指と指のあいだに

浜辺に打ちあがった魚

指と指のあいだに(1)~(2)


      ⒈

 

 病院で診てもらうと、猫は妊娠していた。五藤君はその診断結果に動揺を隠せなかった。天井から吹き付けるエアーコンディショナーの生ぬるい風が、彼自身も知らないうちにその神経を逆なでしていた。彼はS先生に「そんなわけはない」といった旨のことを言った。けれども超音波検査での結果は、ようよう覆すことはできない。

「でも先生、うちの子は家猫なんですよ? 窓も開けてないし、こんな言い方をするのもなんだが監禁状態なんだ。そんな猫に妊娠の機会があるとは思えないんです」

 男の医者は五藤君の主張に眉を曲げたが、

「そう言われましてもね、当院としては観察したことを、正直にお話しするしかないんです。人間用の普通の医者だってそうします。患者がどこで風邪をもらってきた、だとか、そういうのはね、私どもとしてはわかりかねる話なんですね。五藤さん的にはどうなんですか、猫ちゃんが子どもを産むというのは」

「どう、と言われましても……」

「私としても、こんなこと提案したくないんですがね、いちおう、中絶という手もありますよ。今の段階でしたら、投薬と手術での中絶が可能です。猫ちゃんも人間と同じでね、妊娠が後期になればなるほど母体への影響も大きいですから。判断するなら早い方がいいんですよ」

 猫がお腹に赤ちゃんを抱えるのは、六十日前後なのだという。今は妊娠してから一カ月も経っていないだろうから、産まれるにはまだ時間がある。けれども、そんな悠長な話でないことは、わかるでしょうと医者は言った。無論、五藤君は当然その場で即座に判断できなかった。彼は一度家に話を持ち帰らせてもらうと言った。医者は改めて猫の中絶を提案し、もしも中絶をしないのなら、くれぐれも子猫が面倒だからと言って捨てないようにと忠告した。

「そのほうが、子猫も苦しみが少なく済みますから」

 五藤君は猫の入ったケージを後部座席に積み、車を発進させた。エンジンをかけたとき、カーステレオから流れてくるのは、行き道でかけていたディック・デイルの『Take It Off』だった。陽気な音楽に彼は一瞬戸惑うが、曲を変えるのも面倒だからさっさと方向指示器を出した。どうせ十五分くらいの道だ。

 歩道から車道に落ちて、わずかに車が跳ねて震えるとき、カーステレオの奥でボーカルが「Take It Off!」と叫んだ。

 前方の車両との車間距離を測りながら速度を調節する。付かず離れず、車は血液のように街を走る。誰かが敷いた道路の上をカーナビの青い線が覆いかぶさる。遠くで信号が赤から青に変わり、車はそのまま交差点を通過する。交差点の先で、右手に工事をしているビルがあるのが見えた。どうやら解体中らしく、表面がマグマで溶かされたように垂れていて、煤けた灰色の鉄骨や建物内の様子がのぞいている。そこに何があったか、ということを五藤君は当然知らない。しかし、街から何かが失われたのだという印象だけが彼の心にポツンと浮かんだ。

 突然、愛車がピピピと警告音を鳴らした。すぐさま前方の車に接近しすぎていることを理解し、すぐさまきついブレーキをかけることになった。危険というほどではなかったが、確かにきわどい距離感だった。ぼぅっとしているのもあったし、よそ見をしていたと反省する気持ちもあった。窓を開けて、車内に涼しい風を入れ込んだ。

 油断するな、と五藤君は自分に言い聞かせた。ちゃんと前を見るんだ。


     猫の特徴


 五藤君の猫はいつも不機嫌そうな顔をしていた。それは猫の生来の顔つきなのであって、べつに年中機嫌が悪いわけではないらしかった。だるそうな目が、見る人にそのような印象を与えるのだった。彼女の素性を五藤君はよく知らない。彼女はもともと誰かに捨てられた野良猫だった。彼女は人懐こく五藤君の足元にすり寄り、二年前に拾われたのだ。当時は触るとパンくずみたいにぽろぽろ塗装の禿げる赤い首輪をつけていたが、そこに名前は刻まれていなかった。猫の毛は灰色。身体は少し大きい。太っているとまではいかない。遠くから見ると、なんだかアライグマみたいな猫だ。身体を撫でると不潔な煤のようなものが手に付いた。もし彼女が飼い猫だったら首輪を新しいものに変えてもらったり、風呂に入れられたりするだろうが、彼女は小汚い灰色猫であった。それが彼女の特徴である。それ以外に目立った特徴はない。見た目には、普通の猫である。

