ。


 まだ後頭部の瘤が痛む螢介は、無意識に手を添えて、小さくため息を吐いた。



「行っておいで」



 そのことばで見送られるのは二度目につき、いやな予感しかしない。螢介は石づきなめこでもらった文鎮と、老婆の白黒写真をズボンのポケットにしまうと、門扉に横づけされているタクシーへ乗りこんだ。行き先をきかれなかった螢介は、料金表示のスイッチが押されていないのが気になった。どこへ向かって走りだしたのかは不明だが、「すみません」と、後部座席から声をかけた。


「メーターが動いていませんけど、だいじょうぶですか?」


 たずねておきながら、財布を持っていない螢介は、ちょっとした罪悪感と緊張にとらわれた。運転手の男は、「ご心配なく。個人タクシーですので」と、前を向いたまま応じた。おちついた語り口につき、亭主の知りあいだろうかと思った。螢介は、座席にもたれ、雨のふる舗道をながめた。


 

 キィーンと、耳鳴りがする。



 窓の水滴ごしに見える景色はぼやけており、タクシーがどこを走っているのか、よくわからなかった。耳鳴りがひどくなるため、螢介は顔をしかめた。……なんだ、この感じ。雪山にきたような空気の冷たさが、耳のなかに吸いこまれてくるような……。


 暖房のきいたタクシーのなかにいて、からだの芯から寒くなるような冷気を感じた螢介は、いまさら、運転手の姿が消えていたことに気づいた。「まずい!」と叫び、大あわてでドアを蹴破り、車道に転がり落ちると、タクシーはぐにゃりとゆがみ、界面を越えて走り去った。



「あぶねぇ、おれも、タクシーごと消されるところだったぜ……」



 亭主の説明不足はいなめないが、なんとか危機を脱した螢介は、小雨こさめにぬれて歩きだした。さきを急ぐ必要はないが、雨雲は移ろいやすく、やんだかと思えば、雷鳴を轟かせる。びしょぬれるまえに、雨宿りをすることにした螢介は、民家の軒下を借りた。借りたとたん、景気よくカラッと晴れた。



「……なんだ、そりゃ。ふざけやがって」



 思わず、天気に悪態づく。ぬれていたジャージも、たったいま着がえたばかりのように、すっかりかわいていた。ズボンのポケットから白黒写真をとりだすと、民家の二階にある物干し台に出てきた女が、「あら、そこにいるのは、ケイちゃんじゃない」という。螢介が呼ばれたのではない。女は、ほかのだれかと見まちがえたのだ。




〘つづく〙

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