 五藤君は彼女の首輪を外し、風呂に入れて清潔にした。そして新しい名前と、新しい首輪を与えた。彼女の名前はその日からランになった。

 ケージを開けると、ランは伸びをしながらのそりと出てきた。マイペースな猫だ。五藤君は彼女のお腹が、なんとなく、病院で診てもらった時よりも、いくぶんか膨らんでいるように感じられた。五藤君はソファの上で寛ぎはじめたランの隣に座り、そのお腹を優しくさすった。ランは五藤君に拾われた日から外との関りを絶った、完全な家猫なのである。拾った時期を考えても、ランが妊娠する機会など、部屋のどこにも落ちていないはずなのである。ランが息つくたび、腹の辺りが空気で可笑しいくらいに大きく膨らんだ。ここに臓器と、子どもとが収まっているとは、到底信じられなかった。

 しかし医者によれば、子猫は順調に腹の中ですくすくと育ち、出産の日を待っているのだという。ランの摂った栄養素や水分は、母体の生命維持装置へ行き渡るとともに、内蔵の中で匿われた猫たちに分配されているわけだ。おかしな話だと思った。信じがたいことだが、五藤君は飼い主として、ランの責任者として決断せねばならなかった。


     水曜日の出来事


 S先生はその日の診療を終え、白衣を脱いで壁にかけ荷物をまとめていた。誰も用事のなくなった休憩室で(そこが彼の更衣室でもある)鼻くそをほじり、ティッシュに丸めてごみ箱に捨てた。女性職員らが業務を終え、着替えを済ませるまでに十五分から二十分の時間を要する。S先生はそのあいだ仕事用の鞄に入れた、短編小説を少しだけ読み進める。作品の尺にもよるが、十五分から二十分もあれば、S先生はひとつ作品読み干すことができる。

 Yさんが休憩室に入ってきたのは、診療終了から十数分後のことだった。おや、今日はずいぶん早いなと思っていたら、Yさんはまだピンク色の制服姿だった。

 S先生はまず彼女の足(タイツ)を見て、それから彼女の顔を見た。Yさんは院内ではとびきり若いのだった。

「お電話です先生」

 その一言で、S先生の機嫌はやや損なわれた。

「てきとうに切っていいよ。もう終業時間だから……」

 S先生が言うと、Yさんは自信のない様子で「でも……」と続けた。

「どうしても……急ぎの用事だというので……」

 立ち上がると同時に、S先生は舌打ちをした。それは意図的な舌打ちではなく、とても自然にでた舌打ちだった。自分でも、どうして舌打ちをしてしまったのだろうと思わないでもない舌打ちだった。考えてみると、舌を動かした拍子に、口内に溜まっていた唾液が跳ねて音が出たのだろうとS先生は自分で納得した。

「先に着替えてていいよ。俺もうやることないから」

 S先生は優しくYさんに言った。最後の戸締りは、いつもS先生の役割であるのだった。女性職員たちのほうでもS先生を気遣い、いつもテキパキと身支度を整えてくれていたのだが、Yさんはまだ若く、そういった院内の空気にまだ染まっていないのだ。多分、仕事への責任感で、つい電話を取ってしまったのだろう。

 S先生はYさんに代わり、電話に出た。

「はいどうもS動物病院です。あのね、申し訳ないんですがね、」

「わたくし、つい受信させていただいた五藤と申しますが、あの先生、ちょっとご相談したいことがありまして」

 まくしたてるように、五藤君はそう言った。S先生は五藤君の走るような話し方に圧倒され、口を挟むタイミングを逃した。五藤君が言うには家に帰ったところ、頻繁に鳴く猫の声を聴いたのだという。不審に思って明かりを点けたところ、猫はいつもの寝床で倒れ込むように横たわっていたのだという。彼が言うことには、猫は自分に向かって明らかに異常を訴えていて、猫は痛みのあまり立ち上がり、位置を変えると再び横たわり、先ほどからしきりに尻尾のほうを気にしているのだという。つまるところ、自分の飼い猫はどう見ても今まさに出産の時を迎えようとしている。けれどもS先生は、猫が出産するまでには六十日前後の時間がかかると言っていた。これはどうしたことだろうと五藤君は言った。S先生はひとまず、五藤君に落ち着くようにと言った。それからS先生は流産の可能性をまず念頭におきながら、適宜、簡単に猫の様子を受話器越しに聴いていった。

     〇

 もちろん、五藤君の焦りが彼の判断能力を著しく低下させ、飼い猫が出産しようとしているなどと、妙な勘違いをさせた可能性だってあった。我々と同様に、S先生も急すぎる要請を、そう、うまく飲み込めなかった。他の心配性すぎる飼い主同様、五藤君のほうに問題があるとすら思ったことだろう。

 けれどもこの時ばかりは、ランに寄り添っていた五藤君の直感が的確であったというほかない。五藤君は急いで洗面台へ向かい、そこで清潔な白いタオルを何枚か持ってきた。そして、あり得ない速度で発達し、生まれた赤子を、彼が取り上げたのだ。


      ⒉


 ランと五藤君は、まったくもって奇怪な生命の誕生に遭遇した。それはあり得ない妊娠にはじまり、尋常ならざる出産に終わった。

 受話器を床に放り出し、タオルで迎えようとした、生まれ落ちたランの子どもは赤黒い半透明な羊膜に覆われ、消しゴム程度の、あまりに小さな状態でランの身体から出てきた。五藤君は思わず「産まれました!」と大きな声で叫んだ。S先生もまた受話器越しに「生まれたぁ?」と皮肉っぽく言った。「どうしたらいいですか」と五藤君はS先生に尋ねた。先生は「母猫はどんな様子ですか」と尋ねた。「特に何も」と五藤君は見たままのことを言った。それどころか、ランは子どもを産み落としてしまうと、ようやく重荷を下ろせたと言わんばかりに身体をぶるぶると振り、その場を去っていった。どうしたことだろうと思っていると、ランの子どもが膜を被ったままモゾモゾと動きはじめた。それは膜を割いて頭を出した……五藤君がまず目にしたのは三日月のような形をした白い爪だった。それは身体を伸縮させ、さながら芋虫のように、羊水にまみれながら這いずり出てきた。それは信じがたいことに、人の指の形をしていた。

 あまりにおぞましい景色に、五藤君は絶句していた。

「もしもし? あの、もしもーし」

 彼が言葉を失っているあいだに、S先生は静かに電話を切った。芋虫のように自立して動く一本の指はまるで乳房を探す赤子のように前進しはじめた。五藤君は反射的に、自分よりも何倍も身体の小さな、その奇怪な生物を不気味に感じ、身体を翻した。まったくもって、身体の大きな生き物は、小さな生き物に比べて守らねばならぬ体積が大きいものだ。逃走とは人間にとり、もっとも効率の良い、まさしく最大の防御と言えよう。


     奇怪な小指の対処法について


 ばくばく動く心臓や、嫌悪感や好奇心をさておき、五藤君は奇妙な指の対処法をはやく確立せねばならなかった。あれを自由に、フローリングを這わせておいていいわけがないのである。まずは指を収容する容器が必要だった。従来ならば母の乳房の近くや、保育器などに収容するのが普通だが、五藤君が台所から慌てて持ってきた捕獲機というのは、どこの家庭にもあるような、一般的な透明なコップであった。

 芋虫のように這う指は、前進しながら新鮮な血を垂らしていた。五藤君は部屋を大きく回って、指の後ろにまわってみた。するとどうやら小指の尾の部分、すなわち断面は塞がっておらず、未だ生々しい傷口を開いたまま、血を流したままであった。指が這うたびに、血の跡が直線状に続く。

 瞬間、五藤君は嫌悪感を克服し、指の進行方向へコップを傾けた。それは子どもの頃、押し潰しまいと、蟻を手のひらに乗せていたときの感覚に似ていた。彼の手のひらには蟻が皮膚を噛まないかという恐れが張り詰めていた……指は視力のうとい、触角を動かす昆虫のように、地面からコップの縁へ移る小さな段差の直前になって、一瞬何かをためらう素振りを見せた。が、指は五藤君が予想していたよりも従順に、すんなりとコップの中へ入り込んだ。五藤君は小指が逃げ出すよりも早くコップを立てて、指が飛び出さないよう、小走りで台所へ向かった。

 彼はコップの上に何重にもラップをかけ、緑や茶色の輪ゴムで留めた。指はつるつるとしたコップの中を指先でなぞり、どうやら、もうどこにも行けない様子だった。コップの底には微小な血がすでに溜まりはじめていた……五藤君は少し考えたあと、蓋として機能していたラップに、爪楊枝で三点ほど穴をあけた。要するにそれは空気穴である。

 これでいいだろう。

 五藤君はようやく一息ついて、煙草に火を点けた。ひどい緊張をしたせいか、彼の手の下では急速に血が流れはじめた感覚があり、軽い痺れを起こしていた。換気扇のスイッチを入れ、指を収容したコップと灰皿とを手元に置く。彼は煙草を味わうよりも、閉じ込められた指が思いもよらぬ方法で自分に反抗しまいかと、まだ恐ろしかった。

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